銀魂BL小説
駅の外には細い雨が降っている。春先の、ほんの気まぐれのような通り雨。薄曇の空のすきまから射す陽光にきらきらと光る雨は、まるで銀糸のようだった。
大きなターミナル駅は当然のごとく人でごった返している。ざわざわとした人の気配、何重にもなって響く足音、ホームから微かに聴こえるひっきりなしのアナウンス。その中心から外れた、軒先のような隅の場所に、土方はいた。
左手の腕時計をチラリと見やる。二つの針は午後四時五十分過ぎを指していた。約束の時刻まで、あと十分足らず。
土方は横目でそっと周囲を窺った。自分と同じように駅構内の隅に立ち、行き交う人々をスマートフォンを握りしめて熱心に見つめている人。その誰もがソワソワと浮き立った雰囲気を滲ませている。土方は指先で黒い前髪をいじる。
在校時、幾度となく彼にからかわれた、その前髪。
波音のような周囲の騒めきにぼんやりと耳を傾けていると、だんだんとまるで深い藍色の海に沈んでいくような心地になる。深くて静かで遠い、記憶の海のなかに。
彼のことが気になりだしたのは、果たしていつの頃からだっただろうか。はっきりと自覚をしたきっかけすらなく、気がついたときにはもう視線は彼を追っていた。
挙句、どこが気になるのかすら明確には分からなかった。なんせ、たいがいは適当でちゃらんぽらんな人であったから。授業中に飴を舐めていたり、ホームルームの時間にジャンプを読んでいたりするような。
それでも、決してそれだけの人ではなかった。
たとえば、夏の盛りの日、水泳の後の塩素の匂いと眠気だけが充満する教室で、ほとんどの生徒は机に突っ伏して寝息を立てていてもなお、普段と変わらない調子で教科書を読みあげる深い声だとか。たとえば、球技大会のとき、バスケットボールの試合の後、体育館裏の水道口で試合中に捻った足を冷やしていると不意に手渡されたスポーツドリンクと、「無理はすんなよ」と軽く髪を撫でた手のひらだとか。もしくは、冬の冷たさが沁みる頃、前日にやった模試の分からない問題について質問するために、彼の根城となっている国語科準備室を訪れたとき、「内緒な」と振る舞われたココアのほっとする甘さだったり。
そういう、言葉にするのが難しいような、言葉にすると途端に陳腐になるような、そんなちいさな『なんかいいな』を集めていくうちに、どうしようもなく惹かれていた。もっと近づきたいと願うようになっていた。
けれど、その気持ちに明確に『恋』の名前を付けられたのは、卒業した後だった。
だから卒業式はあっけないものだった。
確かに胸の裏側が焦がされるような寂しさや切なさを感じていたはずなのに、けれどそれを伝えることはできなかった。いつもの薄汚れた白衣ではなくほんの少しよれたスーツを着た彼をまっすぐ見ることもできず、ただ俯いて机の上を見つめていた。本当は、胸の内のあえかな好意や想いは伝えられずとも、募る感謝の気持ちだけでも伝えたかったのに。
やがてホームルームも終わり、名前も知らない女子たちから一緒に写真を撮ってくれと頼まれるのに辟易して、校庭にできた人の輪から外れた場所でひとりで立っていたときだった。まだ蕾さえつかない桜の木をなんとなく見上げていると、ふと隣に彼が来た。
「写真、いいの」
皺のついたスラックスのポケットに両手を突っ込んだ彼が、ちいさく顎をしゃくってみせた。その先には、寂しさを滲ませつつそれでもはしゃいでみせるクラスメイトたちの背中がある。
「賑やかなの、苦手なんで」
「おまえらしいな」
ふ、と彼が笑う。かすれたような陽光を受けた銀色の髪がかすかに揺れる。視界の端でちらちらと光るそれに、思わず目を細めた。胸がぎゅっとなり、言いようのない切なさが溢れる。
「まあ、なんだ。元気でやれよ」
彼の大きな手が頭に触れる。髪越しに感じる柔らかなぬくもり。「はい」と答えたはずの声は舌の上に溶けて、言葉にはならなかった。
春先の風はまだ冷たくて、晴れた空は遠かった。
