銀魂BL小説
帰りの電車にわざわざ鈍行を選んだのは、ほんの気まぐれだった。
あと二十分も待てば快速が来ることは知っていたけれど、のんびりとホームに滑り込んできた深緑の車体を見た途端、なぜだかこれに乗ろうと思い立ってしまったのだ。けして懐事情を心配したわけではない。確かにいつもなら薄っぺらい財布を慮って少しでも安い電車に乗ろうとしただろうが、今は遂行したばかりの依頼の報酬のおかげで懐はいつになくあたたかい。
ごとんごとんと小さく揺れる振動が心地よい。平日の昼間の、しかも上り線なので車内はガラガラだった。四人掛けのボックスタイプの座席を埋めているのはたいていが出張の途中のサラリーマンで、みな疲れた顔で座席に沈み込んで眠っている。車内はひどく静かだ。昼下がり特有のとろりとした時間の流れは、鈍行列車の進みとよく似ている。
窓の外でめまぐるしく移り変わる風景も、田舎を走っていることもあってどこかのんびりとした空気が漂っているようだ。前から後ろへ次々と流れていく景色を揺られならぼんやりと眺める。
線路のそばの、とろとろと緩く流れる川の横の土手を、寺子屋帰りと思しき子どもたちが駆けている。奥に見える小さな山は、少しずつ黄色に染まりつつある。尻尾のようなススキが揺れる、空は高く澄み渡っている。江戸とは似ても似つかないその風景は、かつて幼い頃に過ごした場所を思わせるようだった。
次の駅が近づいてきたのだろう、列車のスピードがだんだんと遅くなる。両手を上げて伸びをしながら、ふわあと大きなあくびをこぼす。通路を挟んだ斜め前に座っていた出張帰りと思しき男が、大きなビジネスバックを抱えて降りる準備を始めたのを横目で見やる。
のろのろと滑り込んだホームにもほとんど人気はなかった。窓の外をゆっくり流れていくホームの景色を見るともなしに眺める。
ふと、ホームの前方に立つ男と目が合った。さらさらした黒髪を風になびかせていたその男は、あ、と口を丸く開いた。自分も同じようにあんぐりと口を開けたまま、男の目を見つめる。
やがて動きを止めた列車は、ぷしゅうと間抜けな音を立てて口を開いた。ひやりとした秋の涼しい風がするりと吹きこむ。水色をしたその風とともに、ひょいと彼が乗り込んできた。そのまま迷いもなくこちらへ歩いてくる。
「よう」
こちらから先に声をかけると、男は――土方は「おう」と小さく顎を引いて応えた。
「珍しいな、列車なんて」
話を続けることで席を勧めると、その意図を汲んだのか彼は真ん前の席にどっかりと腰を下ろした。そのことにほんのりと胸の奥が浮き立つような心地になる。
以前は顔を合わせれば喧嘩ばかりだったこの男との関係は、最近少し変わりつつある。たとえば夜に飲みに出かけた居酒屋で鉢合わせしたとき、憎まれ口を叩き合いながらも隣で飲むようになった。互いに酌をし合って愚痴や世間話をしつつ酒を飲むような、そんな静かな時間をともに過ごす機会が多くなっているのだ。そして、それを嬉しく思っている自分がいることも、もう随分と前から自覚している。
ぷしゅう、とまたも間抜けな音を立てながらドアが閉まる。
「お前も人のこと言えないだろ。デカイ荷物持ってどこ行ってたんだ」
流れ始めた窓の外の景色を少しだけちらりと見やった後、土方はじっとこちらを見つめた。世間話というよりは、ほとんど職質か尋問かと思うほどに鋭い声音と眼光だ。やましいことをしているわけでもないのに妙に尻の座りが悪くて、ぽりぽりと頬をかいた。
「ただの依頼だよ。旅館の手伝いを住み込みで一週間。つーかデカイ荷物って、そんなデカくなくね?」
隣の座席に置いた風呂敷をぽんぽんと叩いてみせる。着物は旅館側が用意してくれていたので着替えも下着類くらいしいか入っていないし、その他の大抵のものも旅館のを使わさせてもらえるから荷物らしいにもつはほとんどない。風呂敷は片手で楽に運べる大きさだ。
「でもお前、普段はカバンも風呂敷も持ち歩いてねェだろーが」
「そりゃそうだけど」
「それにガキどもはどうした。一緒じゃねーのか」
「一人で充分だって先方が。それに他の依頼も入ってるし、アイツらは江戸にいるよ」
ひとつひとつ答えてやれば、土方は「そうか」と呟いた。そっと伏せられた藍色の瞳に、男にはもったいないほどに長いまつげが淡く影を落とす。小さく浮かべられた笑みはひどく柔らかで、まるでなにかに安堵しているようにも見えた。
