銀魂BL小説
改札を走るように通り抜けつつ、銀時は腕時計を確かめる。針が示す時刻は午前七時五十二分。電車が来るまであと五分しかない。春休みボケしていたせいで目覚ましをかけ忘れてしまい、ギリギリの時間になってしまった。とは言え、五十七分の電車に乗り遅れたところで学校に遅刻することはないのだけれど。それでも、どうしてもあの電車に乗らなければならないのだ。
人が行き交う階段を小走りでのぼる。すれ違う人たちの香水や整髪料の入り混じった雑多な匂いが鼻先を掠めた。通勤通学ラッシュの駅というものは、朝特有の爽やかな空気をすべてかき消してしまうくらい殺伐としていて、乾いた空気が漂っている。今は四月なので、それにくわえて新入生や新入社員が醸しだす緊張感もピリピリと空気中を伝播している。うららかな陽気でさえ、駅の中には届かないようだ。
ホームに着くと、すでに白線に沿って小さな列がいくつかできていた。そのうちの、先頭に近い場所にある列の最後尾へと並ぶ。ここが銀時の定位置だ。どれだけ寝坊しても、気合いと意地で毎朝必ず同じ時刻の同じ車両に乗っている。
それは、彼に会うため。
一年前、入学式に向かう電車の中で初めて見かけた彼。身体より少し大きめのまっさらな学生服に身を包んだ彼に、銀時は思わず目を奪われた。
ごみごみとした雰囲気の車内で、彼の周囲だけが清廉だった。そこだけ深い森の奥のような、吸い込まれそうな星空のような、静謐な空気。喧騒も緊張も気怠さも、すべてが打ち消される。澄みきった静かな瞳は、研ぎ澄まされた刀を思わせた。
銀時の通う高校から二駅先の高校に通っているらしい彼は、毎日きっかり同じ時刻の電車の同じ車両に乗る。だから銀時も彼に倣う。毎朝、彼に会うために。
やがて電車接近を知らせるメロディーが鳴って、低い音を轟かせながら銀色の電車がホームに滑り込んできた。電車が連れてきた風が銀髪をふわりとなびかせる。銀時はあちこち跳ね回る髪をささっと手櫛で整えた。
鉄の扉がゆっくりと開く。降りてきた二、三人と入れ違いで、列になっていた六、七人がぞろぞろと乗り込む。
いつもは座席がギリギリ埋まるくらい、たまにドア付近に立っている人がいる程度の混雑具合の車両は、今日は座席どころかつり革も半分が埋まるほど乗客が多い。銀時のいつもの定位置の座席も見慣れないサラリーマンが既に座っていた。仕方なく、空いていたドア横に立つ。
ゆるい振動とともに、電車が動きだす。なんとなく銀時は小さなため息を吐き出した。それから、いつものごとく彼の姿を探す。
こんな混雑だけれど、銀時とは違って彼はいつまの定位置にいた。向かって右側の列の、端の方の席。それは、銀時が立っているドア付近からほど近い場所だ。いつもは遠くから眺めるだけだから、いつもより少しだけ近い距離が嬉しい。銀時は弛みそうになる頬を手の甲で隠した。
そのとき、突然彼が立ち上がった。
どうしたのかと思いつつ銀時は目の端で様子を窺う。荷物を持って立った彼は、彼の前の吊革にやっとのことで掴まっているスーツ姿の女の人に、「よかったら座ってください」と声をかけた。
なるほど。銀時は感心した。新品らしいスーツを着た彼女はきっと新入社員で、まだ慣れていないパンプスを履いている。電車が揺れるたびによろよろとたたらを踏んでいるのを彼は見ていたのだろう。小柄な彼女は吊革にしっかり掴まることも難しそうだし。
