銀魂BL小説
今にもすべてを飲み込んでしまいそうな暗い空の下を、土方は一人歩いている。黒い着流しもその上の深い藍の羽織も、ともすれば夜の空気に溶け込んでいってしまいそうだった。
いっそ雨でも降ってくれたらよかったのに。すべてを、洗い流してくれるような雨だったなら。そんな土方の思いとは裏腹に、見上げた先の黒の空には澄んだ月が細く笑っていた。
町の賑わいも明かりも遠い、月光が微かに照らすだけの静かな川沿いは、恐ろしいほどに冷たかった。懐に突っ込んだままの左手も指の先まで冷えきっていた。けれど、温かい屯所へと足を向けることは出来ない。何より、土方自身そうする気にはならなかった。
人を、斬ったばかりだった。
秘密裏での、隊士の粛正だった。
どうにも最近討ち入りの際に作戦が上手くいかないことが多くあったので、山崎に調べさせた。すると、隊内に裏で攘夷浪士と繋がっている者がいるとのことだった。そいつは、真面目で明るくて、近藤さんからの信頼も厚い男だった。土方とて、一目置いていた。派手な印象は無いけれど、人の話を輪の隅でにこにこしながら聞いているようなヤツで、隊士達からも好かれていた。
そんな男だったが、討ち入りの日時や作戦などのこちらの情報を相手方に洩らしていたのだ。
幸いこちら側には死人は出なかったが、しなくてよい怪我をした隊士が大勢いる。それだけで、粛正の理由としては充分だった。
本来なら、このような仕事は土方ではなく、三番隊隊長である終に任されるものである。だけど、彼には先月同じような仕事をさせたばかりだった。これ以上公に粛正しては隊内の士気に関わるし、これ以上終に仲間を斬らせたくなかった。
そして何より、近藤さんを悲しませたくなかった。内通者だろうと何だろうと、一度仲間と認めた者を、あの人は捨てることなんか出来ないから。
ならば、副長である自分が殺るしかない。
そして、つい数刻ほど前。
屯所の廊下で偶然を装って鉢合わせし、飲みにでも行かないかと誘い。店で落ち合ってから、自分は飲まずに相手の杯を重ねさせ。酔って油断しきっているところを斬ろうとした。
が、やはり腐っても真選組隊士だっただけあって、寸でのところで察したようだった。一太刀で済ませるつもりが、躱されて肩を斬るにとどまった。
「ま、待ってください副長! は……話を聞いてください!」
懇願と恐怖の色を浮かべた瞳を大きく見開いて、男は震えながら言い募っていた。
「敵と内通していながら、テメェの話なんぞ聞いてもらえると本気で思ってんのか」
軽蔑を僅かに滲ませつつギロリと睨みつける。腰を抜かした男は尻で後退りながら、それでも必死に言葉を重ねようとしていた。
「ちがっ、違うんです副長……!」
「恨み言ならあの世で聞くさ」
「ひっ、」
血に濡れてもなお月光を鋭く反射させる刀を構え直す。と、目の前の男の震えが大きくなるのが分かった。ふっ、と刀を振り下ろす。その時、男の色をなくした唇が紡ぐ。
『ひとでなし』
刀についた赤をぴっ、と払い鞘に戻す。目の前には、もう男はいなかった。
明日の朝、見つけた市民から屯所に電話がきて、そこでこの男の死が皆に知らされることになるだろう。飲みに行った帰りに酔っていたところを攘夷浪士に狙われた、と。
土方はそれに背を向けて歩き出した。
足を動かしながらも、頭の中には先程の映像がぐるぐると流れていた。
話を聞いてくれとせがんでいた。身内を人質にでも取られていたのかも知れない。
もっと、厳しく隊内を取り締まっておけば、男が情報を洩らす前に何とか出来ただろうか。もっと、隊内に気を配っていれば、男の様子にも気付き話を聞いてやれただろうか。そうすれば、男を粛正しなくても済んだだろうか。
