銀魂BL小説
ほわりとした空気に体がまるごとつつまれる。厨房から流れてくる柔らかな湯気、出汁のいい匂い、酔っぱらいたちの陽気な笑い声。ぜんぶが混ざり合って、狭い店内をほわほわと漂っている。あたたかい、心地いい、楽しい。銀時は上機嫌で目の前の杯をあおる。きゅうっと喉をとおっていく、熱い感覚。また体温が上がって、気分も一緒に浮上する。
「おら、おめーも呑めよ」
銀時は隣の男の杯にもとぽとぽと酒を注いだ。と言っても、もともと男の酒なのだけれど。
男が物言いたげな視線を向けてくる。「もともと俺の酒だ」とか何とか言われるかな、と思ったが、けれど男はけっきょく何も言わなかった。ただ、仕方ない奴、とでも言いたげに少し目を細められた。その細めた目元にうっすらと朱が滲んでいて、いつも涼やかな目とは違って見えて、不思議な気分だ。ちいさく心臓が跳ねて、それを誤魔化すようにまた酒をあおる。
「おい、呑みすぎんなよ」
男が肘で小突いてくる。着物ごしに伝わる硬い骨の感触と、ほのかな腕の体温。あ、と思った。視界がほんのちょっと揺れた。酒のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
男とこうして呑むようになって、もうずいぶんと経つ。はじめは鉢合わせるたびに互いにしかめっ面をして、罵り合っていた。そのうち、ちょっと眉をひそめてみせつつ嫌味をひとつこぼすくらいになった。そして今は、ちょっかいをかけて軽口を叩いて、笑い合ったりしている。不思議なものだと思う、まるで他人事のように。けれどまぁいずれこうなるような気がしていたとも思う、まるで確信のように。
普段はそれほど口数が多くない男が、とつとつと取りとめのないことを話している。低くて落ち着いた声が耳に心地いい。うん、うん、と相槌をうちながら、伏せたまつげが綺麗だと思った。呑み屋によくあるぼわりとした橙色の明かりでさえ、男の長いまつげの上では眩い光の粒になる。
指先が、なぜかちりちりと熱を帯びた。焦げているみたいに。
夜もとっぷりと更けて、酔っ払いたちもだんだんと帰っていって、少しずつ空気がしんとしていく。だらりと寛いだ静穏と、ふと張りつめたような静謐とが入り混じった、なんとも言えない空気。ブーツの中の足がかすかに冷えた気がして、じりじりする。
「さて、もう出るか。おまえ酔ってるし」
「ええ、酔ってねえよ」
「酔っ払いはみんなそう言うんだよ」
親父、勘定頼む。そう言った男のまっすぐな声が、いやに耳に響いた。指先の熱がいっそう深くなった気がして、銀時は手のひらを握りしめる。
店の外はもうまっくらな夜で、思っていたより肌寒かった。風があるわけでもないのに、肌の表面を少しの冷たさがすうっと這う。思わず腕をさする。
男はあまり酔っていないようだった。朱が滲んでいるのは目元だけだし、「やっぱりまだ少し寒いな」と話す呂律もしっかりとしている。けれど、足どりだけは少しだけいつもよりゆっくりしている気がした。ただの気のせいかもしれないけれど。
満月になる直前の、かすかに欠けた月が照らす夜道を並んで歩く。冴えた月明かりが白くて、なんだか寒々として見える。さっきまでのほわりとしたぬくもりが恋しい。
やがて橋へとさしかかる。この橋を渡れば、万事屋は右で真選組屯所は左。ふいに、なにか長い話がしたくなった。長くて、面白くて、思わず足が止まるような。けれど酔いの回った頭ではそんなもの思い浮かばなくて、たださっきまでと同じようにつらつらと歩く。
ほのかな白に照らされた橋の表面で砂粒がきらきらと光っている。橋を渡り終えて、半歩先を歩いていた男が振り返った。まっくろな髪が揺れるさまが妙にゆっくりとして見えた。まっすぐな瞳が銀時をとらえる。朱に染まった目元なのに、その瞳はやっぱりどこまでもまっすぐだった。
指先の熱がぶり返す。それどころか、心臓が波打つごとにじわり、じわりと全身に広がってゆく。頬がやたらと熱い。何か言いたいような、言わなければいけないような気がしてくる。
けれど、何を言えばいいのか、わからない。
男がほんの小さく息を吐き出した。思わずぴくりと指先が揺れる。手を伸ばしかける。
「じゃあ、またな」
落ち着いた低い声で男が言う。形のよい唇はわずかに笑みのかたちを刻んでいた。あ、と思う。指先が焦げる。
さっさと歩く男の黒い背中が闇に消えていくのを、銀時は見送る。冷たい月光が頬に溶けて、皮膚のなかに染みこんでいくのを感じる。
あのほわりとしたぬくもりの名前はしあわせだったと、ふと気づいた。