銀魂BL小説


熱したフライパンに卵を二つ割り入れたそのとき、炊飯器が軽快で間の抜けたメロディーを奏でた。鍋のしゅんしゅんという音、卵が焼かれるじゅうっという音とともに台所を満たすそのアンサンブルに、不意に足音が入り混じる。とん、とん、と廊下を歩くその音は、昨日から万事屋に泊まっている土方のものだ。朝食の準備も整いつつあるしそろそろ起こそうかと思っていたところだったのだが、自分で起きられたようだ。銀時は焼き色のついてきた目玉焼きをフライ返しでつつきながらそっと頬を緩めた。
屯所での生活リズムが体に染み込んでいる男だから、非番の日だろうが昨晩お楽しみだろうが大抵彼は銀時よりも早く起きるのだが、今日は少し寝坊気味だ。やっぱり昨日は少し張り切りすぎてしまったらしい。約一ヶ月ぶりの逢瀬だった。久しぶりに触れた肌が恋しくて愛おしくて、つい求めすぎてしまった。とは言え、向こうも悦んでいたしきっと同じ気持ちを抱えてくれていただろうし、お互い様ではあるのだけれど。小さく苦笑をもらす。
足音は洗面所に向かったようで、ばしゃばしゃと水の音が聞こえてくる。それを背後に聞きながら、焼きあがった目玉焼きと、一緒にフライパンに放り込んでいたウインナーを皿に盛り付ける。さて次は、ほうれん草の胡麻和えだ。冷蔵庫に入れていた既に茹でてあるほうれん草を取り出し、すり胡麻の袋と醤油さしを流し下の戸棚から探し出す。と、醤油さしの中の醤油がもう随分と少なくなっていたことに気付いた。これではひどく味の薄い胡麻和えになってしまう。銀時は戸棚の奥に手を伸ばし、大きな醤油ボトルを引っ掴む。それをとぽとぽと醤油さしに注いでいると、ふわりと香ばしい匂いが鼻をくすぐった。ふと、ここではない古い台所の光景がおぼろげにまぶたの裏に浮かぶ。油が染みてつやつやになった木目、窓から射しこむきらきらした朝日、ゆっくりと振り返る長い髪。醤油の匂いは、いつだって懐かしい記憶を呼び覚ます。
「……しあわせって、なんだっけなんだっけ〜」
思わず古い歌を口ずさんでいた。たしか、だいぶ前に醤油のCMとして使われていた曲だ。昔はよく耳にした歌ではあるけれど、改めて歌ってみるとその続きがとんと思い出せない。しあわせって、なんだっけ。
「いい匂いしてんな」
背後からかけられた声に振り向くと、寝ぐせ頭の土方が立っていた。洗面所で鏡を見ただろうに、ぴょんっと跳ねる前髪に気付かなかったのだろうか。寝巻代わりに着ている白い長着も着付けが緩いせいで胸元がはだけてしまっている。無防備なその姿に、銀時は口元を緩めた。
「おはよーさん」
「おう。なんか手伝うことあるか」
尋ねる声に、醤油ボトルを持ったまま顎で炊飯器を示す。
「じゃあ飯よそって運んでくんね?」
「わかった」
素直に頷いた土方は、しゃもじを手に取って炊飯器の蓋を開けた。さっくりとかき混ぜるようにしゃもじを動かすたび、食欲をそそる匂いが台所いっぱいに広がる。ぺたぺたと茶碗に白いご飯を盛る彼の目は、なんだか幼いこどものように真剣だった。
茶碗二つを持って居間に向かった白い背中を見送りつつ、ほうれん草の入ったボウルに醤油を垂らす。胡麻を振りかけてぐるぐるとかき混ぜているうちに、さっきの歌の続きを思い出した。
「……うまい醤油のあるウチさ」
口の中で小さく呟いてみる。思っていたよりも随分と所帯じみた、ささやかな答えであるものだ。まあ、醤油のCMなのだから当たり前なのだろうけれど。まあたしかに、そういった身の丈に合ったこと小さなこと、身近にあるささやかなことこそがしあわせなのかもしれない、よくは分からないけれど。
胡麻と醤油の合わさった香ばしい匂いが、あたたかな台所の空気に溶けていく。茶碗を置いて戻ってきた土方が、今度は目玉焼きののった二つの皿を運んでいく。歩くたびに揺れる寝ぐせが可愛くて、バレないように小さく笑う。
出来上がったほうれん草の胡麻和えの小鉢と味噌汁のお椀をお盆にのせて、後を追うように居間へと向かう。献立がすべて顔をそろえたところで、二人は向かい合って両手を合わせた。
「いただきます」
「おう、めしあがれ」
手を合わせて早々に、土方はテーブルの真ん中に鎮座していたマヨネーズのボトルに手を伸ばす。にゅるにゅると皿の上に出されるそれに、銀時が腹を立てることはない。いつの間にやら、それほど長い付き合いになっていた。
朝特有の新鮮で柔らかな陽光がそっと窓から射しこみ、居間を淡い金色に照らす。並んだ料理たちからふわふわと立ちのぼる湯気が、優しく空気に溶けていく。
「新八と神楽、いつ帰ってくるんだっけ」
白いご飯を口に運びながら、土方が小さく首を傾げる。
「朝飯食ってから帰るって言ってたから、もうそろそろなんじゃねーの」
「そうか」
答えると、彼はふっと僅かに口元を緩めた。
「一緒に昼飯食うの楽しみにしてたぜ、あいつら」
にやにや笑いながら告げると、彼にキッと睨まれてしまった。それがただの照れ隠しであることなんて分かり切っているから怖くとも何ともないし、むしろ微笑ましいだけだ。味噌汁を飲むのにまぎれて、ふっと小さく笑みをこぼす。
テレビから流れる占いに揃ってツッコミを入れたり、今日の予定を話し合ったり。かちゃかちゃと微かにひびく食器の音と取り留めのないいつも通りの会話で満ちた、穏やかな空気のなかで。
突然、ぽつりと土方が呟いた。
「……お前んちの醤油、うまい、と思う」
それは、不自然に途切れ途切れで会話の脈絡にもそぐわない、あまりに唐突な言葉だった。銀時はぱちぱちと瞬きを繰り返した。怪訝に思いながら顔を上げて、目の前に座る男の顔を見る。
俯いているその顔は、ほんのりと赤く染まっていた。どきん、と心臓が跳ねて、その拍子にさっき口ずさんだ歌が蘇る。
『しあわせってなんだっけなんだっけ、うまい醤油のあるウチさ』
銀時が小さく口ずさんでいたあの歌を、土方は聞いていたのだろう。
つまり今の不自然な言葉は、えらく遠回しで控えめな彼なりの幸福宣言だったらしい。
小鉢に盛られたほうれん草を箸でつまみ、ひとくち食べる。口の中に広がる、香ばしい味。今も昔も変わらない、いつも身近なところにある優しい味。
「……そりゃあ、マヨにも合うやつを選んでるからな」
告げてから、ちらりと目の前の男を窺う。彼は、いまだに赤く頬を染めながらも、ふっと穏やかに柔らかく微笑んでいた。どうやらちゃんと意味は通じたらしい。つられるように、銀時もそっと頬を緩める。
優しい醤油の味が、いつもよりおいしく感じられた。
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