In other words,
秋という季節は、なぜか人恋しさを呼び起こす。
銀時はひとり夜道を歩きながら、むき出しの腕をさすった。
今日は神楽が友達の家へ泊まりに出かけているので、久しぶりにひとりで夜を過ごさなければならない。けれど自分ひとりだけのために夕飯を作る気にもならなくて、ふらりと家を出たのがつい先ほど。行きつけの飲み屋を目指してゆるゆると歩いている途中なのだ。
わずかな月明かりだけに照らされた暗い夜道を歩くうちに、だんだんと肌寒くなってくる。つい最近まで夏の暑さの名残りを引きずっていたというのに、いつの間にか訪れていた秋は更に深まっていたらしい。上着を着てくりゃよかったかなと後悔しつつ、片肌脱ぎをやめてきちんと袖に腕を通す。
色付きはじめた木々の葉を揺らした風が、腕を通したばかりの袂をなびかせる。舞い上がったその風につられるように、ふと夜空を見上げる。その先にあるのは、つるりとした陶器のように白く静かな光を放つ、秋の月。
秋の月は、なんだか心をさびしくさせる。
風流などとは縁遠い生活を送る自分でさえそうなのだから、平安時代の歌人の繊細な心に沁み入るさびしさとはいかほどのものだったのだろう。深い色に沈む夜空を眺めながら、銀時はそんなことを考えた。
もちろん、自分ひとりに訪れた秋だなんて思っているわけではない。けれどそれでも、冴えざえとした、しんと沁み入るような光を眺めていると、胸のあたりがぞわぞわとしてくる。誰かに、そばにいてほしくなる。
なんて、我ながら随分とらしくないことを考えてしまった。誰が見ているわけでもないけれど、誤魔化すようにぽりぽりと頭を掻く。こんな気持ちは、パーッと飲んではやく忘れてしまうに限る。銀時は飲み屋へと向かっている足を速めた。
明るい大通りへと出ると、酔っ払いたちの陽気な声があちこちから聞こえてきた。すれ違う人々が、みな誰かと連れ立って歩いているように見える。ひとりで歩いているのは自分だけのような気がして、それがいっそう夜風の冷たさを際立たせた。
やっとたどり着いた飲み屋の色褪せた暖簾をくぐり、戸を開ける。外の世界とは裏腹な、ぽかぽかとした空気がふわりと体を包んだ。
「おっ、銀さんいらっしゃい」
ニカッと笑いながら威勢のいい声を寄越す親仁に片手を挙げて応えつつ、ぐるりと店内を見回す。けれど、どこにも知り合いの姿は見当たらない。いつも飲みに出かければ大抵誰かに会うのに、こんなときに限って誰も知り合いがいないとは。苦い気持ちを抱えつつ、カウンター席の端のほうへと腰を下ろす。
とりあえずビールと適当なつまみを注文したあと、改めて店内を見回してみる。テーブル席に座っている連中はもちろんのこと、カウンター席の少し離れたところに座っている人もそれぞれ連れらしき人と楽しそうに飲んでいる。がやがやとした賑やかな笑い声をどこか遠くに感じながら、運ばれてきたビールに口をつける。つるりと喉を通りすぎた液体が体の中をじわじわと冷やしていく。冷たいビールを頼んだのは明らかに間違いだったようだ。じわりと心に沁みた寄る辺のないさみしさを、苦いビールと一緒に無理やり飲み下した。
そうしてひとりで杯を重ねていると、不意にガラリと店の戸が開いた。ちらりと戸口に目を遣る。
そこにいたのは土方であった。いつもであればゲエッと思いきり顔をしかめている相手だ。けれど、今日はようやく見知った顔に会えた喜びのほうが勝まさっている。銀時には気付いていない様子で親仁と一言二言話をしている土方へ、獲物を狙うかのごとく鋭い視線を向ける。親仁との会話を終えたようで、ぐるりと店内を見回して座る席を探す土方に銀時は待ってましたとばかりに手を振った。
「ひーじかーたくーん」
呼びかける声に気付いて振り向いた彼は、ゲエッと顔をしかめた。それを物ともせずに「こっちこっち」と手招きしながら隣の席の椅子を引いてやると、案外押しに弱い彼は眉を寄せながらも素直に隣に座ってきた。チョロいもんだ、と内心でほくそ笑む。
「一体どんな風の吹き回しだ」
親仁からおしぼりを受け取りながら、土方は訝しげに銀時を睨む。確かに、彼が警戒するのも無理はないだろう。こうして隣で飲んだ回数はもはや両手両足を使っても数えきれないが、そのすべてがたまたま鉢合わせてしまったから、たまたま隣の席しか空いてなかったから、という理由によるものである。今のように、わざわざ隣に呼ぶなんてことは初めてだ。
「んー、べつにぃ」
