銀魂BL小説


教室の壁に掛けられた時計を見やった土方は、握っていたシャーペンをころりとノートの上に転がした。そのまま両腕を上げて伸びをすると、肩のあたりからポキポキと小気味よい音が鳴った。長い間同じ姿勢を続けていたからだろう。数式と格闘している間に、いつのまにか随分と時間が経っていた。
八月に入ったというのにまだ学校に通っているのは、三年生は全員参加の夏期講習のためである。理系クラスである土方は、午前中に数学と英語、午後からは理科科目のうち受験に必要な科目をそれぞれが選択して受講するというシステムになっていた。受験生だから仕方がないとはいえ、夏休みとは名ばかりのこの状況には辟易としてしまう。その夏期講習もついに今日が最終日。勉強しなくてはいけないことに変わりはないとは言え、やはり開放感があるのは事実だ。
それにしても、と土方はぐるりと教室の中を見回した。この教室に自分ひとりしかいないという状況は、あまりにも珍しく新鮮なものであった。今土方がいるキャリアガイダンス室は、センターの過去問題集や赤本などの参考書類が充実しておりそのうえクーラーも効いている。勉強するのに持ってこいなのでいつも生徒でいっぱいなのだ。この教室にいながらもクーラーの稼働音と窓の外で鳴く蝉の声しか聞こえないという今の状況に、土方は小さく首を傾げた。とは言え、いつもより静かな空間のほうが集中力も上がるというもの。さっきまで解いていた数学の問題だって、いつもより手応えがあったように思う。たかが数式ひとつと言えど、正解と不正解では大きく点差が開いてしまう。ナイーブな受験生にとってはその一問すらも死活問題であるのだ。答え合わせをすべく、土方は問題集の後ろにある解答のページをめくった。
するとそのとき、ガラリと教室の戸が開かれた。驚いて音のしたほうを振り返る。
「おー、土方」
そこにいたのは、白髪天パの担任教師、坂田であった。ペタペタと便所スリッパを鳴らしながら教室に入ってきた坂田は、「勉強中?頑張れよ〜」などと相変わらずの気の抜けた声をかけてくる。
「やっぱ人少ねーのな」
ぐるりと教室内を見回した坂田は苦笑をもらした。
「やっぱり?」
「ああ。この辺の塾の双璧が両方とも今日から夏期講習なんだとよ」
「ああ、それで」
その双璧と呼ばれる二つの塾に通っている生徒はとても多い。全校生徒の半分以上はそのどちらかの塾に通っているとも聞くくらいである。まあ、その二つどころか塾にさえ通っていない土方にはあまり関係のない話であるけれど。
「先生はどうしてここに?」
「ん?これ借りてたのを返しに」
坂田は国語のセンター過去問題集を掲げてみせた。壁に沿って配置された本棚のなか、ずらりと並んだ参考書たちの隙間にそれを押し込んだ坂田は、ひょいと土方の手元を覗き込んだ。
「あー数学か。専門外だから教えらんねーわ、悪ィな」
「誰も教えてくれなんて頼んでませんけど」
わざと申し訳なさそうな声音を作ってみせた坂田に、土方はぴしゃりと言い放つ。担任を受け持ってもらうのは初めてだが、一、二年生のときに古典の授業を受け持ってもらっていたし、土方の所属していた剣道部の副顧問をしてくれていたこともあって、他の教師たちよりは気安い。
「生意気言うんじゃありません」
頬を膨らませ腕を組んでみせた坂田に、土方は思わず吹き出した。
そんな土方の反応に少し頬を緩めた坂田は、それからノートの上に乱雑に書きつけられた数式をゆっくりと指でなぞった。すう、と羽根で撫でるような手つき。
「それでお前、国語の勉強もちゃんとしてる?」
身をかがめているせいで存外近くにある坂田の瞳がつい、と土方をとらえる。
理系である土方の国語の成績は冴えない。他の教科とは違って、平均点ギリギリの決して良いとは言えない成績である。ずっと土方の国語の成績を目の当たりにしてきた坂田だから、彼が心配するのも無理はない。もっとも、これでも改善してきたほうではあるのだけれど。
「最近はちゃんとしてますよ」
頷いて見せると、坂田はふと表情をゆるめた。その笑みが、笑っているはずなのに、なんだか妙に寂しげに見えて。心臓が、どくりと音を立てた。
「そうだったな。最近、点数上がってきてるもんな」
「ほんのちょっと、ですけど」
「そのちょっとの積み重ねが合格に繋がるんだよ」
珍しく教師らしいことを言うのが意外で、土方はまじまじと坂田の顔を見た。しかし坂田は、ふっと目の前の本棚に視線を向けたままであった。そこに並んだ、大きく大学名を記した赤本の数々。それらを見ているのかとも思ったが、どうやら違う。坂田はもっと、遠いところを見ている。
「一、二年の頃はよく準備室に質問に来てたのに最近来なくなったからさ、ちょっと心配してたんだぜ?」
からかうようにわざと拗ねた声を作った坂田に、土方は返す言葉が見つからなかった。唇をひき結んだまま黙っていると、大きな手のひらが頭に乗せられる。
「まあ、自分でちゃんと勉強してるなら何も言うことねーんだけどな」
ぐしゃぐしゃと頭をかき回される。国語準備室に、坂田のもとに通っていた頃はよくそうされていた。懐かしい温度、懐かしい感触。思わず胸が詰まる。
なあ、先生。
俺がしている受験勉強は、未来に向けられたものなんだ。大学生活に向けて、つまり先生がいない未来に向けて。
俺はずっと、先生の生徒でいたいのに。先生のそばでいたいのに。
先生から離れるための勉強を、先生から教えてもらいたくなんかないんだよ。
そんなことを言ったら、ただ困らせるだけなのは分かっている。
うつむいてしまった土方に、慌てて坂田が土方の顔を覗き込んだ。間近にある赤みがかった瞳。煙草の匂いのする白衣。いつか過去のものになる、先生の欠片。
そんな欠片だけ、大切に拾い集めていてもいいだろうか。先生のいない未来でも、先生を思い出せるように。
言えるはずのないそんな言葉を飲み込んで、土方は笑った。
「先生がいなくても、ちゃんと勉強してますよ」
一瞬虚を衝かれたように目を見開いた坂田は、それからくしゃりと顔を歪めて笑った。
「そっか。なら、大丈夫だな」
いいきかせるように小さく呟いた彼は、そっと土方の頭から手を離す。そして、いつものようにペタペタと音を立てながら気だるい歩調で教室の戸へと歩いていった。
「じゃあな」
ひらりと一度だけ手を振って、坂田は姿を消した。
さっき彼に言った言葉はまるっきりの嘘であったらしい。だって今ひとりになったくらいで、こんなにも胸が痛いのだから。
土方はふと窓を見つめた。カーテンの開けられたそこから射し込む日の光は、ゆっくりと、けれど確実に傾きつつある。もう少しで、夕間暮れ。
時が経つのは、存外に早いのだ。

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