夕影の温度をわけあって
夢からさめる夢を見ていた。
夢の中で、昼寝から目を覚ます。覚醒しきらない、ぼんやりとした頭をゆるゆると動かした。動いた拍子にすうっとした空気が布団の中へと忍び込んでくる。
なんだか肌寒い気がして、部屋を見回せば、廊下と部屋を隔てる障子がほんの一寸だけ開いていることに気がつく。その細い隙間の向こうに、夕焼け色に染まった庭が見えた。黄色い葉がひらりと舞い落ち、そのすぐ側を赤蜻蛉がひょいと横切る。遠くに見える山のふちを橙色に彩る陽光が、障子の隙間から部屋の中へと入り込んでいた。射し込む光を目でたどる。畳を這ったその光は、穏やかに布団を照らしている。
ふと、自分の横に、いるべき人がいないことに思い当たる。同じ布団で寝ていたはずなのに。あるべきはずの、柔い色をした長い髪の毛や、穏やかな声を思うと、なんだか寒さが増した気がした。思わず、布団の中で腕を擦る。
のそのそと布団から這い出して、障子の隙間へと指をさしこむ。開けると、細かった世界が視界いっぱいに広がった。あまりに鮮明な夕日の赤色に、思わずくらりとする。あたたかい色をした景色なのに、空気はすぅと冷えている。目覚めたばかりの体には少し寒いくらいだ。胸に吸い込んだ空気がつめたく体に染み込んでゆく。
すると、かすかな甘い匂いが鼻をくすぐった。いつか、あの人が教えてくれた匂い。これは、きんもくせいの匂い。この花の匂いを嗅ぐと懐かしい気持ちになります、と。そう言ったあの人の顔が脳裏に浮かぶ。懐かしい、って一体どんなものなのだろう。分からないけれど、遠くを見るあの人の目に、そわそわした気分になったことは覚えている。また、寒さで体がぶるりと震えた。それに、なぜだか胸のあたりがざわざわとして落ち着かなくなる。身の置きどころがないような心許なさに、慌ててあの人の姿を探しはじめる。
とても広いわけではなく、けれど二人きりで生活するにはあまりに広すぎる家の中を、あちこち駆け回る。ぜんぶの部屋を隅々まで探したけれどとうとう見つからなくて、転がるように庭へと飛び出す。もし庭にもいなかったら。どこか遠くに行っていまっていたら。首の後ろのあたりがちりちりして、背中が冷たくなる。
歩くたびに濃くなる、甘い匂い。懐かしい匂い。それらを吹き飛ばそうとするみたいに、つめたい風が空気をかき混ぜて通り過ぎてゆく。
舞い上がる落ち葉と埃に、思わず目を閉じる。ぎゅっと閉じた世界は暗くて一人きりで、あまりにも──。
「銀時?」
そうっと目を開ける。そこにいたのは、不思議そうに、眉を寄せて首を傾ける先生だった。さらりと揺れる色素の薄い髪の後ろに、緑の葉々とそのあいだでちろちろと咲く橙色の花が目に入った。懐かしい匂い。先生に似合いの、すっとした優しい匂い。
思わず駆け寄って、先生の膝のあたりを両手で抱きしめる。きんもくせいの匂いに混じって先生の匂いがした。
「おや、珍しい。どうかしたんですか」
ぽんぽんと頭を撫でる先生の手。胸のざわざわがすうっと無くなっていく。かわりに、鼻の奥の方がつんとした。先生の着物を握りしめる手のひらに、ぎゅ、と力をこめる。
「起きたら、先生いなかった」
先生の脚に顔を押し付けたまま、もごもごと呟く。
「ああ、夕焼けがあまりに見事だったので、ちょっと外に出て見ようと思いまして」
頭を撫でつづける手のひら。優しい声音。先生のぬくもり。そのぜんぶが、寒くてつめたかった気持ちを、じんわりとあたためてゆく。
「……いなくなったかと、思った」
喉がつまったように、掠れた声しか出なかった。
「銀時」
名前を呼んだ先生が、すっと足を引く。両の手からするりと逃げていく、先生のぬくもり。へんなことを言ってしまったのだろうか。ぎゅっと胸の奥が痛んだ、そのとき。
「私は、ここにいますよ」
耳のすぐそばで、先生の優しい声が聞こえた。背中に回された先生の手が、そっと背中を撫でる。体ぜんぶに、先生のぬくもりを感じた。
「夕焼け、本当は銀時と一緒に見たくて、でもあまりに気持ちよさそうに寝ていたから起こさなかったのですけど」
背中を撫でていた手が、今度はまた頭へと戻ってくる。銀時の髪の毛は気持ちいいね、と笑っていた顔を思い出す。先生の顔が見たくて首を捻ると、長いさらさらした髪の毛が耳をくすぐった。