銀時は胸の裏側がじわじわとあたたかくなるのを感じた。彼のこういうところが好きなのだ。素っ気なさそうな、澄ました顔をしているのに、ふとしたときに優しさを見せる。そしてそれをひけらかすことなく、やっぱり涼しい顔をしている。今だって、頬を紅潮させてどぎまぎしている彼女の「ありがとうございます」の言葉に、顔色を変えることなく「いえ」とだけ答えている。
ほこほことした気持ちを噛みしめていると、ふいに彼がこちらに向かって歩いてきた。
そしてそのまま、銀時の隣に立つ。
銀時はぎょっとした。口から心臓が飛び出すかと思った。思わず口元を押さえる。喉元まで迫り上がった心臓がドコドコと全力疾走している。
まさか、目の前に来るなんて。すぐそばにいるのに、いやいるからこそ、直視できない。目の端に映る黒髪が揺れて、ふわりとかすかに石鹸のような匂いがする。それだけでなぜか胸が詰まる。また鼓動が速くなる。
もし、話しかけることができたら。そうすればそっと盗み見るだけの関係から脱却できるだろう。けれど、どうしてもその勇気が出ない。銀時は手すりを握る右手に力を込めた。いつも飄々として、「口から先に生まれた」を体現するような普段の銀時を知っている悪友たちが今の状況を知れば、きっと腹を抱えて爆笑するだろう。ただでさえ、中学では毎日遅刻ギリギリだった銀時が高校入学後は毎日二十分も余裕を持って登校していることを散々笑われているのに。
一年間、ずっと遠くから眺めるだけだったのだ。それが今、こんなに近くに彼がいる。それだけできっと充分なのだ。銀時はそっと目を伏せた。
電車はカーブに差し掛かった。遠心力で身体が傾く。
そのとき、視界の隅で、彼の身体が大きく揺れるのが見えた。あっ、と思う間もなく彼がこちらへ飛び込んでくる。
「うおっと!」
とっさに受け止める。次の瞬間、事態を理解して頭が真っ白に爆ぜた。腕の中に、彼がいる。なんだかいい匂いがする。体格はほとんど自分と変わらないと思っていたけれど、抱きとめた身体は想像よりも少し薄かった。
まるで今からワルツでも踊れそうな距離感だ。速まる鼓動の音すらすべて彼に聴こえてしまいそうなほど。履き潰した銀時のスニーカーに、彼の靴がこつんとぶつかる。
「す、すまねぇ」
顔を上げた彼が銀時を見る。さらさらと流れる黒い前髪のあいだから覗く、涼しげな双眸。まっすぐな視線に心臓のど真ん中を射抜かれて、血のかわりに光がこぼれる。
「あ、いや、全然平気。そっちこそ大丈夫?」
「ああ、おかげさまで」
低く落ち着いた声が耳のそばで聴こえる。耳が痺れるように熱くなる。
体制を立て直した彼はゆっくりと腕の中から離れていく。けれど、左腕にはまだほのかなぬくもりと感触が残っている。ブレザー、クリーニングに出したとこでよかった。しばらくは洗わずにいられる。夢見心地のふわふわした思考でそんなことを考える。
「……いつもこの車両乗ってるよな」
「え、俺のこと知ってるの?」
銀時はいつもは半分ほどしか開いていない目を大きく見開いた。
「そりゃあ、毎朝見かけてるし」
信じられない。心の中で大きくガッツポーズをする。ただただ一方的に眺めているだけだから、彼の視界に自分はいっさい入っていないのだと思っていたのに。
次の停車駅を告げるアナウンスが響く。次の駅は、銀時の高校の最寄り駅だ。つまり、今日はここでお別れの時間。少しずつゆっくりになっていく電車の速度。
「あのさ」
意を決して、銀時は口を開く。
「俺、明日もこの電車に乗るから」
彼の涼やかな色合いの瞳がほんの少し訝しむように細められる。怯みそうになるが、それでも胸に募った思いのかけらを言葉へとかたどる。明日、おはようと声をかけて今日の続きを始められるように。