くしゅん、とくしゃみをひとつして、土方は空を見上げる。いつの間にか雨はやんでいた。まだらに浮かぶ薄い灰色の雲の向こうに、青く澄んだ空が見える。湿ったコンクリートの匂いがかすかに鼻を掠めた。
もう一度、腕時計に目をやる。示す時刻はちょうど午後五時。土方はひっきりなしに行き交う人混みに視線を移した。まるで意思を持ったひとつの塊のようにうごめくそれに、じっと目を凝らす。
と、視界にひとりの男が飛び込んできた。
灰色の人混みの中にいながら、その男だけ周囲から浮かびあがって見える。まるでうっすらと発光しているかのようだ。雨上がりの澄んだ陽射しを浴びて、彼の銀髪が瞬くように光る。
「先生」
たまらず呼びかける。気づいた彼が顔を上げて、視線が絡む。
「もう先生じゃねぇだろ」
卒業してもう何年経つと思ってんだ、と彼が笑った。教室では見たことがないような、柔らかに弧を描き細められたまなじり。ふわり、と心の中にあたたかな風が吹いた。揺れた彼の髪から小さな雨粒の雫が滴る。
三ヶ月前に開かれた同窓会で再会した彼は、在校時となにも変わっていなかった。手の届かない遠い思い出なのだと身勝手な美化をしていたら、と思うと怖くて、卒業アルバムはただの一度も開いたことがなかった。だから彼の顔を見るのは本当に卒業以来だった。
それでも、先生は変わっていなかった。忘れることができずに、記憶の奥底に大切に仕舞い込んでいたのとまったく同じ深い声、大きな手のひら、緩んだ雰囲気。ガタ、と音を立てて何かが外れる気配がした。
それから忍び寄るように距離を詰めて、ほとんど勢いのまま積年の想いを告げて、砕ける覚悟をしていたのに予想外にも同じ気持ちを伝えられて、『教師と生徒』でしかなかった関係は、もっと特別なものにかたちを変えた。
あの夜から、彼と逢うのは今日が初めて。
「ほら、行こうぜ」
小さく微笑んで、銀八が言う。胸がきゅっとなって、堪らない気持ちになる。
昔は触れたいと夢見ることすらないほど淡く遠かった彼が、今はすぐに手が触れるほどそばにいる。
同じ歩幅で、隣を歩いていけること。澄んだ銀色の光が射す雨上がりの空の下に、二人は揃って歩きだしていく。
大きなターミナル駅は当然のごとく人でごった返している。ざわざわとした人の気配、何重にもなって響く足音、ホームから微かに聴こえるひっきりなしのアナウンス。その中心から外れた、軒先のような隅の場所に、土方はいた。
左手の腕時計をチラリと見やる。二つの針は午後四時五十分過ぎを指していた。約束の時刻まで、あと十分足らず。
土方は横目でそっと周囲を窺った。自分と同じように駅構内の隅に立ち、行き交う人々をスマートフォンを握りしめて熱心に見つめている人。その誰もがソワソワと浮き立った雰囲気を滲ませている。土方は指先で黒い前髪をいじる。
在校時、幾度となく彼にからかわれた、その前髪。
波音のような周囲の騒めきにぼんやりと耳を傾けていると、だんだんとまるで深い藍色の海に沈んでいくような心地になる。深くて静かで遠い、記憶の海のなかに。
彼のことが気になりだしたのは、果たしていつの頃からだっただろうか。はっきりと自覚をしたきっかけすらなく、気がついたときにはもう視線は彼を追っていた。
挙句、どこが気になるのかすら明確には分からなかった。なんせ、たいがいは適当でちゃらんぽらんな人であったから。授業中に飴を舐めていたり、ホームルームの時間にジャンプを読んでいたりするような。
それでも、決してそれだけの人ではなかった。
たとえば、夏の盛りの日、水泳の後の塩素の匂いと眠気だけが充満する教室で、ほとんどの生徒は机に突っ伏して寝息を立てていてもなお、普段と変わらない調子で教科書を読みあげる深い声だとか。たとえば、球技大会のとき、バスケットボールの試合の後、体育館裏の水道口で試合中に捻った足を冷やしていると不意に手渡されたスポーツドリンクと、「無理はすんなよ」と軽く髪を撫でた手のひらだとか。もしくは、冬の冷たさが沁みる頃、前日にやった模試の分からない問題について質問するために、彼の根城となっている国語科準備室を訪れたとき、「内緒な」と振る舞われたココアのほっとする甘さだったり。