「さみしい思いをさせてしまいましたね」
「さみしいって?」
また分からない言葉が飛び出してきて、思わず尋ねる。なんだか寒くてつめたい言葉だと思った。胸いっぱいに吸い込んだ秋の空気が、体のなかですうっと冷えた気がした。
「例えば……そうですね。あたたかい布団から起き上がったとき、寒くて震えてしまうことがあるでしょう?」
こくりと頷く。初めて布団というものに入ったときの感動は、褪せることなく今でも鮮明に思い出せる。それまでは、血と死体に囲まれた戦場で、野ざらしのまま夜を過ごしていた。だからこそ、ふかふかしていて当たり前のようにあたたかい布団というものは、あまりに画期的だったのだ。
先生も応じるようにこくりと頷く。
「当たり前のようにそこにあったぬくもりが、無くなってしまうこと。それによって不安や恐怖を感じること。心がつめたいと感じること」
静かな声でそう告げた先生が、ふと顔を覗きこんでくる。穏やかな瞳の中に、自分の姿が小さく写っている。
「それが、さみしさです」
さあっと風が吹いた。先生の長い髪と自分のふわふわした髪を、同じように揺らす。
頬を撫でる冷たい風から護るように、先生の手のひらが頬を包む。いつもの、あたたかい手のひら。唐突に、懐かしいの意味が分かった気がした。
「君がさみしいと思ってくれたことが、私は嬉しくてならないよ」
ふ、と銀時は目を開けた。
夕暮れの景色は一瞬のうちに掻き消えて、いつもの見慣れた和室が目に入った。ぼんやりと掠れていた視界が、徐々に色彩を帯びていく。十月も終わろうかという今の時期特有の、ひんやりと冴えた朝の空気を胸に吸い込む。朝の柔らかな光が眩しい。窓のそとでは雀たちが楽しげに鳴いていた。
なんだか、懐かしい夢を見た。空気も温度も感じられるその夢は、いつかの実際の出来事を追想するものだった。幼い頃に紡いだ記憶の糸を手繰る。そうだ。たしかに、あの日、先生はそう言った。その台詞はすべて、声色や調子まで正確に思い出すことができる。金木犀の匂いが鼻を掠めた気がした。
ぼうっと夢の出来事を反芻していると、ふと隣にあるはずのぬくもりが無いことに気づいた。あの夢と同じ、空っぽになった布団の片側。冷えた空気が肌をさっと撫でる。さっきまでリアルに感じていた、身の置きどころが見つからないみたいな、ざわざわとした落ち着かなさが胸の奥から込み上げる。銀時はふるふると頭を振った。
トン、トントン、という、たどたどしい音がかすかに聞こえてくる。ぎこちなさを感じさせるリズムは、これまでも何度か聞いたことがあった。慣れているとは言えない彼の包丁捌きを思い出す。いないと思ったら、珍しく朝食の支度をしていたらしい。昨日は少し無茶をさせた自覚があるから、彼にはゆっくりしていてほしかったのに。銀時はぽりぽりと頭を掻いた。
のそのそと布団から這い出し、畳の上に投げ出されていた衣服たちをかき集める。下着に足を通し、長着を緩く身につける。ふわぁ、と大きな欠伸をこぼしつつ、彼がいる台所へと向かう。
台所には、いつも通りの黒い背中があった。その凛と伸ばされた背中を見ているとらさっき感じていたつめたさがじわじわと溶けていく気がした。
「おはよーさん」
フライパンに油を垂らしている後ろ姿に声をかける。おう、と振り返りもせずに応えた声は、やはり少し掠れていた。小さく苦笑して、彼の隣へと並び立つ。
「ゆっくり寝てて良かったのに」
「んなわけにもいかねーよ。ただでさえ昨日はてめーに作らさせちまったし」
熱したフライパンに溶いた卵を流し入れながら、土方は少し口を歪めた。
「気にしなくていいって言ったろ? 仕事だったんだから」
今回の逢瀬は、銀時の誕生日を祝うためのものだった。十月十日は、とうに過ぎているけれど。
昨日は、本来なら仕事終わりの土方と外に食べに出る予定だった。しかし、土方の仕事が思いのほか長引いたので、急遽万事屋で銀時が夕食を振る舞うことになったのだ。
誕生日を祝うための逢瀬なのだから、少しくらい奮発したい。そう考えていたらしい土方は、それを気にしてこうやって朝食を作ってくれているようだ。相変わらず、律儀な男である。