「だから、また明日!」
一瞬呆気にとられたようにぽかんとした表情を見せた彼は、けれどすぐにくすっと笑った。
「おう、また明日」
開いた扉の向こうから、春の柔らかな風が吹き込んできた。
人が行き交う階段を小走りでのぼる。すれ違う人たちの香水や整髪料の入り混じった雑多な匂いが鼻先を掠めた。通勤通学ラッシュの駅というものは、朝特有の爽やかな空気をすべてかき消してしまうくらい殺伐としていて、乾いた空気が漂っている。今は四月なので、それにくわえて新入生や新入社員が醸しだす緊張感もピリピリと空気中を伝播している。うららかな陽気でさえ、駅の中には届かないようだ。
ホームに着くと、すでに白線に沿って小さな列がいくつかできていた。そのうちの、先頭に近い場所にある列の最後尾へと並ぶ。ここが銀時の定位置だ。どれだけ寝坊しても、気合いと意地で毎朝必ず同じ時刻の同じ車両に乗っている。
それは、彼に会うため。
一年前、入学式に向かう電車の中で初めて見かけた彼。身体より少し大きめのまっさらな学生服に身を包んだ彼に、銀時は思わず目を奪われた。
ごみごみとした雰囲気の車内で、彼の周囲だけが清廉だった。そこだけ深い森の奥のような、吸い込まれそうな星空のような、静謐な空気。喧騒も緊張も気怠さも、すべてが打ち消される。澄みきった静かな瞳は、研ぎ澄まされた刀を思わせた。
銀時の通う高校から二駅先の高校に通っているらしい彼は、毎日きっかり同じ時刻の電車の同じ車両に乗る。だから銀時も彼に倣う。毎朝、彼に会うために。
やがて電車接近を知らせるメロディーが鳴って、低い音を轟かせながら銀色の電車がホームに滑り込んできた。電車が連れてきた風が銀髪をふわりとなびかせる。銀時はあちこち跳ね回る髪をささっと手櫛で整えた。
鉄の扉がゆっくりと開く。降りてきた二、三人と入れ違いで、列になっていた六、七人がぞろぞろと乗り込む。
いつもは座席がギリギリ埋まるくらい、たまにドア付近に立っている人がいる程度の混雑具合の車両は、今日は座席どころかつり革も半分が埋まるほど乗客が多い。銀時のいつもの定位置の座席も見慣れないサラリーマンが既に座っていた。仕方なく、空いていたドア横に立つ。
ゆるい振動とともに、電車が動きだす。なんとなく銀時は小さなため息を吐き出した。それから、いつものごとく彼の姿を探す。
こんな混雑だけれど、銀時とは違って彼はいつまの定位置にいた。向かって右側の列の、端の方の席。それは、銀時が立っているドア付近からほど近い場所だ。いつもは遠くから眺めるだけだから、いつもより少しだけ近い距離が嬉しい。銀時は弛みそうになる頬を手の甲で隠した。
そのとき、突然彼が立ち上がった。
どうしたのかと思いつつ銀時は目の端で様子を窺う。荷物を持って立った彼は、彼の前の吊革にやっとのことで掴まっているスーツ姿の女の人に、「よかったら座ってください」と声をかけた。
なるほど。銀時は感心した。新品らしいスーツを着た彼女はきっと新入社員で、まだ慣れていないパンプスを履いている。電車が揺れるたびによろよろとたたらを踏んでいるのを彼は見ていたのだろう。小柄な彼女は吊革にしっかり掴まることも難しそうだし。
銀時は胸の裏側がじわじわとあたたかくなるのを感じた。彼のこういうところが好きなのだ。素っ気なさそうな、澄ました顔をしているのに、ふとしたときに優しさを見せる。そしてそれをひけらかすことなく、やっぱり涼しい顔をしている。今だって、頬を紅潮させてどぎまぎしている彼女の「ありがとうございます」の言葉に、顔色を変えることなく「いえ」とだけ答えている。