そういう、言葉にするのが難しいような、言葉にすると途端に陳腐になるような、そんなちいさな『なんかいいな』を集めていくうちに、どうしようもなく惹かれていた。もっと近づきたいと願うようになっていた。
けれど、その気持ちに明確に『恋』の名前を付けられたのは、卒業した後だった。
だから卒業式はあっけないものだった。
確かに胸の裏側が焦がされるような寂しさや切なさを感じていたはずなのに、けれどそれを伝えることはできなかった。いつもの薄汚れた白衣ではなくほんの少しよれたスーツを着た彼をまっすぐ見ることもできず、ただ俯いて机の上を見つめていた。本当は、胸の内のあえかな好意や想いは伝えられずとも、募る感謝の気持ちだけでも伝えたかったのに。
やがてホームルームも終わり、名前も知らない女子たちから一緒に写真を撮ってくれと頼まれるのに辟易して、校庭にできた人の輪から外れた場所でひとりで立っていたときだった。まだ蕾さえつかない桜の木をなんとなく見上げていると、ふと隣に彼が来た。
「写真、いいの」
皺のついたスラックスのポケットに両手を突っ込んだ彼が、ちいさく顎をしゃくってみせた。その先には、寂しさを滲ませつつそれでもはしゃいでみせるクラスメイトたちの背中がある。
「賑やかなの、苦手なんで」
「おまえらしいな」
ふ、と彼が笑う。かすれたような陽光を受けた銀色の髪がかすかに揺れる。視界の端でちらちらと光るそれに、思わず目を細めた。胸がぎゅっとなり、言いようのない切なさが溢れる。
「まあ、なんだ。元気でやれよ」
彼の大きな手が頭に触れる。髪越しに感じる柔らかなぬくもり。「はい」と答えたはずの声は舌の上に溶けて、言葉にはならなかった。
春先の風はまだ冷たくて、晴れた空は遠かった。
くしゅん、とくしゃみをひとつして、土方は空を見上げる。いつの間にか雨はやんでいた。まだらに浮かぶ薄い灰色の雲の向こうに、青く澄んだ空が見える。湿ったコンクリートの匂いがかすかに鼻を掠めた。
もう一度、腕時計に目をやる。示す時刻はちょうど午後五時。土方はひっきりなしに行き交う人混みに視線を移した。まるで意思を持ったひとつの塊のようにうごめくそれに、じっと目を凝らす。
と、視界にひとりの男が飛び込んできた。
灰色の人混みの中にいながら、その男だけ周囲から浮かびあがって見える。まるでうっすらと発光しているかのようだ。雨上がりの澄んだ陽射しを浴びて、彼の銀髪が瞬くように光る。
「先生」
たまらず呼びかける。気づいた彼が顔を上げて、視線が絡む。
「もう先生じゃねぇだろ」
卒業してもう何年経つと思ってんだ、と彼が笑った。教室では見たことがないような、柔らかに弧を描き細められたまなじり。ふわり、と心の中にあたたかな風が吹いた。揺れた彼の髪から小さな雨粒の雫が滴る。
三ヶ月前に開かれた同窓会で再会した彼は、在校時となにも変わっていなかった。手の届かない遠い思い出なのだと身勝手な美化をしていたら、と思うと怖くて、卒業アルバムはただの一度も開いたことがなかった。だから彼の顔を見るのは本当に卒業以来だった。
それでも、先生は変わっていなかった。忘れることができずに、記憶の奥底に大切に仕舞い込んでいたのとまったく同じ深い声、大きな手のひら、緩んだ雰囲気。ガタ、と音を立てて何かが外れる気配がした。
それから忍び寄るように距離を詰めて、ほとんど勢いのまま積年の想いを告げて、砕ける覚悟をしていたのに予想外にも同じ気持ちを伝えられて、『教師と生徒』でしかなかった関係は、もっと特別なものにかたちを変えた。
あの夜から、彼と逢うのは今日が初めて。
「ほら、行こうぜ」
小さく微笑んで、銀八が言う。胸がきゅっとなって、堪らない気持ちになる。
昔は触れたいと夢見ることすらないほど淡く遠かった彼が、今はすぐに手が触れるほどそばにいる。
同じ歩幅で、隣を歩いていけること。澄んだ銀色の光が射す雨上がりの空の下に、二人は揃って歩きだしていく。