「いいんだよ。俺もたまには作りたいってのもあるし」
半熟の卵を菜箸でくるくると丸める彼は、つんと唇を尖らせる。拗ねたみたいなその仕草は、照れ隠しの合図でもある。銀時はふっと頬をゆるめた。
「それ、玉子焼き?」
「おう」
「今日のはスクランブルエッグじゃないね」
するりと腰を抱きながら、前に彼が作った玉子焼きの惨状を引き合いにだして揶揄ってみる。
「うるせェ! 寄るな、気が散る!」
土方は顔を赤く染めながら、すぐ隣にある銀時の顔を手のひらで押しのけた。菜箸を振り回しながら怒るから、箸の先にこびりついた玉子の塊が飛んでしまいそうだ。
「はいはい、集中集中」
軽く受け流した銀時は、菜箸を持つ土方の右手を掴み、そのままフライパンへと誘導した。背後から抱きしめるように手を重ねたまま、玉子をひっくり返してやる。
「上手にできるかな?」
「だから触んなって言ってんだろーが! 離せ! ろくろ回しじゃねーんだよ!」
「俺だって陶芸家じゃねーし幽霊でもねーよ」
重ねた手のひらから、彼の手がぎゅっと強張ってしまったのを感じる。黒い髪と着物のあいだから覗く首筋はかわいそうなほど真っ赤に染まっている。こんな、顔に似合わないウブな反応が可愛くてたまらない。土方からは見えていないのをいいことに、銀時はにやりと口の端を上げる。
赤い首筋を噛んで、もっと揶揄ってやりたい。けれど火を扱っているのでこれ以上のイタズラは危険だし、何より土方自身が烈火のごとく怒りだすに違いない。おとなしく土方の手を離す。
「ほら見ろ、お前のせいで焦げちまった」
出来上がった玉子焼きをまな板の上で切り分けながら、土方がぶつぶつと文句をこぼす。確かに少し茶色くなっているがそれくらい許容範囲だろう。
「大丈夫だって、お妙と比べれば食べられるだけ随分マシだし」
「ダークマターと比べられても嬉しくねーよ」
お妙本人が聞けば地面に沈められそうなことを言い合いながら、皿に玉子焼きを盛り付けていく。
「こっちの鍋は?」
「味噌汁だ。もう出来てるからよそっといてくれ」
「りょーかい」
二人で支度をして、湯気をたてる出来立ての朝食たちを居間へと運ぶ。机の上に、ご飯に味噌汁、玉子焼きにほうれん草の胡麻和えが顔を揃えたところで、二人はようやくソファーに腰を下ろした。いただきます、と両手を合わせてから、揃って食事を開始する。
「ん、うまい」
味噌汁を一口飲んで声を上げると、土方は「ん」と目を伏せて笑った。
ざく切りにされた野菜たちがふんだんに使われた味噌汁に、一つひとつのかたまりが大きな甘くない玉子焼き。土方の振る舞う料理は、すべての行程の頭に「ザッと」が付くような、いわゆる男の料理然としたものが多い。それは、見かけによらず繊細な料理を作る銀時にとって新鮮なものであった。まだ武州にいた頃、男所帯の中でも磨いた腕前なのだと言うから、男の料理なのも納得だ。
「あいつら、またお前の作る飯が食いたいって言ってた」
マヨネーズをたっぷり乗せた玉子焼きを頬張る土方に声をかける。
あいつら、とは今はここにいない子どもたちのことである。土方の料理が新鮮だったのは彼らも同じだったようで、何かと話題に上るのだ。
それを伝えると、彼は困ったみたいに眉を下げた。
「ん……またいつか、な」
小さな声でそう答えた土方は、またぎこちなく箸を動かし始めた。そんな彼の様子に、銀時は心のうちで小さく息をついた。
子どもたちにはすでに土方と付き合っていることを伝えている。最初は驚いた様子だった子どもたちも次第に訳知り顔になり「まぁいつかはこうなると思ってたアル」とか「むしろやっとって感じですよ」とか言い始める始末で、いつから気づいてたんだお前ら?!と逆にこっちが驚かされてしまった。そんなだから、子どもたちだって土方との交際を認めてくれているし、万事屋への来訪だってむしろ喜んでくれている。なのに、土方はいまだに子どもたちに対して後ろめたさを感じているようだ。
土方は、万事屋での逢瀬をあまり良しとはしていない。昨夜のようにここで夜を明かすことは、ひどく稀である。
