In other words,
龍雲党のアジトである屋敷からほど近い場所にある寂れた茶屋の一室で、土方は山崎を待っていた。龍雲党への討入りのために必要な情報を、党に潜入中の山崎から聞くためである。行燈の光だけが照らす部屋で土方はゆるゆると煙草の煙を燻らしていた。
約束の時間まであと五分、という時に、コンと控えめな音がひとつ響いた。トン、と近くにあった卓を一度叩いて応える。すると、すっと開いた襖から山崎が滑り込むようにひらりと入ってきた。無事にアジトから抜け出して来られたようだ。髪を一つに結ってほつれだらけの着物に身を包み変装した姿には、うっすらと疲れが滲んでいるようだった。二ヶ月も住み込みで潜入を続けていれば、無理もないだろう。
山崎が懐から取り出した簡素な報告書を受け取り、それに目を通していく。
「羽柴の様子はどうだ」
羽柴継之助。両親は既に他界しており身寄りはほぼ無い。数年前に地方から江戸に出てきていて、製薬会社に勤務していた。会社では、今は既に退職扱いになっているという。幼い頃から理系科目に強く特に化学系に秀でており、そこに目を付けられてかつての幼馴染によって龍雲党へ引き込まれた。
男の来歴を頭の中に思い出しつつ尋ねると、山崎は少し表情を曇らせた。
「相当参っているようです。自分が作らされているものが爆弾だということに、勘付いているみたいで」
「そうか」
土方は苦い気持ちで相槌を打った。その作らされているという爆弾は、きっとテロのときは彼自身が背負わなければならなくなるものだ。龍雲党は、彼を犠牲にして自爆テロを起こすつもりなのだから。報告書を持つ手に思わず力が入る。紙に小さく皺が寄る。
「もともとテロを起こす気なんて更々無いし、むしろ温厚な性格ですからね」
「確か、恋人がいるんだったか」
「はい。何も言えないまま置いてきてしまった彼女が心配だと、俺だけに話してくれました」
土方は深く煙を吐き出した。彼が無理やりにとは言えテロという罪を犯す前に、そして命を奪われる前に、彼を逃さなければならない。その思いが強くなる。
けれど、もし真選組が龍雲党に討ち入る前に羽柴が逃げだせば、奴等は追っ手をかけるはずだ。そうなれば追っ手となった党員を逮捕するのが難しくなるし、何より羽柴はその追っ手に殺されてしまうことになるだろう。よって、真選組が討ち入るその日に羽柴を逃すようにしなければならない。
ならば、討ち入りの日は、山崎が羽柴のそばについていられる日がいい。サポート役が必要だからだ。
これまでは、新人である山崎と羽柴は同じ日に見張りをさせられたことはなかったようだ。二人して逃げ出してしまうのを恐れてのことだろう。けれど、月に一度だけ、必ず二人揃って見張りをさせられている。その日こそが会合の開かれる日と考えて間違いないだろう。月に一度開かれるという会合の専らの議題は、近日中に予定しているテロについてのはずだ。そのテロで残酷な役目を新人二人に背負わせている以上、そしてそれを彼らには隠蔽している以上、彼らを会合に参加させるとは考えにくい。もちろん、山崎たちを見張るための見張り役もいるようだが、それはたった一人であり戦力としては微細なものだ。
山崎のまとめた報告書をめくりつつ、土方は思考を巡らせていく。
「となれば討入りは、その会合のある日にするのが得策か」
報告書から目を上げないまま呟く。党員が一堂に会しており、なおかつ羽柴を逃しやすい日となれば、その日をおいて他に無いだろう。
「ええ。ですが、その会合の日というのが不定期でして、日取りが掴めんのです」
「暗号化されてるんだったな」
ページを遡り、紙面に素早く目を走らせて該当箇所を探す。
『ひかり阻まれつい立つ日』
そう書かれた文字を人差し指でなぞる。
何を意味しているのだろう。いつを示しているのだろう。土方は吸いかけの煙草を灰皿にぐしゃりと押しつけて、新しいものに火を点けた。すう、と深く息を吸い込む。
「暗号、意味が分からんでしょう」
そう呟いた山崎の声には疲れが滲んでいた。
もくもくと考え続けていると、不意に山崎が立ち上がった。
「煙すごいんで、ちょっと換気しますね」
寒いけど我慢してくださいね、などと言いながら、山崎は障子造りの窓をゆっくりと開けた。行燈だけを灯していた薄暗い室内に新鮮な光がきらきらと射し込む。空を見上げた山崎が、うわ、と感嘆をもらした。
「今日の月、まんまるですよ。満月ですかね」
土方もつられるように報告書から視線を上げてそちらを見やった。細く切り取られた濃紺の空に、白い月がぽつりと浮かんでいるのが見える。
「……違ェよ」
土方は小さく呟いた。
一昨日、公園で万事屋と見た月こそが満月だったはずだ。いつかの夜、酔っ払った万事屋を家まで送って行ったときに見た月と同じ、まんまるな形だった。だからこそ土方はわざわざ迎えの車から降りてあの公園へ向かったのだから。なぜ、そうしたくなったのかは、分からないけれど。
