夕影の温度をわけあって
二人に別れを告げて、カフェを後にする。
彼女に言われた通り、山を登ることにした。それほど高い山でもないし、遊歩道が整備されているので登るのはそれほど苦労しなかった。食後の良い運動だな、と笑い合いながら登り進めていく。
標高が高くなるにつれて、緩やかだった道が、少しずつ傾斜が急になっていく。それに従って道も細くなり、所どころ石や木の根が剥き出しになっている。自然の状態に近づいた、という感じだ。道の両脇を囲むように生えた木々の葉が、頭上でさわさわと柔らかに音を立てる。
「なんか癒されるな」
銀時は後ろを歩く土方を振り返った。
「ああ。空気が綺麗だ」
「ニコチンまみれの肺も浄化されるんじゃねーの」
「そりゃいいな。お前のその縮れきった髪も浄化してもらえよ」
「これは山の空気なんかではどうしようもねーんだよ何をしたってどうも出来ねーんだよ」
大げさに喚いてみせると、土方はククと喉を鳴らした。山登りは結構大変ではあるが、どうやら機嫌は良いらしい。銀時もふっと頬を緩めた。
ちらちらと道を照らす木漏れ日の光が、少しずつ明るさを増していく。どうやら山頂は近いようだ。高揚感に胸が騒ぐ。
「着いた!」
やっとたどり着いた山頂は、展望台のように開けた場所になっていた。広場のようになった周りを柵が取り囲んでおり、端の方にはいくつかの大型双眼鏡が備え付けられている。
「たしかに、良い眺めだな」
柵の側まで近寄った二人は、思わずほう、と息をついた。夕方が近いこともあり、その景色はとても美しかった。
赤く燃える夕日が、この山も、麓に広がる町も、すべてを夕焼け色に染め上げている。橙色の光が、眼下に見えるものすべてを淡く縁取っている。赤とんぼが二匹、すいっと目の前を横切った。
ふと、夢の景色を思い出した。
橙色に彩られた山のふち、舞い落ちる枯葉、赤く染まった小さな庭。それから、あの匂い──。
鼻を掠めた匂いに、銀時ははっと振り返る。
橙色の小さな花が、そこに咲いていた。
「金木犀か。まだ咲いてるんだな」
銀時の視線の先を辿った土方が感心したように呟く。
咲いている花の数はそれほど多くない。濃い緑の葉の茂る木の下にはパラパラと花弁が散っているから、もう盛りは過ぎているのだろう。それでも、あの甘く澄んだ匂いはたしかに感じられる。
懐かしい匂い。あの人が、懐かしい気持ちになると言った匂い。
ふと、夢から覚めたことで途切れていた記憶の糸が、またするすると手繰られていく。
「もうどこも散ってるもんだと思ってた」
ポツリとこぼされた土方の言葉に、銀時も頷く。
「また来年、って思ってたのに」
「なんか得した気分だな」
「花の香りとか、お前でも気にするんだな」
いつも煙を纏っているから、そんな季節ごとの花の香りなんて気にも留めないと思っていたのに。得したという表現を意外に思い、銀時はニヤニヤ笑いながら隣に並んだ土方の顔を見た。
「人を何だと思ってやがる。大体、こんな主張の激しい匂い、気付かねー方がおかしいだろ」
鬱陶しげに銀時を睨んだ土方は、けれどふと表情を緩めた。いつか見たような、穏やかで優しい笑みで金木犀の花を見る。
「それに、合図みたいなもんだからな、……お前の誕生日の」
心臓を、ぎゅっと掴まれたみたいだった。胸の奥で切なさが弾ける。銀時は目を細めた。
十月のはじめ頃から香る花の匂いに俺の誕生日を思うくせに。そうやって大切な日だと思ってくれているくせに、決して当日には祝ってくれなくて。もっと大事にすべき人がいるだろう、なんて、当たり前みたいに笑って言うのだ。
もどかしさに、首の後ろのあたりがちりちりとする。身の置き所が見つからないみたいに、心がざわざわとして落ち着かない。力任せに抱き寄せてしまいたくなるようなじれったさと衝動。
あのときと同じつめたい風が吹き抜ける。身を切るようなつめたさが、さあっと二人の頬を撫でる。
そうだ。このつめたさは、さみしさだ。