それに、そこそこ長い付き合いなのに彼が子どもたちと食事を共にしたのは数えるほどしかないし、前に料理を振る舞ってくれたのもただの成り行きだ。豆パン生活に嫌気がさした子供たちが昼休憩中の土方を無理矢理万事屋へと連れて来て、そこで料理を作ってくれたのだ。子供たちはひどく喜んでいたのだが、土方は少し戸惑うような、申し訳なさそうな顔をしていた。そこで銀時は悟ったのだ。土方は、自分と万事屋との間に明確な線引きをしているのだ、と。
彼は、『万事屋』をひどく大切にしてくれている。
テレビから聞こえる、占い結果を伝える結野アナの声。外から響いてくる、道行く人々の楽しげな話し声。そこに、かちゃかちゃという食器の音が入り混じる。柔らかな朝日が、土方の黒い髪を淡い金色で縁取る。ゆっくりと箸を動かしている土方を、銀時は向かいからそっと見つめる。
いいなぁ、と思う。たまにここで、こうやって静かに朝飯を食ってるの、似合うと思うんだけどなぁ。口には出せないそんな思いを、味噌汁と一緒に飲み込んだ。
「ごちそうさん」
「ん、お粗末さま」
すっかり空っぽになった食器たちを見て、土方がそっと小さく笑った。
「この後は予定通りでいいんだよな?」
二人で食器たちを片付けた後、煙草を片手に一服していた土方が問う。
「おう。店までの道のりもちゃんと調べてあるぜ」
銀時は自慢げに胸を張った。
今日は、これから電車で少し遠出をする予定だった。目的地は銀時が前から憧れていたカフェ。そこの期間限定のマロンパフェがお目当の品である。
「前にテレビでやってたの見て、ずっと食いたかったんだよなぁ」
「知ってる。もう何度も聞かされた」
銀時のうきうきした声を、土方は煙を吐き出しながら素っ気なくあしらう。つれない態度ではあるものの、この遠出を計画したのは他でもない土方自身である。つまり、素っ気ない声もただの照れ隠し。そんな彼の分かりにくさにも、もう慣れてしまった。
「昼飯も向こうで食うだろ?」
「おう。駅からカフェまでの間でどっか店入ろうぜ」
「わかった。何時くらいに出る?」
銀時はちらりと時計を見やった。
「このテレビ終わったくらいでいいんじゃね?」
土方も同じように時計を見て、「わかった」と頷いた。
行き先と目的だけ決めておいて、それに至るまでの過程はぜんぶその時に決める。変に気負うこともない、行き当たりばったりの呑気なデート。それが定番になって、もう随分と経つ。それは、細かいことは気にしない銀時と、神経質なところのある土方の、ちょうど真ん中をとったようなものだった。
「つーか、お前こそ遠出して大丈夫なの」
尋ねると、土方の藍色の瞳が銀時を捉えた。仕事のことだとは、言わずとも伝わっているだろう。
これまでのデートでも何度か途中に呼び出しの電話がかかってきたことがあった。その度に土方は慌てて刀やら何やらを引っ掴んで、脇目もふらずに駆けていく。
もちろん、それに対する不満などない。彼が『万事屋』を大切にしてくれているように、銀時もまた『真選組』もひっくるめて彼を大切に思っている。
「昨日、あらかた片付けてきたから大丈夫だと思う」
土方は少し目を逸らし、顎を引いて答えた。そうは言っても、緊急の呼び出しがあれば、それがどんなに危険な場所であろうとも彼は行かなくてはならない。それが、彼の仕事だ。
分かっているからこそ、それでも一緒に出かけようとしてくれているその気持ちに水を差す真似はしたくない。
「そっか」
銀時も安心したように頷いてみせた。
平日の昼間だからか、駅はそれほど混雑していなかった。
改札を通り抜け、ちょうどホームに滑り込んできた電車へと乗り込む。空席が目立つ車内だったので、難なく二人並んで座ることができた。
「電車、久しぶりだ」
物珍しそうに車内をぐるりと見回しながら土方が言う。
「いつもパトカーだもんな」
「お前もいつもは原付だろ?」
「ときどき電車も使ってるよ」
「へぇ、そうなのか」
ぽつぽつ話しているうちに、電車が動きだした。ゴトン、ゴトンと規則的に揺れる車体に合わせて、二人の体も小さく揺れる。目まぐるしく流れる車窓の景色に釘付けになっている土方がまるで子どものようで、銀時はそっと頬を緩めた。