結局は、全て仮定の話に過ぎないのだけれど。それでも、一度考えだすと止まらなかった。
分からない。どうすれば良かったのか、分からない。
土方は袂から取り出した煙草に火を点けた。ふぅ、と白い息を吐き出す。いつもなら頭を冴えさせるのに一役買ってくれるそれも、いまは役に立ちそうになかった。煩わしくなって、まだ長いそれを地面に落として踏みにじる。
明日の朝、知らせを受けた時。きっと近藤さんは泣くだろう。隊士達だって、苦しそうに顔を歪めるだろう。その横で、自分も眉を寄せて悲しそうな顔を作るのだ。仲間を殺った下手人が、すぐ隣にいるのだと悟らせないように。
真選組のため、近藤さんのためと振るった剣のはずなのに。その剣のために仲間は、近藤さんは、涙をながす。
何が、正しいのだろうか。どうすれば、よかったのだろうか。分からない。
冷たい空気に晒され続けた両手はもはやほとんど感覚をなくしている。のろのろと動かしている足も、爪先の辺りがじんじんとした痛みを訴えていた。はぁっと吐いた息は、体温が低いからかほとんど白く染まることなく掠れたように消えていった。
最期に男の遺した言葉。ひとでなし。そんなこと、とうに知っているつもりだった。自分は人でない、鬼なのだと。だけど男の唇がそう紡いだ時、鈍く胸が痛んだ。慣れていたはずなのに。分かっていたはずなのに。
いくら刀を振おうが人を斬ろうが、人であることを忘れるな。そういった近藤さんの言葉は、今でも胸の中にある。だけど、隊を護っていくためには、自分だけは鬼でなければいけない。情けなど、持ち合わせていてはいけない。そう思っていた──はずなのに。
自分が人であるのか、鬼であるのか。分からない。分からない。もう、何も、分からない。
すうっとひと際冷たい風が頬を掠め、土方は思わず肩を竦めた。ふと辺りを見回す。すると、月影だけでない光が薄っすらと地面を彩っているのが見えた。行くあてもなくふらふらと歩いていたが、どうやらまた町が近づいているらしい。ひとけが多くなる前にと、袂からハンカチを取り出して川に投げ捨てる。それは先程、頬に付いた男の血を拭き取ったものだった。討ち入りでも斬り合いでもないのに、べったりと血痕の付いた私物を持ち帰るわけにはいかない。
漂いながら水の中を流れていくそれを見るともなく眺めていると、不意に微かな声が聞こえてきた。どうやら子供の声らしい。耳をすましてみる。
鬼はー外ー、福はー内ー!
豆まきをしているのだろうその声に、今日が節分であることを思い出した。
鬼は、外。
そう聞くと、今、自分が外をふらふらとほっつき歩いている状況が滑稽なものに思えてくる。土方は口の端で笑おうとした、が、強張ったままの表情筋は上手く動かず口元を引きつらせただけだった。それがまた、土方を空しくさせた。
足元で小さな音が鳴る。何かを踏んだようだ。下をみると、小さな豆が散らばっていた。きっと近くの家で行われた豆まきのものだろう。
鬼を、払うための豆。
何となく、土方はかがんで豆を拾った。
「おーおー、急に地面の豆なんか拾っちゃって。おまわりさんが拾い食いですか?」
出し抜けに掛けられた声に、土方は思わずビクリと肩を跳ねさせた。ぱっと顔を上げ声の主を見遣る。それは、今、こんな状況で、こんな心境の時に一番会いたくない男だった。
「こんな夜更けに何してんの? お散歩?」
あちこちに跳ね回った特徴的な銀色の髪を月の光に反射させながら、男はこちらへ歩いてくる。土方は小さく舌打ちをした。
「……別に、何してようがテメーに関係なんざねェだろうが」
「いやいや、ふらふら歩いてたヤツが急にお豆さんなんか拾いだしたら誰だって怪しむだろ。何、ホントに拾い食いするつもりだったの?」
