幾星霜に手を伸ばす


 何と返せばいいのか分からず、銀時は口元をひき結んだまま机の端を見つめていた。
 あのとき掴み損ねたもの、と言うけれど、銀時は掴まなくてよかったとすら思っている。それにもし掴んでいたとしても、結果は今と何も変わらなかったはずだ。
 土方もそれきり黙っているので、重い沈黙がふたりの間に横たわる。コツ、コツ、と忙しく回り続ける時計の音だけが殊更に大きく響く。銀時はもぞもぞと身動ぎして尻の座りを直した。
「……お前、こんなとこにいていいの」
 話を逸らすため、そして脳裏に蘇ったあの雨の夜を霧散させるために、銀時はわざと無関係な話題を振った。正面のソファーに座る土方から目を逸らしつつ、ぼりぼりと腕をかく。
「……あ?」
 核心を避けるように迂回した銀時の言葉に、土方が訝しげな視線を向ける。
「だって……お前、誕生日だろ。宴会とかあんじゃねーの」
 そんな関係でないことを分かっているから、本当は言うつもりのなかった言葉だったが、仕方がない。問うてから、ちら、と上目で土方の様子を窺う。彼は一瞬目を見開いて、膝の上に置いていた両手をぐっと握りしめた。
「お前、知ってたんだな」
「まあ、近藤とかが話してたし。主役だろ、こんなとこに来てていいのかよ」
「……宴会もあるにはあるが、べつに俺ひとりのもんじゃねェ」
「そうなの?」
「近藤さんが、幹部だけ祝うってのを嫌ってな。宴会自体は幹部の誕生日に行われるが、祝われるのはその月に誕生日を迎える隊士全員だ」
「へえ……なんか、お前ららしいね」
 思わずふっと軽い吐息がもれる。わいわいと賑やかに騒ぎ立てる男たちの姿がまざまざと想像できた。その輪から少し離れたところで静かに飲みつつ、けれどすぐに輪の中に引っ張り込まれる彼の姿も。そんな光景が、いとも簡単に想像できるからこそ。
「でもどっちにしろ、せっかくの誕生日だろ。こんなとこにいていいのかよ」
 土方の目を見ないまま、諭すように、促すように静かに告げる。
 黒い着物の膝の上で、彼の手がぴくりと小さく揺れた。僅かに俯いてしまった土方は、膝の上にのせた手を握ったり開いたりしている。銀時は伏せていた目をそっと上げる。普段見ることのない彼のつむじが今はよく見えて、それがひどく落ち着かない。
 ぐ、と両手を結んだ土方が、ゆっくりと顔を上げる。
「…………それは、誕生日だから」
 長い前髪の隙間から覗く、青く深い色をした瞳がじっと銀時を捉える。
「だから、手ェ伸ばしにきたんだ」
 真っ直ぐな眼差しに、心臓が射抜かれたようにずくりと痛んだ。
 夜を溶かしたような色の瞳に浮かぶのは、熱のこもった鮮やかな光。それは、たじろくことすら許してはくれない。いとも簡単に、銀時の視線と心を絡め取ってしまう。
 固まってしまった体をなんとか動かして、銀時はぎこちなく頭をかいた。
「それで、なんで俺んとこに来るんだよ」
「往生際が悪すぎるだろいくらなんでも」
 ギロリと睨まれる。思わず肩を竦めた。
 たしかに否定はできないと自分でも思っている。往生際が悪いと言われてしまえばそれまでだ。だけど、それでも、もう手は伸ばせない。銀時は膝の上で組んでいた両手を太腿に引き寄せた。
 はあ、と大げさな溜め息をついた土方が、僅かに首を傾げながら銀時の顔を覗き込む。
「なあ、何がまだお前を躊躇わせてるんだ」
 聞き分けのない子供に言い聞かせるようなゆっくりとした口調で問われる。
 相変わらずの、真っ直ぐな眼差し。その強さのなかに隠されるように小さく灯っていたのは、ひどくやさしい光だった。まるで慈しみとも呼べそうなその光に気付いてしまった途端、胸の中に押し込め続けていた言葉の欠片がぽつりと溢れ落ちた。
