In other words,


 朝晩になると少し肌寒い程度の気温だったのが、最近では太陽が出ている昼間でさえ風がほんのり冷たくなってきた。橙や黄に色づきはじめた木々をざわめかせながら去っていった風に、銀時は小さく肩をすくめた。足元で落ち葉がくるくると弧を描く。
 つい飲み過ぎて土方に担がれて帰ったあの日から、もう五日が経っている。土方に連れて帰ってもらったことは覚えているものの気付いたらいつの間にか布団で寝ていたので、はっきり記憶が残っているとは言えない。けれど、月を眺める土方の後ろ姿だけは、なぜか脳裏にしっかりと焼きついたままで。その姿は今でもはっきりと思い出すことができる。
 あのときの月の面影を探すように、銀時は空を見上げた。千切られたみたいなうろこ雲が浮かぶ真昼の空は、どこまでも青く澄み渡っている。もちろん、冴えざえと光る月なんてものは見えず、我が物顔で輝く太陽がいるのみである。銀時は青空に向かって小さく息を吐いた。
 しかしよくよく目を凝らして見ると、雲と雲の隙間で、掠れたように消えかかる白色の存在に気が付いた。夜とはまったく異なる顔を見せる、昼間の月である。抜けるような秋晴れの空に今にもしゅんと溶けてしまいそうなほどに薄い色をした小さなそれは、夜に輝いているところなんて想像もつかない。それでも、昼に見る掠れた月も、宵闇を照らす夜の月と同じで凛と輝いている気がした。
 ぼう、と月を眺めていると、「おい」と背後から声がかけられた。くるりと振り返る。
「往来でぼけっと突っ立って、何してんだ」
 そこには予想通り、仏頂面をした土方が立っていた。
 その鋭い視線に、「まるで職質だな」と呟く。すると「怪しい奴に声かけるのも仕事のうちなんでな」と煙草の煙を吐き出しながら飄々と返された。ツンと澄ました顔が小憎らしい。
「見たら分かんだろ、糖分が降ってくるの待ってんだよ」
 ふざけてそう言うと、「……あめは降りそうもねェぞ」と土方が呆れたように目を細めた。
「じゃあさ、雨が降りそうなこと言ってもいい?」
「あ?」
「この前介抱してもらった礼として奢られさせてやってもいいけど」
 言いながらなんとなく気まずくなってふいと視線を逸らす。
 らしくないことを言っている自覚は充分過ぎるほどにある。今までだって介抱してもらったことはあるし、逆に介抱してやったこともある。けれど、その礼を求められたことも求めたこともない。次に鉢合わせたときも、ただいつも通りの顔をしていつも通り隣で飲むだけであった。
 なぜこんならしくないことを言ったのか。
 最近は依頼が多く入っていて、いつもより懐があたたかいことも要因のひとつだろう。
 だけどそれより、また一緒に飲みたいと思ったから。いつものような鉢合わせという運任せの方法ではなくて、待ち合わせという確実な方法で隣に座って、帰りも一緒に夜道を歩きたい。そんなことを思ってしまったのだ。
「……回りくどい言い方しやがって」
 咥えたままの煙草に手をやりながら、土方が口の端を上げた。
「確かに、明日は雨が降りそうだなぁ?」
 彼は揶揄うようにそう言って空を見上げる。銀時も同じように見上げるが、もちろん水彩画のような真っ青な空には雨雲なんてどこにもない。銀時はぽりぽりと頭を掻いた。
「で、お前、金あるのか」
 空を映していた藍色の瞳がつい、と銀時へ向けられる。
「前も言っただろ。最近は結構繁盛してんだよ、珍しいことに」
「自分で言ってちゃ世話ねーな」
 にっと口角を上げて彼が笑う。その拍子に唇の先で煙草の火がぴこんと跳ねた。
「ちょうど書類が片付きそうだから、今日の夜なら出かけられる。八時くらいになるが大丈夫か」
「ああ。じゃあ、八時にこの前の店で」
「おう」
 土方はくるりと踵を返し、通りの人混みの中へと歩いていく。その真っ直ぐな後ろ姿を見送りながら、銀時は小さく息を吐いた。
 夜になり、八時ちょうどに待ち合わせの店へ行くと、すでに土方は来ていた。彼はカウンター席ではなく奥の二人用のテーブル席に座っており、銀時の姿を見つけると小さく手を上げた。ガヤガヤと賑やかな店内を横切りその席へと向かう。
「よお」
 挨拶代わりにそう言ってみたものの、なんだか変な感じだ。銀時はぎくしゃくした動きで土方の向かいの席へ腰を下ろす。
「燗でよかったか」
 先に注文をしておいてくれたらしく、土方がちらりと銀時を窺う。
「ああ」
「つまみも適当に頼んである」
「ん、さんきゅ」
 慣れない会話に、なんとなく尻の座りが悪いような、むずむずとした気持ちになる。それは目の前の彼も同じであるようで、壁に貼られたメニューを眺めたり厨房に目をやったりと、やたらあちこちへと視線を飛ばして落ち着かない様子であった。いつもはカウンター席であり、隣に座って横顔を見ていることが多かったから、今のように真っ正面に向かい合って座っている状況にも慣れていない。いつも通りカウンター席にしといてくれたらよかったのに、と少し恨めしい気分になる。