一歩引いたところに立ち、入り込んでこないことへのさみしさ。入り込まないことを当たり前だと考えていることへのさみしさ。当たり前にそばにいないことを受け入れている土方への、さみしさだ。
きゅ、と冷えた手のひらを握りしめる。
「さみしいんだよ」
するりと、言葉がこぼれていた。掠れていて、情けない声だった。
一瞬、虚をつかれたように目を見開いた土方が、怪訝そうに首を傾げる。たしかに、会話だけ見れば何の脈絡もない言葉であっただろう。けれど、止められなかった。溢れ出した想いが、そのままのかたちで言葉となる。
「お前がそばにいねぇと、さみしい」
一際つよい風が吹き抜けた。目の前に咲く金木犀の匂いがぶわりと濃くなる。小さな花弁や落ち葉を巻き上げたその風に、銀時は思わず目を閉じた。
そのとき、頬に感じた、柔らかなぬくもり。
目を開ける。それは、土方の手のひらだった。少しかさついた剣ダコだらけの手のひら。それを銀時の頬に当てながら、土方は眉を下げる。
「悪かった。そんな思いさせて、全然気付かなくて」
頬に当てられた手の親指がそっと目元を撫でる。
謝ってほしいわけじゃないし、気にしてほしいわけじゃない。本当に、ただただするりと溢れ落ちてしまっただけなのだ。何か取り繕うための言葉を探して口を開きかけたとき、「でも」と土方が呟いた。真っ直ぐな瞳が、銀時を捉える。
「俺は、お前がさみしいと思ってくれたことが、嬉しい」
そう言った土方は、泣きそうにすら見える表情で目を細めて、けれど、どこまでも優しい顔をしていた。夕陽を浴びる黒髪が風に揺れる。赤く照らされた頬を緩めて笑うその顔は、とてもあたたかい。
それは、夢の中の先生の顔と、とてもよく似ていた。
「俺は、ずっとお前のそばにいられるわけじゃねぇから」
頬に触れていた手が離れていく。土方が、だらりと下げた手をきつく握りしめたのが分かった。
「ちゃんとそばにいられる奴こそがそばにいるべきで、それを邪魔しちゃいけねぇって思って」
やっぱり、と小さく苦笑する。もともと居る場所が違うのだし、彼の仕事が大変なのは銀時もとっくに了承済みで、それごと含めて彼を受け入れているのに。それでも、そんな些細なことに引け目を感じている。案外思い込みが激しくて、その上自分の信念というか、『こうあるべき』を一途に貫ける土方らしいと思う。けれど。
「一人でそんなこと決めてんなよ」
銀時はきつく握られた土方の手を取った。それをもう一度、頬に当てる。擦り付けるようにしながらそっと目を閉じた。
「そばにいるべきじゃねぇとか、邪魔だとか、そんなこと考えんなよ」
「でも、お前が大事にしてるもんは、俺も大事にしたかったんだよ」
静かに返された言葉に、ああ、と銀時は微かに息をついた。たしかに、その感覚は銀時にも身に覚えがある。銀時だって、土方が大事にしている真選組のことは大事にしたいと思っている。やっぱり、こんなところも似ているのか。思わず口元が緩む。けれど、彼は大切なことを忘れているようだ。
「お前だって大事なもんの中に含まれてんだよ」
言い聞かせるみたいにゆっくりと告げながら、目の前にある藍色の瞳を真っ直ぐに見つめる。すると、その藍色はぱちぱちと数回瞬きを繰り返した後、ふっと優しく細められた。綺麗なだけではない、あたたかな笑みが浮かぶ。
「俺も、お前のなかで、そばにいるのが当たり前の存在になれてたんだな」
少しだけ震えたその声には、嬉しさが滲んでいた。銀時の手のなかで、土方の手のひらがそっと頬を撫でる。ぬくもりがじわりと広がる。
夢の中の言葉が頭の中に響く。さみしいと思えるのは、そばに誰かがいてくれるあたたかさを知っているから。そばにあるあたたかさを、当たり前だと思えるから。
「俺、本当は生まれた日なんか知らねェんだ」
ぽつりとこぼすと、土方がはっと目を見開いた。
「じゃあ、十月十日ってのは……」
「俺が、はじめてさみしさを知った日」
告げながら、ふっと微笑んでみせる。
『今日は、君のそばに誰かがいるのが当たり前になった日です。だから、今日が君の誕生日』
夢の続きが、頭の中で再生される。先生のあたたかい微笑みが目の前に浮かぶ。