「……惚れてるからだよ」
 銀時は僅かに眉を寄せて笑ってみせた。
「おめぇに、惚れてるからだ」
 告げた声は、少し掠れていた。
 ああ、言ってしまった。その手を掴む気がないのなら尚更告げるべきではなかった言葉は、けれど押し留めることができずに溢れてしまった。ずくりと鈍く胸が痛む。
 あの雨の夜、自分に向かって伸ばされた手の存在を知っていたのだから、きっと銀時が隠していた想いにも気付いていたのだろう。土方は特段表情を変えることはなかった。ただ、ほんの微かに唇を引き結び、それからふっと小さく息をもらしただけだった。
「……矛盾してるって気付いてるか?」
 問う声はどこまでも穏やかだ。だからこそ、また胸の奥が重くなる。
 詰まりそうになる喉から、絞り出すように言葉を返す。
「……矛盾なんかしてねェよ。少なくとも、俺のなかでは」
「どういうことか聞かせてもらう権利が、俺にはあるよな?」
 相変わらず穏和で静かな声だったが、有無を言わせぬような強い響きが込められている。銀時は少し視線を彷徨わせて逡巡したが、観念したように口を開く。口の中がからからに乾いていた。
「……お前が聞いたんだからな」
 少しばかりの恨みがましさを込めながら、揺らぐことのない瞳を見つめ返す。
「ああ。どんな理由でもちゃんと聞いてやるよ」
 土方が僅かに顎を引いた。それを見届け、一度深く息を吐き出して、腹を括る。
「……お前にゃ、ずっと真っ直ぐでいてほしいんだよ」
「真っ直ぐ?」
「護りてェもんの傍らで刀振り回して、背筋伸ばして前だけ見て──」
 ……そう在るお前に惚れたんだ。
 銀時はぎゅっと奥歯を噛み締めた。
 愚直なまでに一途に、己の定めた大将を護り、組を護り、己の定めた生き方にどこまでも忠実な男。眩しかった。あの屋根の上で、真選組を護るために刀を抜いた男と対峙したときから。その生き方にふれたときから。ぎらぎらとした鮮烈なまでに真っ直ぐな光は、どこまでも眩しかった。
 いつのまにか胸に灯っていたのは、憧れにも似た、じりじりと疼くような感情。焦がれる想いは今もなお心の片隅でほのかに光を放ち続けている。
 だからこそ、手は伸ばせない。
 その光を、一途な眩しさを、消したくない。損なわせたくないのだ。
「──だから、俺はお前に手を伸ばさねェ。掴まねェよ」
 銀時は口の端を上げて笑ってみせる。きっと歪な表情しか作れていないだろう。それでも、ぐっと顔を上げて土方を見つめ返す。紛れもない本心だった。
「……それが理由か」
 変わらない静かな目が銀時を見据える。
「ああ」
 ふっと目を逸らし、ゆっくりと、大きく頷く。
「お前、やっぱり相当なバカタレだ」
 唸るような低い声が呟く。
 何だとコノヤロー、という暇もなく、ガタリと椅子から腰を上げた土方にギョッとする。ずんずんと大股で近付いてくる。銀時の目の前に立った彼は、ぐいっと銀時の胸倉を掴み上げた。
 同じ高さで、二つの視線が交錯する。
「真っ直ぐなんて言うけどなぁ」
 ぎらぎらと見開かれた瞳には、怒りのような色が浮かんでいた。間近でその強い光をぶつけられ、思わずたじろぐ。
「俺が真選組として刀握っていられんのは、お前のおかげでもあんだろーが」
 青白い炎さえ見えそうなほどに荒らげた声が夜の静寂をびりびりと震わせる。銀時はひゅっと息を呑んだ。
「俺が背筋伸ばして立っていられたのは、背を押してくれたお前がいたからだ。だから俺は真選組で在れたんだ」