「あれ、そうなんですか」
「ああ」
「へえ、副長、月の形とか興味無さそうなのに案外詳しいんですね」
「うるせェ」
まさか、万事屋と月を見るうちになんだか月を気にするようになりました、なんて言えるはずもない。窓を閉めて部屋の中へと戻ってきた山崎をギロリと睨みつける。山崎はわざとらしく肩を竦めた。月の姿はもう見えなくなっている。
と、そのとき、頭の中に閃光が走った。
少しずつ形を変える光、満ち欠けを繰り返す月、月に一度だけの会合、ついたちと呼ばれる日。
「……朔の日だ」
「え?」
ぽかんとして問い返す山崎に、土方はにやりと笑ってみせた。
「奴等の会合が開かれるのは、新月の夜だ」
それからは早かった。
次の新月の夜、つまり次の会合の日に向けて討入りに向かう人員を決めたり動線を確認したりと策を講じて、着々と討入りの準備を進めて。同時に、山崎に己の読みが当たっているか裏を取らせて。五日後、山崎に会って討入りの作戦を伝え、羽柴を逃がす手立ての打ち合わせをして。
そして向かえた、討入りの夜。
結果は成功だった。予定通り羽柴は逃がしたし、他の党員は全員捕縛した。土方の読みは当たっていたのだ。けれど、ただひとつ予想外だったのは、その場に万事屋がいたことであった。
あれから数日が過ぎた。討入りの後始末もすべて片がついて、ようやくひと段落ついたと言えるようになった。書類仕事のため自室の机に向かっていた土方は、ひとつ伸びをして湯呑みに手を伸ばした。冷たくなった緑茶を飲みつつ、ふとあの新月の夜のことを思い出す。
後日聞いた山崎の話によれば、万事屋は羽柴の恋人から、羽柴を救い出してほしいと依頼されていたらしい。何でも屋らしい、彼ららしい仕事だ。無事に羽柴を連れて逃げることができて、今頃ほっとしている頃だろう。
となれば彼は、真選組の動きを警戒しているはずだ。ちょうど討入り現場に居合わせたのだから、羽柴の逃走を真選組が把握していることは分かっているだろう。ならば、真選組が羽柴を追ったり万事屋に事情聴取をしたりするだろうと踏んで、こちらの動向を窺っているに違いない。土方たちがもともと羽柴を逃がす気でいた、なんてことは全く知らないのだから当然だ。
実際、あの新月の夜から一度も万事屋に会っていない。巡回中、ふと視界の端にあの白い頭を捉えた気がして振り返っても、次の瞬間には既にいない。そんなことがもう何度も続いている。避けられているのだろう。
真選組からの接触を警戒しているであろう男にわざわざ近づいていっても、余計な心配をさせてしまうだけだ。ならば、しばらくの間は一切顔を見せないようにして、万事屋への聴取をする気がないこと、継之助を捕らえる気がないことを悟らせればいい。
土方はひどく軽いソフトケースから最後の一本となった煙草を取り出し、火を点けた。深く吐き出した息が白い煙となって部屋に溶ける。
……しばらく会わない、と。
そう決めただけなのに、胸の奥がつきりと小さく軋む。ふたりで見た月の形や白い光が、ほのかに脳裏に浮かび上がる。土方はチッと舌打ちをこぼし、空になった煙草の箱を握りつぶした。
「失礼します」
ノックとともに聞こえた声に「おう」と返すと、山崎がするりと部屋に入ってきた。手にした盆には新しい茶の入った湯呑みが乗ってある。
「そろそろ休憩したらどうですか」
「ああ、そうする」
ゆらゆらと湯気をたてる湯呑みを受け取る。
「もう、久しぶりに二連休で非番なんですから書類なんかしないで外に出かければいいのに」
「いいんだよ、別にすることもねーし」
自分だって非番なのに、今こうして屯所にいるくせに。ぶちぶちと口やかましく小言を言う山崎を、土方は軽く睨みつけた。
「ちょっと前までは非番のたびに、嬉しそうに飲みに出かけてたじゃないですか」
「……うるせェ。別に嬉しそうになんかしてねぇ」
「はいはい、そういうことにしときますよ」
分かったような口をきく男に、土方はひとつげんこつを落としてやった。
「何するんですか痛いなァ!」
「うるせー煙草買ってこい十分以内で」
「横暴にもほどがあるでしょ! 自分で買いに行けばいいじゃないですかどうせ非番なんですから」
「……外に出たくねーんだよ」
外に出れば、万事屋と顔を合わせてしまうかもしれない。ぽつりとこぼすと、山崎はやれやれとでも言うように大きな溜め息をついた。それから、よっこいしょ、と年寄りくさい掛け声とともに立ち上がる。
「分かりましたよ。……でも、十分以内ってのは無理ですよ」
そう言った山崎は、またするりと部屋から出て行った。
ひとりきりになった部屋で、土方はいまだ白い湯気を立ち上らせている湯呑みに口をつける。飲みかけの茶の水面で、まん丸な光がゆらゆらと揺れていた。