 やがて運ばれてきたぬる燗でぎこちなく乾杯をし、つまみの数々に舌鼓をうつ。土方があらかじめ頼んでおいてくれた料理のいくつかは、銀時のお気に入りのものであった。
「ここの出汁巻き、美味いよな」
 ふわふわとした玉子をつつきながらそう言うと、土方がくく、と笑った。
「お前、この店に来たときはいつも食ってるもんな」
「……そうだっけ」
 銀時は玉子を咀嚼する口をへの字に曲げた。いつの間にかお気に入りを知られるまでになっていたこと、そしてわざわざ土方がそれを注文していたことが面映ゆい。
「確かにここの料理はぜんぶ出汁が美味いよなぁ」
 そんな銀時の様子に気付く気配もなく、土方は独り言のように呟きながらのんびりと箸を動かしている。どうやら機嫌が良いようだ。杯を空けるペースも早いし、よく笑っている。それは、この前の銀時のような、やり場のないさみしさによるものではなさそうだ。何か良いことがあったとき特有の、ぽやぽやとした浮ついた雰囲気を纏っている。
「どーしたよ、なんか良いことあったの」
 水を向けてやれば、一瞬ぴくりと動きを止めた土方はすぐにへらりと相好を崩した。酒の力も相まって、表情が緩くやわいものになってきているようだ。
「ん。今日は近藤さんがストーカーしなくて、総悟がバズーカ撃たなかった」
 嬉しそうな声音で語られる内容に、銀時は思わず苦笑をもらした。それだけでご機嫌になってしまうのだから、彼の幸せのハードルはかなり低く設定されているようだ。
「あ、なに笑ってやがる」
 苦笑していたのがバレたようで、土方が拗ねたように口を尖らせた。やはり真っ正面に座っているとどんな小さな表情の変化もすぐに見つかってしまう。
「いや、そりゃ良かったなって思っただけ」
 取り繕うように小さく首を振ってみせる。
「珍しいんだぞ、あいつらが真面目に仕事するのなんざ」
 ぐちぐちと零す土方は、手にした猪口を弄びながら上司と部下が日頃いかに仕事をしないかについて語り出す。どうやら見た目以上に酔っ払っているらしい。でなければ、普段は聞き役に回ることの多い彼がこんなにもお喋りになることこそ珍しいのだ。
 つらつらと愚痴を重ねながらも、饒舌に語るその表情は至極穏やかなものである。こんな珍しい表情を正面から見ることができるなら、テーブル席も悪くないかもしれない。猪口を傾けながら銀時はそっと笑った。
 会計を終えて店を出ると、夜の匂いを運ぶ風がすうっと頬を撫でた。
「さむ」
 思わず両腕をさする。
「懐の話か? 奢らせちまって悪かったな」
 ちっともそんなこと思っていないような、揶揄うような声音で土方が笑う。
「お前、思ってないだろ」
 ジトリと睨みつけると、隣を歩く彼は「思ってる思ってる」と軽い調子で返事を寄越した。
 土方が結構酔っているらしいことはその口振りやほんのり赤く染まった頬から窺えるのに、足取りは案外しっかりとしている。
 支えてやる必要はないな、と考えて、それを少し残念がっているらしい自分に気付く。きっと寒いからだ。寒いから、少しでも人の体温を感じたいと思ってしまったせいだ。誰に言うわけでもなく、心の中でそんな言い訳をこぼす。
「夜になるとさむくなるな」
 少し前を歩く土方がきゅ、と肩を竦めた。
「もうすぐ十一月だもんなぁ」
 そう返しながら、銀時は目の前を歩く背中を見つめていた。
 呂律が回らなくなっている口調も、ほんのり赤い頬も、昼間に街で見かける隊服姿の彼とは結びつかない。けれど、凛と伸びた真っ直ぐな背中は、紛れもなく昼間の彼と同じものである。
 それにしても、この男は闇に紛れることがない。銀時は薄墨色の羽織を着た背中をまじまじと見つめた。黒っぽい着物で、暗い闇夜を歩いているというのに、その背中は夜に溶ける気配がないのだ。今日のまん丸な月が落とす光はいつもより明るいが、それにしたって何だか彼の周りだけ異様に明るく際立って見える。確かに目を惹く容姿をした男だとは思う、けれど、こんなにも周りの景色に馴染む様子がないというのは職業柄不便なことも多いのではないか。銀時は小さく首を傾けた。
「どうかしたか」
 不意に振り向いた土方が、すっと流し目を寄越す。銀時の歩みが遅いことを気にしているらしい。まさか、お前の背中を見ていました、なんてことを言えるはずもない。苦笑混じりに「何でもねぇよ」と首を振る。土方は納得していない、というふうに一瞬眉を寄せたものの、また前へと向き直ってすたすたと歩き出してしまった。
 銀時は置いていかれないようにと歩みを速めて、白い月明かりを纏う背中を追いかけた。
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