甘い出汁巻きをつつきながら、横から向けられる鋭い視線を適当に躱す。きちんとした答えなど返ってこないことを悟ったのだろう、土方も溜め息をついたきりそれ以上追求してくることはなかった。大人しく目の前のメニューと睨めっこをしはじめた土方を、銀時は横目で見やる。
確かに、出会い頭こそ互いに顔をしかめてみせているものの、実際には、この男の隣で飲むのは悪くない。土方は酒が入ると呂律も頭も回らなくなるらしく、普段より言葉の棘が少なくなり態度も丸くなる。だから銀時も必要以上に突っかかることがなくなり、その結果、案外穏やかに飲むことができるのだ。その穏やかな空間を心地良く感じているのは、おそらく銀時だけではないだろう。何と言っても、似た者同士の二人なのだから。
「今日、非番だったの?」
ゆるゆると猪口を傾ける土方は、いつもの隊服ではなく黒い着流し姿であった。少し赤らんだ横顔をちらりと見やりながら尋ねる。
「いや、仕事終わり。非番は明日だ」
コト、とテーブルに猪口を置いた土方は、焼き鳥の串に手を伸ばしながら答える。もちろん、焼き鳥にはタレよりも多い量のマヨネーズがまとわりついている。
「お前も仕事終わり……なわけないか。なんだ、パチンコで勝ったのか?」
「ちっげーよ普通に仕事してたわ!」
「へえ、珍しいな」
口の端についたマヨネーズをちろりと舐めとりながら、土方が片眉を上げた。
「この時期は何かと仕事頼まれんだよ、落ち葉掃除とかハロウィン関係のいろんなコトとか」
「そりゃ良かったな」
「おう。おかげで筋肉痛が治る暇がねぇ」
「普段怠けてるせいだろ」
「うるせぇ」
ぽんぽんと飛び出す軽口の応酬が心地よい。銀時はコップの底に残っていたビールを一気に飲み干した。泡も消えているそれはすっかりぬるくなっていて、もう冷たくはなかった。
たとえ軽口を叩かれようと揶揄われようと、そばで話を聞いてくれる人がいることがほっと胸をあたたかくさせる。そっと隣を盗み見ると、土方は口元に小さく笑みを浮かべながらくるくると猪口を回して遊んでいた。つられるように、銀時も頬を緩める。
「そう言えばさ、今日も三丁目の八百屋の婆さんちで庭掃除してたんだけど、神楽が……」
最近入った依頼の話、新八や神楽の近況などを話して聞かせながら、どんどん杯を重ねていく。先ほどまでは一人で飲んでいたものだから、話を聞いてくれる人がいることに浮かれてしまい、堰を切ったように話が止まらない。呼応するみたいに杯を空けるスピードも速くなる。
「お前、いつもよりペース速くねーか」
銀時の話にぽつぽつと相槌を打っていた土方が、カウンターに並んだ銚子たちを見下ろしながら目を細めた。もう何度も共に飲んできたのだからお互いのペースくらいは把握している。
「そうかぁ?」
銀時はへらりと笑ってみせた。そんな下手くそな誤魔化しにも土方は気付いているだろうけれど、やはり何も言ってこなかった。土方らしいな、と銀時は小さく口元を緩める。この男のフォロー気質は、酒の席においても遺憾なく発揮されるのだ。飲むペースだけでなくそんなことも随分前から知っている。あと、ビールより日本酒が好きなことも、焼き鳥はどちらかと言えばタレ派なことも、機嫌が良いときは猪口を弄ぶ癖があることも。
今まで隣で見てきた彼の姿を思い浮かべているうちに、なんだかふわふわとした気分になってくる。胸の中に生まれたむず痒さを誤魔化すように、銀時は腕を枕にしてカウンターに突っ伏した。
「あらら銀さん、寝ちゃったら困るよ」
親仁の、苦笑交じりの声が頭に降ってくる。何か返事をしようとしたものの、「んんー」といったむずがるような不明瞭な声しか出なかった。
「はやく帰らないと、神楽ちゃん待ってるんじゃないの?」
親仁は結構本気で心配してくれているらしい。無理やり頭の向きを変えて、親仁のほうを見上げる。
「あいつ、今日は友達んち」
「あらら、そうだったのかィ」
二重にぼやけた視界では、親仁の表情すら読み取れなかった。
「それでも、ひとりで帰れなくなっちゃう前に早く帰らないと」
「んーそうなんだけどさぁ」
親仁の言っていることはもっともだ。ちゃんと分かっている。けれど、あの暗い夜道をまた一人で歩いて、誰もいない家へ帰らないといけないかと思うと、どうしても席を立つ気になれないのだ。
愚図るようにして頭を腕に擦りつけていると、突然土方が口を開いた。
「親仁、コイツのぶんもこれで足りるか」
隣から聞こえた言葉に驚いて振り向く。いつもと変わらない涼しい表情で、カウンターに代金を並べる土方の姿が目に入った。
