幾星霜に手を伸ばす
あの夜はたしかに雨だったが、飲みに出たときはまだ降ってはいなかった。今日とは違う、星ひとつ見えない曇天。川沿いでは蛙が鳴いていて、少し水気を含んだ空気はひやりと冷たかった。
重い雲が立ち込めた空模様を気にしつつ夜道を行き、馴染みの居酒屋にふらりと顔を出す。するとカウンター席の隅に、着流し姿の土方がいた。またオメーか、それはこっちの台詞だ、などとお決まりの軽口を叩き合いながらも、当然のように隣の席に座るし彼もそれを咎めたりはしない。もう何度も鉢合わせてきたから、お互いの隣で飲む心地よさは、充分すぎるほど知っていた。目前の厨房から漂うほわほわとした湯気と、まばらに席を埋める酔っ払いたちの笑い声も相まって、口元も心も穏やかにほぐれていく。ぽつりぽつりと交わされる互いの近況や愚痴などを肴に杯を重ねて、軽口を叩いて、笑いあって。
カウンターの上の皿も小鉢も空になり、酒も底をついたときには、いつの間にか店内の客は銀時と土方のふたりだけになっていた。店の親仁も、酔い潰れた常連客を近所にある家まで送っていってやるとかで、「帰るときは代金そこらに適当に置いてってくだせェ、土方の旦那」などと言って店を出ていた。
「随分信頼されたもんだなぁ?」
不用心ともとれる親仁の言動に苦笑しつつ、銀時は隣の男の顔を覗き込む。
「ツケまみれのお前と比べりゃあな。つーか親仁、俺だけ名指ししていきやがったな」
「そりゃまあ、そうだろ」
あっけらかんと言ってのけると、「ちっとは払うそぶりくれー見せやがれ」と土方が顔をしかめた。
「でもさすがに、本当にこのまま出ていくわけにもいかねーよなあ」
低い背もたれに背を預けながら、頭の後ろで手を組む。気持ちの良い酔いのおかげで、体が沈み込んでいくようだ。
「べつに、親仁が戻ってくるまで待ってればいいじゃねぇか」
「それもそうだな」
ふわふわとした、微睡みのように心地よいこの空間を手放すのは、たしかに惜しい。
他愛もない、たらたらした会話を交わしつつしばらくの間親仁を待ってみたものの、なかなか親仁は戻ってこない。お品書きと並ぶように壁に掛けられた時計を見れば、その長針は、親仁が出ていったときに示していた数字の次の次に差し掛かろうとしていた。
「あー、もうだめだ……」
普段なら消して口にしないであろう、まるで泣き言のようなことを言いながら土方がカウンターに突っ伏す。さらさらと黒髪が流れて、俯いた後頭部が存外に丸いことを示している。
「……どーしたよ」
平静を装えるようにと努めながら、その丸い頭に声をかける。
「目があけてらんねぇ……」
「おねむか」
「んん」
むずがるような声音に、どうしたって頬が緩んでしまう。肝心の彼が見ていないのをいいことに、へらりと口元を綻ばせる。
「お前、そんなんでどうやって帰るつもりなの」
笑いを含んだ声で揶揄ってみせる。怒りだすか、と思ったが、彼は静かだった。もぞもぞと頭を動かして、銀時を見上げる。流れる黒髪の隙間から、すこし水気を含んだ深い青が、真っ直ぐに銀時を見た。
「べつに、おめぇがいるだろ」
ねだるような、ちょっと拗ねたような声音。一瞬、びくりと肩が強張った。息が詰まるような感覚に、喉の奥のほうが熱くなる。ずっと胸の奥に隠し続けてきた感情の蓋が、カタ、と音を立てて外れた気がした。
見ないように、見えないようにしてきたからこそ当たり前に在り続けた感情だから、ほんの些細なことでも途端に輪郭が顕になってしまう。たとえば、今のように。
たぶん、このままだとヤバイ。分かっていても目が離せない。潤んでいてさえ真っ直ぐな瞳の、その奥に、ゆらゆらと滲む熱。同じものを、自分も瞳の中に灯しているだろう。
思わず、ごくりと唾を飲み込む。
そのとき、ガラリと店の戸が開いた。
「アレッ、銀さんと土方の旦那、もしかして待っててくれたんですかィ」
帰ってきた親仁が目を瞬かせる。こりゃ悪いことしちまった、と慌てる親仁に、銀時は大丈夫だと手を振った。体を起こした土方とともに半分ずつの代金を払い、席を立つ。
店を出てからも、胸の奥で燻る熱はなかなか消えそうになかった。
今までだって、蓋をして隠してきた想いが不意に顔を覗かせることはあった。そのたびに見ないふりをしつつ、きつく手のひらを握りしめてきた。
なのに。なのにこの夜は、握りしめた手を開いて、伸ばして、掴みたくてたまらなかった。
「この後どうする?」とか、そんな駆け引きめいた言葉すら煩わしくて、銀時は衝動のままにちょうどひとりぶんの距離の向こうにいる土方へと手を伸ばす。すこし湿った夜の空気をかき分けて、指の先を近づけてゆく。気配に気付いたらしく振り向いた土方が、驚いたように目を見開いた。構わずに、黒い着物の袖から垂れた、無防備にすら見える白い手にぎこちなく指を触れようとした、けれど。
唐突に鳴り出した電子音。彼がパッと体を引いて、あと一ミリの距離にあった手が離れていく。懐から携帯電話を取り出し、背を向けて会話を始めた土方の後ろ姿を眺めて、銀時は空っぽの右手を握りしめた。こんな時分にかかってくる電話なら、相手も用件も、この後の展開もだいたい察せられる。
「……わり、急用ができた」
目も合わせないまま、ぽつりと土方が言う。これからどうする、とかそんな予定を話していたわけでもないのだから、謝られる必要はひとつもないのに。
「こんな夜更けにも仕事なんざ大変だね」
銀時はへらりと笑って見せた。握りしめていた空っぽの右手を、追い払うようにひらひらと振る。
「おら、早く帰らねーといけないんじゃねェの」
「……ああ」
きゅ、とごく僅かに眉を寄せて、それから土方はくるりと踵を返した。足早に立ち去る黒い背中を見送りながら、深い溜め息をもらす。
手に触れていなくてよかった。手を引いていなくてよかった。心底、そう思った。
もちろん、あのとき既に彼の手を引いていたとしても、彼は掴んだ銀時の手を振り払って屯所に戻っていただろう。当然だ。言うまでもなく、彼が一番の椅子に据えているのは真選組なのだから。
けれど、それでもきっと、手を振り払うときに彼は少しだけ気まずげな、申し訳なさげな顔をしただろう。現にさっきも、何も謝ることなどないのに「わりィ」と目を伏せていた。
ずっと、真っ直ぐに立つ後ろ姿に惚れていたのだ。眩しさすら感じてしまうほどに。
その真っ直ぐな心を惑わせたり、その光を曇らせたりなんてことはしたくなかった。ただただ、見つめていたいだけなのだ。
駆け去っていく背中は、もう随分と遠くなっていた。手を伸ばしても掴めない、声すら届かない距離にある小さな背中を少し見つめて、銀時もくるりと背を向けた。
歩き始めたところで、不意に冷たい雫が手に触れた。鉛色の夜空を見上げると、白く細い糸を引きながら雨粒が降ってきた。しとしとと降り始めたそれは、次第に地面の色を変えていく。剥き出しの腕の上をすべる冷たい雫を感じつつも、銀時は足を速めることができなかった。ふともう一度、遥か頭上の夜空を見上げる。
当たり前のように、星はひとつも見えなかった。