ほこほことした気持ちを噛みしめていると、ふいに彼がこちらに向かって歩いてきた。
そしてそのまま、銀時の隣に立つ。
銀時はぎょっとした。口から心臓が飛び出すかと思った。思わず口元を押さえる。喉元まで迫り上がった心臓がドコドコと全力疾走している。
まさか、目の前に来るなんて。すぐそばにいるのに、いやいるからこそ、直視できない。目の端に映る黒髪が揺れて、ふわりとかすかに石鹸のような匂いがする。それだけでなぜか胸が詰まる。また鼓動が速くなる。
もし、話しかけることができたら。そうすればそっと盗み見るだけの関係から脱却できるだろう。けれど、どうしてもその勇気が出ない。銀時は手すりを握る右手に力を込めた。いつも飄々として、「口から先に生まれた」を体現するような普段の銀時を知っている悪友たちが今の状況を知れば、きっと腹を抱えて爆笑するだろう。ただでさえ、中学では毎日遅刻ギリギリだった銀時が高校入学後は毎日二十分も余裕を持って登校していることを散々笑われているのに。
一年間、ずっと遠くから眺めるだけだったのだ。それが今、こんなに近くに彼がいる。それだけできっと充分なのだ。銀時はそっと目を伏せた。
電車はカーブに差し掛かった。遠心力で身体が傾く。
そのとき、視界の隅で、彼の身体が大きく揺れるのが見えた。あっ、と思う間もなく彼がこちらへ飛び込んでくる。
「うおっと!」
とっさに受け止める。次の瞬間、事態を理解して頭が真っ白に爆ぜた。腕の中に、彼がいる。なんだかいい匂いがする。体格はほとんど自分と変わらないと思っていたけれど、抱きとめた身体は想像よりも少し薄かった。
まるで今からワルツでも踊れそうな距離感だ。速まる鼓動の音すらすべて彼に聴こえてしまいそうなほど。履き潰した銀時のスニーカーに、彼の靴がこつんとぶつかる。
「す、すまねぇ」
顔を上げた彼が銀時を見る。さらさらと流れる黒い前髪のあいだから覗く、涼しげな双眸。まっすぐな視線に心臓のど真ん中を射抜かれて、血のかわりに光がこぼれる。
「あ、いや、全然平気。そっちこそ大丈夫?」
「ああ、おかげさまで」
低く落ち着いた声が耳のそばで聴こえる。耳が痺れるように熱くなる。
体制を立て直した彼はゆっくりと腕の中から離れていく。けれど、左腕にはまだほのかなぬくもりと感触が残っている。ブレザー、クリーニングに出したとこでよかった。しばらくは洗わずにいられる。夢見心地のふわふわした思考でそんなことを考える。
「……いつもこの車両乗ってるよな」
「え、俺のこと知ってるの?」
銀時はいつもは半分ほどしか開いていない目を大きく見開いた。
「そりゃあ、毎朝見かけてるし」
信じられない。心の中で大きくガッツポーズをする。ただただ一方的に眺めているだけだから、彼の視界に自分はいっさい入っていないのだと思っていたのに。
次の停車駅を告げるアナウンスが響く。次の駅は、銀時の高校の最寄り駅だ。つまり、今日はここでお別れの時間。少しずつゆっくりになっていく電車の速度。
「あのさ」
意を決して、銀時は口を開く。
「俺、明日もこの電車に乗るから」
彼の涼やかな色合いの瞳がほんの少し訝しむように細められる。怯みそうになるが、それでも胸に募った思いのかけらを言葉へとかたどる。明日、おはようと声をかけて今日の続きを始められるように。
「だから、また明日!」
一瞬呆気にとられたようにぽかんとした表情を見せた彼は、けれどすぐにくすっと笑った。
「おう、また明日」
開いた扉の向こうから、春の柔らかな風が吹き込んできた。