幾星霜に手を伸ばす


 夜が更ける、日付が変わる。特別だったはずのいつも通りの一日が、もうすぐ終わる。
 しんと静まり返った万事屋の応接間。銀時は社長椅子に腰掛けながら、窓の向こうに広がる夜空を見上げていた。殊更晴れているわけでもない凡庸な空には、両手で数えられる程度の星がちらちらと微かに瞬いている。昼夜問わず光を放つターミナルやらビル群やらの明かりが空まで届いているせいで、江戸の夜空はひどく明るい。小さな星の光など、よっぽど目を凝らさないとなかなか見つけられないほどだ。
 その針で突いたような白色の光をぼんやりと眺めながら、脳裏に浮かぶのはひとりの男の後ろ姿。宵闇に溶けてしまいそうな黒い背中を思い浮かべて、銀時は小さな溜め息を吐き出した。
 今日は特別な日だった。少なくとも、銀時のなかでは。しかしその特別な日は、いつもと変わらないごく普通の日として過ぎていった。いつものように、午前中は庭の草むしりと犬の散歩というこまごまとした仕事を済ませて、午後の暇な時間はかぶき町をぷらぷらと歩いてみて。誰にも気取られることがないようにごくさりげなく、黒い後ろ姿を視界の隅に探すのさえも、いつも通り。けれど、団子屋の店先の縁台に腰掛けて通りを眺めていたときも、人の波に流されるように大通りを歩いているときも、道行く人々の中にあの黒い背中はついぞ見つけられなかった。
 べつに、会ったところで一番伝えたい言葉を伝えられるわけではない。精々いつものように売り言葉に買い言葉の応酬を繰り広げるだけだろう。もしかしたら、それさえもできないかもしれない。
 けれど、ただ姿が見たかった。本当に伝えたいことを告げられなくてもいい、何なら一言も言葉を交わせなくてもいい。ただ、空を刺すように真っ直ぐに伸ばされたあの背中を見たかった。この、特別な日に。
深い藍色に染まった夜空を眺めつつ、銀時はまた溜め息をついた。ちらちらと輝く星の光がちいさく胸を刺すみたいで、そっと目を伏せた。
 ただ遠くからその姿を見ているだけでよかった────なんて、本当はそんなことを言えやしないことは、分かっている。でなければ、あの夜に。あの雨の夜に、彼の手を掴みたいだなんて、考えたはずがないのだから。
 脳裏にほんの数日前の夜の出来事が蘇り、自嘲じみた笑みが口元に浮かんだ。くるりと椅子を回し、黒い夜空に背を向ける。
 ひとりきりの部屋の中は、耳が痛くなるほどに静かだ。時を進める時計の針の音だけがコツ、コツ、とうるさく響いている。神楽は恒道館で女子会をやるだの何だのと言って出かけていた。その女子会とやらが今日という日に開催されるのは、きっと今夜ならば恒道館に近藤が出没しないからだろう。あのストーカーゴリラも、今夜は屯所を空けることなくどんちゃん騒ぎに加わっているはずだ。バカみたいにはしゃいで飲んで、笑い合っている男たちの姿が目に浮かぶようだ。思わず、ふっと口元が緩んでしまう。
 壁にかかる時計を見やる。日付が変わるまで、あと半刻も残されていない。沈み込むように凭れていた椅子から背を離し、今度は机に突っ伏す。寝巻きの甚平越しに伝わる机の感触が肌に冷たい。風呂も済ませてあるし、寝巻きに着替えてもいるし、何なら歯磨きだってしてしまっている。あとは寝るだけだ。けれど何となく布団に入る気分にならないのは、今日という日を最後の最後まで過ごしたいという祈りにも似た感情のせいなのだと分かっている。言葉も交わせなかったし姿も見られなかったから、せめて、これくらいは。そんな、淡い祈りだった。
 手も届かないほど遠くの夜空の、微かな星の瞬きの音さえ聞こえそうなほどに静まり返った部屋の中で、銀時はただ時を刻み続ける時計を見つめる。きっと今頃、あの男は仲間たちの輪のなかにいるだろう。どうか、笑っていてほしいと思う。周りを囲む仲間たちも、彼自身も。
 忙しく回る秒針をぼんやりと眺めていると、不意に玄関のチャイムの音が響いた。こんな夜更けの、日付さえ変わりそうな時刻に訪れるものは得てして碌なものじゃない。そう分かっているものの、けれど切羽詰まった様子もなくむしろ控えめな感じで押されたチャイムがひどく気にかかる。無視する気分にもなれなくて、銀時はガシガシと頭をかきながら億劫そうに重い腰を上げた。ペタペタと廊下を歩くその間も、戸の向こう側の人物は再びチャイムを鳴らすこともなく静かに待っている。だからこそ、なんだか急かされたような気分になる。
「はいはーい、営業時間外の万事屋銀ちゃんですよー」
 ちいさく毒を吐きながら戸を開ける。
「……よォ」
 そこにいたのは、今日ずっと心を占めていた男。今日という日を特別に思う、その理由の男。土方だった。
「……お前、なんで」
 会えた喜びより、驚きの方がはるかに優っていた。誕生日だろ、宴会はどうしたんだ。……という言葉はかろうじて飲み込む。誕生日を気にかけるだとか、祝うだとか、そんな関係ではないのだ。だからこそ、今日はいつも通りの一日でなければいけなかったのだから。
「お前、今何時か分かってる? もう営業終わってんだけど」
 数日前の、雨の降る夜のことを意識しないようにと努めながら、なるべくこれまでと変わらない態度を心がけて声を作る。
「今日は営業してたのか」
「今日も営業してましたァ、つーか仕事がないときも営業してんだよ一応」
「はっ、そうかよ」
 ふっと息を吐いて土方が笑う。銀時は頭をかいた。
 目の前に立つ男には焦った様子もないし、むしろひどく穏やかだ。だから、こんな夜更けに彼が突然訪ねてくる理由が分からない。
「で、どーしたの。まさか嫌味言うためだけに来たんじゃねーんだろ?」
 じっと土方の瞳を見つめると、彼はそっと目を伏せた。
「まあな。……ちょっと貰いてーモンがあって」
「あ? なんだそりゃ」
「とりあえず、中、入れてくれねェか」
「……まあ、いいけどよ」
 大きく戸を開け、体を引く。すると土方は躊躇いがちに視線を彷徨わせ、ぎこちなく右足を上げて敷居を跨いだ。ざり、と乾いた音が鳴る。土方の態度はこれまでと何ら変わらないものだったけれど、やはりあの夜を忘れたわけではなかったらしい。
 脱いだ草履を揃え、銀時の後ろをおずおずとついてきた土方は、ソファーに腰を下ろしてからもなかなか本題を口にしなかった。トレードマークである煙草を咥えることもなく、あちこちに視線を投げたり手を組んだりと落ち着かない様子を見せている。何か言いにくいことなのだろうか。そう考えて、ふとあの夜のことが頭をよぎった。熱の滲んだ瞳や、触れようと伸ばした手の空を切る感覚が靄のようにゆらゆらと蘇る。慌てて頭を振り、それらの記憶を脳裏から追い出す。
「……あの、雨の夜に」
 ぽつり、と静かにこぼされた言葉。ハッとして、向かい側に座る土方の顔を見る。彼は俯き気味だったので、その顔にどんな表情が浮かんでいるかは分からなかった。
「掴み損ねたものがあるだろう? ──……俺も、お前も」
 びく、と肩が強張る。彼が何を言わんとしているのかはすぐに知れた。
 しとしとと降る雨の音が、どこからか聴こえた気がした。
1/3ページ
スキ