「土方さん、いいのかい?」
「構わねェよ、あとでコイツから徴収する」
さらりと言ってのけた土方は、今度は銀時へと向き直った。わけが分からずにぽかんとしていると、呆れたように口を曲げた土方が「ほら帰るぞ」と腕を引いてきた。頭の上に浮かぶクエスチョンマークがいっそう増える。銀時は珍しいものでも見るようにぱちぱちと目を瞬かせた。
土方に腕を引かれるまま椅子から立ち上がる。一人で歩けると思っていたのに、予想していた以上に足元が覚束なくてたたらを踏んでしまった。思っていたより酔いが回っていたことを思い知る。
「そんじゃ土方さん、銀さんをよろしくね」
「おう」
何も喋らないうちによろしく頼まれてしまった。ぼんやりとした頭でそんなことを考え、少し可笑しくなる。ふふ、と忍び笑いをもらすと、真横にある顔が奇妙なものを見るみたいにしかめられた。
店を出ると、肌寒い秋風がすうっと頬を撫でた。
「めずらしーね」
土方の顔を見ないまま、そう言ってみる。
「お前こそだろ」
彼も銀時の顔を見ないままぽつりと呟いた。
これは気付かれているな。銀時は胸の内で苦笑をもらした。
家に誰もいないから帰りたくない、という子供じみた我儘と、何となくまだ心に沁みたままになっているさびしさと。それらのせいで、よく喋ってよく飲んでいたのだということ。きっと、隣にいる土方は気付いている。
ふにゃりと体の力が抜ける。すると土方が慌てたように体を支えた。銀時の腕を掴んでいるだけだった彼は、掴んでいた腕を肩に回し、腰を支えて、より本格的な「酔っ払いを運ぶ姿勢」になった。格段と歩きやすくなり、楽でいいなと悦に入る。それに何より、体温をより近くに感じられる。
体を半分預けたまま引きずられるようにして歩くうちに、どうやら土方はほんの少し遠回りして万事屋へ向かっているようだと気付いた。家に誰もいないから帰りたくないのだ、と。そんな子どもじみた本音にも、きっとこの男は気付いているのだ。
先ほどまで胸に沁みついていた人恋しさが、ゆっくりゆっくり、温められるみたいに溶けていく。すん、と鼻を鳴らす。かすかに煙草の匂いがした。
土方は、銀時の体から力が抜けた理由を酔いが回ったせいだと考えたらしい。すぐそばにあった小さな公園で一旦休憩することにしたようだ。暗い小さな木立を抜けてベンチまで歩いていく。
硬い木のベンチにドサリと下ろされる。体から力は抜けていたが、なんとか座ることはできた。銀時はぐにゃぐにゃした軟体動物みたいな姿勢のまま、土方がくるりと背を向けてどこかへ歩き出すのを眺めていた。どこへ行くのだろう、もしかして置いて帰るつもりだろうか。こんな氷みたいに冷えたベンチに、一人置き去りにしたままで。そう考えて、銀時はゆるゆると頭を振った。あの男がそんなこと、できるはずもない。
実際、土方は一分もしないうちに銀時のもとへと帰ってきた。その手には水の入ったペットボトルが握られていた。近くの自販機で買ってきたらしい。土方が動くたびに容器の中の水がゆらゆらと揺れる。
「ほら」
ご丁寧にキャップを開けて手渡されたそれを受け取る。口をつけ、ごくごくと飲む。
と、不意に月が目にとまった。水を飲むために上を向いたら、空を見上げる格好になったのだ。
先ほどと何ら変わりのない、冴えざえとした白い月明かり。静かなそれがペットボトルの中の水に反射している。細かな光を溶かした冷たい水が喉を通り、体に沁み渡る。けれど、不思議とさびしくはならなかった。
銀時はもう一度月を見上げた。ひとりで見たときと変わらない、何の変哲もないいつもの月のはずなのに。
それなのに、むしろなんだかとても神秘的で、きらきらして見えて。
「……綺麗だなぁ」
思わず声に出していた。
「あ?」
ベンチの前に立っていた土方が銀時を見る。その顔に怪訝そうな表情が浮かんでいたので、くいっと顎を上げて月を示した。伝わったようで、彼も振り返って夜空を見上げる。
「ああ、ほんとだ」
土方がぽつりとこぼす。
「たしかに綺麗だ」
見上げる顔は見えないけれど、きっと小さく笑っているのだろう。そうと分かるくらい、柔らかで素直な声だった。
目の前の凛と伸びた背中を、月の光が白く縁取っている。黒髪の一本いっぽんが光を受けて輝く様まで見えそうだと思った。黒い長着の衿から覗く首筋は、光を発しているのかのごとく透き通るような白さを持っている。
この男には、月がよく映える。
ぼやけた視界の中にあってさえ鮮明に映る後ろ姿を、銀時はただじっと見上げた。