『おめでとう、銀時。君のよき日を祝う人がこれからもずっと絶えないように、私は願っています』
小さく頷いた土方が、銀時の顔を覗きこむ。夕焼け色の溶けた瞳には、真っ直ぐな光が宿っていた。ぎゅっと手を握られる。
「遅くなったけど、誕生日おめでとう。これからは、できるだけお前がさみしくないようにする」
秋の風が二人をつつむ。それはもう、つめたい風ではない。夕陽のぬくもりを運ぶ、あたたかな風だった。
「おう、ありがと」
「……ん」
急に恥ずかしくなったのか、土方はふいっと顔を逸らしながら唸るような返事を寄越した。普段の照れ屋で天邪鬼な彼を思えば、今日もらった言葉の数々はあまりにも素直なものばかりだ。
「今日は随分と素直だな」
思わず顔が緩んでしまう。にやにやとした笑みを隠しもせずに揶揄うと、土方は赤い顔のまま「お前に言われたくねェ」と言いながら鼻を鳴らした。
「まあでも、甘党のお前の誕生日祝いなんだから、これくらいがちょうどいいだろ」
「ん、そうかも」
握られた手のひらに、そっと力をこめた。
どうせなら登りとは違う道で、ということになり、先ほどよりも緩やかな道を下りていく。方向的に、この道の方が駅へと近い場所に出るはずだ。夕陽が一層赤く鮮明になった頃、やっと山を抜けられた。ふう、と息を吐きながら周りを見回すと、それが見覚えのある景色であることに気付いた。目の前に見えるのは、土方が土産を買ってきたあの雑貨屋である。
「ここに出るんだな」
感心したように呟く。土方も同じように頷いた後、ふとぴくりと肩を揺らした。
「どうかしたか?」
尋ねると、土方はパッと勢いよく銀時を振り返った。
「ちょっとここで待っててくれ」
どうしたのか、と固まる銀時に「すぐ戻るから!」と叫んだ土方は、まだ営業しているらしいあの雑貨屋へと飛び込んでいく。一体何なんだ、買い逃しでもあったのか。怪訝に思っていると、宣言通りほんの数分足らずで土方は帰ってきた。その手には、新しい袋がぶら下げられている。
「これ、誕生日プレゼント」
買ったばかりの袋を差し出される。驚いて、銀時はまじまじと土方を見返した。
「え、プレゼントって、このデートだろ」
「それもそうだが、ちゃんと物でも渡しておきたいから」
胸の中がほこほことあたたかくなる。「開けていい?」と尋ねると「おう」と返されたので、袋から箱を取り出して蓋を開ける。
出てきたのは、切子硝子の猪口二つだった。赤と橙のグラデーションが美しいそれは、見覚えのあるものだ。
「さっき、見てただろ」
気恥ずかしそうに頬を掻く土方がぽつりとこぼす。たしかに、その猪口は雑貨屋で銀時が手に取ったものである。いつの間に見ていたのだろう。不思議に思うと同時に、それを見つけて覚えていてくれたことが嬉しい。再び手に取ったそれは、さっきのようなつめたさはなく、色合い通りのあたたかさが感じられた。
「これ、お揃い?」
二つの猪口にはどちらも同じ模様が施されている。その鮮やかな色合いは、先ほど二人で見た夕焼けによく似た色をしていた。
「ああ。……今日、それ使いに行くから」
そう言った土方の顔は、夕焼け以上に赤く染まっていた。つられるように、銀時の頬も熱を帯びていく。
さみしくならないように。そう言ったさっきの約束を守るために、彼はこれを買ったのだ。
「うん、あいつらも喜ぶと思う」
「土産も渡したいしな」
「じゃあ、晩飯作ってよ。ちょうど良いだろ」
「仕方ねぇな」
ぶっきらぼうな口調ではあるが、その表情は嬉しさに緩んでいた。これから四人と一匹で囲む食卓を思うと、銀時も同じように笑みをこぼしてしまう。神楽が大皿いっぱいのおかずを独り占めしようとして、新八が突っ込んで、土方が笑って。そんな光景がありありと目に浮かぶ。きっと、騒々しくも楽しい、あたたかい時間になるはずだ。
そうして、万事屋で過ごす時間も、二人にとって当たり前になっていくように。そこにあるぬくもりを、当たり前と思える日がくるように。
二人並んで歩く帰り道を、あたたかい夕陽が照らしていた。
おしまい