「誰が拾い食いなんかするかよ、テメーと一緒にすんな貧乏人」
「うるせぇ、俺もしねぇわ! こちとらもう三日豆パン生活なんだよ、もう豆なんか見るのもウンザリなんだよコノヤロー!」
「知らねぇよそんなこと」
何だか変な方向に反論する銀時に、土方は頭痛を堪えるように眉間を揉んだ。
「もう、分かったからどっか行けよ」
これ以上、何かを話していられるような気分でもないし、とにかく一人になりたい。もう、何も考えたくなかった。
土方は追い払うように手を振った。
「えー、何それ冷たーいつれなーいひどーい」
しかしそれを受けても、銀時は明らかにここから動く気配は無い。科をつくりながら大袈裟に悲しんでみせる銀時に、土方は大きく溜息をついた。
「うるせぇな、ガキ共が待ってんだろ早く帰りやがれ」
それは土方の本心から出た言葉だった。本当に、早くここから立ち去ってほしかった。これ以上近くに来てほしくない。
この男だけには、こんな情けない姿は見られたくなかった。
「いやさ、それがさァ」
そんな土方の思いなど全く意に解していない様子の銀時は、いつものように締まりの無い顔でつらつらと喋り始めた。
「神楽が豆まきしたいアルーっつってたんだけど、豆なんか買う金あるなら米買うわって言ったんだよ。そしたらお妙んとこに豆まきしに行くって新八と一緒に出てっちゃってさあ。それで一人で飲みに出たはいいけど、なかなか一緒に飲む相手も見つかんなくて。仕方ねえ、家で飲み直そうって帰ろうとしてたんだよ。そしたら、丁度お前を見つけたってわけ」
ペラペラとよく喋る銀時の顔は薄っすらと赤くなっているように見える。なるほど、飲んで来たと言うのは本当であるようだ。
ならば、普段は喧嘩ばかりの関係なのに今日はこんなに自分を構ってくるのも腑に落ちる。きっと酒に酔っているせいだろう。
「……豆まきしなかったから、鬼なんかに会っちまうんだよ」
土方は口端を上げて微かな笑みを作りながら呟いた。それが自嘲じみた響きをもっていたという自覚はあった。だからこそ、これ以上自分に構わないでほしい。土方は小さく目を伏せた。
「うん、そうかもな。だから、しなくて良かったわ」
「は?」
予想外の言葉に土方はハッと銀時を見る。
「つー訳で、お前、一緒に飲み直しに付き合ってくんね?」
いつものような気怠げな顔で告げられた、いつもなら考えられないような言葉。
「……何で俺が」
「お前だからだよ」
意味が分からない。だけれど、彼の瞳が何故だか真剣で、優しくて。思わずひるんでしまう。
「いいのかよ、鬼なんか家に入れて」
小さく呟いた言葉に、銀時はへらりと笑った。
「いいよいいよ、鬼でも何でもいいから側にいてほしいのよ。飲みてーんだよ銀さんは」
「……そーかよ」
馬鹿な男だ。鬼でも何でもいい、なんて。でも、一番馬鹿なのは、そんな言葉にいちいち安堵したような、心臓を掴まれたような気分になっている自分自身である。
「ほらほら、さみーし早く帰ろうぜ。あ、コンビニで酒とツマミも買ってってね。ビールはちょっと寒いかな、日本酒買って燗酒にするか」
よく喋る男が、何でもないようなそぶりで肩に腕を回してくる。着物越しに感じる、あたたかな人間の体温。
「集る気かよ」
顔をしかめてみせるが、肩に置かれた腕には言及しない。わざわざ言及して、腕を退けさせるのは、なんだか惜しい気がしてしまったから。今は、このじわりと沁み入るような人のぬくもりを手放したくなかった。
土方はほう、と息を吐いた。雲のようにふわりと白く染まったそれは藍色のなかを漂っていく。
鬼でもいい、とあっけらかんとこの男が宣うならば、きっとこれからも『鬼』になれる気がした。