「つーかお前だっていつも列車なんて乗らねーだろ。パトカーはどうしたよ」
同じリズムで揺られている目の前の男へと問いかけてみる。
土方はいつものカッチリとした黒い隊服ではなく、濃紺色の着物を身に纏っていた。もちろん、腰には当然のように刀を帯びているけれど。もしかして珍しく休暇でも取ったのだろうか、いやでもまさかこの男が。それにこの列車は、武州とは繋がっていないはずだ。
仲間たちから離れて、たった一人でどこへ行って何をしようとしているのだろう。
じっと見つめていると、土方がくすりと小さく笑った。
「俺も仕事だ。来月、地方の祭りの警護を任されてな。その下見と打ち合わせをしてきたところだ」
そう言った土方の声は、まるで幼い子どもに言い聞かせて安心させようとするみたいに柔らかに響いた。その小さく弧を描く唇に、なんだか心の内を見透かされたような気になる。
きっと、この男は気づいているのだろう。黒い隊服ではなく着物を着て一人で列車に乗る彼の姿に、思わずガラにもなく焦ってしまったことに。
そう考えて、はた、と思い当たる。
もしかしたら、この男も同じことを考えたのかもしれない。
新八も神楽も連れずに、風呂敷包みを抱えてたった一人で列車に乗っている自分を見て、なんだか妙に焦った気持ちになったのかもしれない。
まるで詰問のようだったさっきの土方の声音を思い出す。何かと思考回路の似ている男だとは思っているけれど、そんなところまで似ているとは。気恥ずかしさがこみ上げて、胸の内側がくすぐられるようにむず痒くなった。
「さっきまではすっかり田舎の風情だったのに、もう郊外だな」
車窓の外を流れる景色に目を遣りながら、土方がぽつりと呟いた。どこか静謐さを帯びたその瞳につられるように、同じように窓へと視線を向ける。
田んぼや山が主だった窓の景色は、少しずつ民家や商店が多く見えるようになってきている。人が生活している営みのにおいがふわりと鼻をくすぐるようだ。二対の布団を干しているベランダを見て、ウチもそろそろ布団を洗濯しないといけないな、とちらりと考える。
この様子なら、きっと見慣れたターミナルやビル群が見えてくるのもそう時間はかからないだろう。鈍行とはいえ、着実に、確実に、前へと進んでいる。
「もうすぐ、着くかな」
思わず小さくこぼしていた。
窓から見える景色が少しずつ移り変わるごとに、江戸に近づいていることを実感する。帰る場所へと辿り着こうとしていることを、まざまざと感じる。
ああ、そうか、だからなのか。
わざわざ鈍行列車に乗ったのは、たぶん気まぐれなんかじゃなくて、きっとそれを確かめるためだったのだ。
そしておそらく目の前にいる男も、同じ理由で鈍行列車に乗っている。
土方が窓から目を離してこちらを振り向いた。
「よかったな、明日に間に合って」
にやり、といたずら小僧のような顔で土方が笑う。
今日の日付は十月九日。明日は、誕生日。
「めいっぱい祝ってもらえよ、社長さん」
あ、今は平社員だったか、と土方は殊更楽しげに口の端を上げている。
早く帰りたいと思ってしまった心の内を見透かされたようで、じわじわと気恥ずかしさがこみ上げてくる。滲むように頬が熱くなる。
からかうようにくすくすと笑っている男になにか文句を言ってやろうと口を開きかけて。
結局、なにも言えなかった。
土方が、ひどく柔らかな顔をしていたから。ほとんど嬉しそうとすら形容できるほどに穏やかに目を眇めて笑っている。秋の昼下がりの澄んだ陽光に淡く照らされたその表情は、とても優しい。
彼は、心の底から喜んでくれているのだろう。俺が万事屋で誕生日を祝われることを。俺が万事屋に帰れることを。
胸を満たすあたたかさを噛みしめながら、改めて口を開く。
「なあ、明日ってやっぱり仕事?
「あ? まぁ、そうだけど。でも大まかな報告とかだけだな。次の日もゆっくり休めって近藤さんに非番にされたし」
自らの大将の大らかな笑顔を思い出しているのだろう、彼は小さく苦笑をもらした。
「じゃあさ。明日の晩、飲みに行かね?」
深い藍色の瞳を見つめながら告げる。一瞬きょとんと目を見開いた土方は、けれどすぐに小さく頷いた。
「……ああ、いいぜ」
応える彼は、やっぱりひどく柔らかく笑っていた。
同じ場所へ――江戸へと帰る二人を乗せた列車は、穏やかで静かに、けれど確かに進んで行く。
江戸は、きっともうすぐだ。