 感情をそのまま乗せて告げていた声が、徐々に掠れて、震えていく。けれど胸倉を掴む手は白くなるほど力が込められていた。決して離すまいとするように。心臓を、直に握られているようだ。胸が締め付けられて痛い。
「なあ、俺が俺で在れたのは、お前がいたからでもあるんだよ。……そんなお前の傍にいることは、俺の在り方に何ら悖るもんじゃねぇ」
 だから、勝手に遠ざけようとすんな、と。呟く声は、掠れていてもなお燦然としている。目の前の、まるで斬り込まんとするように見つめる瞳と同じだった。
 律儀な男だとは知っていた。義理堅くて、どこまでも一途な男なのだと。だけどそれが、まさか自分にまで向けられているなんて、思ってもみなかった。
 救ったつもりもなければ、救おうとしたつもりすらない。ただ、彼の眩しさを消えさせたくなかっただけだ。なのに。
 なのに、彼はそんな些細な行為を全部掬い上げて、大切に想い続けていてくれた。
 敵わないな、と思う。救われていたのはこっちの方だ。彼の真っ直ぐ光に、たしかに救われている。
 今も、なお。
「やっぱり眩しいなぁ、オメーは……」
 銀時は固まっていた手を伸ばした。そして、縋るように握り締められた胸倉の手に、そっと触れる。ずっと触れてみたかった手は、硬くて筋張っていて、少しひんやりとしていた。紛れもなく、土方の手だった。
 ゆっくりと包み込んで、手のひらを合わせ、指を絡ませる。
「……ほんとうに、いいのかよ」
 握った手の親指で白い手の甲を撫でつつ、すぐ傍の深い青色をした瞳を覗き込む。
「そう言ってんだろ。……それに、今日ここに行くように言ったのはアイツらだよ」
「え?」
「さっき宴会中にな、近藤さんに言われたんだ。誕生日くらい欲しいもんは欲しいって言え、そんで掴みに行け、って」
 土方は目を伏せながらふっと静かに笑った。
「それで……万事屋の隣に居場所を作ろうが、お前はお前のまま変わらねェだろ、って」
 ぎゅ、と握った手に力が込められる。
 ずっと、光に手を伸ばすことはその光を損なわせることだと思っていたのに。
 でも、変わらなかった。手に触れる前も、触れた後も、彼の真っ直ぐな光は失われてなどいない。たしかに、そんなことで変わるような男ではなかった。そんなことで損なわれるほど、弱い光ではなかった。だから惚れていたのだ。なんで気付かなかったのだろう、と銀時は眉を下げる。
「あのとき、お前が手を伸ばしてきたのが嬉しかった。ずっと見ないふり、気付かないふりをしていくもんだと思ってたから。でも、組からの呼び出しがあれば当然俺は行くし、迷わず行く自分で在りたいと思ってる」
「うん、分かってる」
「だから、またああいうことが起こったときに、次の約束を取り付けられるような関係になりてェと思う」
 土方が、その黒く小さい頭をこつんと肩口に押し付けてくる。真っ直ぐではあるけれど素直ではない男だから、こんな言葉を言うのはきっと難しいことだっただろう。顔は見えなくなったが、黒髪の隙間から覗く耳が赤いからどんな表情をしているかは容易に察せられる。銀時は頬を緩めた。胸の奥があたたかいもので満ちていく。
「ん、俺も。次に会う約束ができて、そんで……」
「そんで?」
「誕生日を祝える関係になりたい」
 肩に流れる黒い髪を撫でながら告げる。すると、土方が顔を上げた。やっぱり、赤い頬をしていた。ふふ、と笑いが込み上げる。
 夜空によく似た色をした、星のような光を放つ瞳を、銀時は真っ直ぐに見つめる。
「誕生日おめでとう、土方。それと、これからもずっとよろしく」
3/3ページ
スキ