ぼんやりしていると、突然ヴー、ヴーと、くぐもった音が二人の間に響いた。土方の携帯電話の音だ、と気付いた銀時は思わず身を硬くする。緊急の呼び出しだろうか。同じように微かに顔を強張らせた土方が、袂から携帯電話を取り出した。電話ではなくメールだったらしく、土方はカチカチとボタンを操作する。それから、ふっと力が抜けたみたいに顔を緩めた。
「総悟からメールだった」
苦虫を噛み潰したような、それでいて微かに安堵を滲ませた表情の土方が画面を向けてくる。銀時は小さな画面を覗き込み、そこに並ぶ文字を追った。
「『色ボケ副長の代わりは俺が立派に務めやすんで帰ってこなくていいですぜ』って、相変わらずだな」
あまりにも彼らしい文面に苦笑する。
銀時が万事屋の子どもたちに交際を知らせているように、土方もまた真選組の親しい面々には交際を知らせているのだ。
付き合いだす前の銀時と土方は喧嘩ばかりで、決して良好な関係だとは言えない状態であった。だから、付き合い始めたとき、土方はきっとこの関係を秘匿するだろうと思っていた。犬猿の仲からいきなり交際へと発展した気恥ずかしさは銀時の中にもあったから、照れ屋な彼なら尚更隠したがるだろうと予想していたのだ。けれど意外にも土方は、自分も銀時との関係を近藤や沖田に伝えるから、銀時も自分との関係を新八や神楽に伝えるように、と言ったのだった。
『ガキどもには迷惑かけることになるだろうから、二人できちんと説明しておきたい』と。そう言って手土産持参で万事屋を訪れた彼は、子どもたちに向かって机につきそうなくらい深く頭を下げていた。
それに真選組の面々に伝えるのは、きっと沖田くんの姉ちゃんのことがあるからだろう。たとえ何と言われようとも、筋を通しておきたい。そんな思いが、彼の真っ直ぐな瞳に滲んでいた。
照れ屋でウブで、恋愛ごとにはとことん奥手なくせに、どこまでも真面目で律儀で、真っ直ぐな彼らしいと思った。
もちろん、こうして二人で出掛けられていることからも分かるように、万事屋の子どもたちも真選組の面々も二人の関係を祝福してくれている。もちろん、沖田は事あるごとに揶揄っているみたいだけれど。
「ったく、総悟のやつ……」
返信を打ち終わった土方が携帯電話を袂へと仕舞いなおす。携帯いじってねーで仕事しろ、などと文句を言っているが、その声音は随分と柔らかく響いた。
窓の外を流れる景色のなかに、徐々に緑が目立つようになってくる。目的地であるカフェは郊外と田舎のあいだにあるから、おそらくもうすぐ降りる駅に着くはずだ。閑散とした駅を抜けると、車掌が次の駅名をアナウンスした。
「次の次の駅だな」
しっかりリサーチ済みの土方が肩をつついてくる。銀時もおう、と頷いた。
着いた駅は、山のすぐ側にあった。
小さな小屋のような駅を出ると、すぐ目の前に小高い山がそびえている。所どころ黄色く染まったそれを見上げながら、土方が目を細めた。
「なんか、懐かしいな」
武州の景色を思い出しているのだろう。どこか遠いところを、遠くにあるものを見ているような目をしていた。銀時も同じように、秋の装いに変わりつつある山を見上げてみる。なんとなく、今朝夢で見たばかりのあの夕焼け色に染まった山と重なる気がする。
山から下りてきた風が、足元の落ち葉を次々に巻き上げていく。冷たい風が頬を撫でる。銀時はそっと目を伏せた。
カフェはその山をぐるりと回ったちょうど反対側にある。銀時と土方は、山の麓の道を並んで歩きはじめた。
銀時が夢で見たあの家や、詳しくは知らないがおそらく土方が育った場所の方がはるかに田舎と呼ぶに相応しいだろうけれど、それでも江戸の街中と比べると随分と時間の流れがゆっくりだ。慌ただしく走る車も無いし、けたたましい音を立てて飛ぶ宇宙船も見当たらない。青く澄んだ空に浮かぶのは白い雲だけである。とりとめのない会話を交わし軽口を叩きあいながら、のんびりと歩く。
カフェへと向かう道の途中にうどん屋を見つけたので、そこで昼食を済ませることにした。うどんならば消化が早いので、この後のパフェも難なく腹に収めることができるだろう。おすすめはすぐ側の山で採れたという山菜を使った山菜うどんだというので、二人ともそれを注文する。ふんだんに使われた山菜は種類も豊富で、うどんの麺はコシが強くて喉越しがいい。
大満足でそれらを平らげた後は、近所をぷらぷらと散策する。まだまだおやつの時間には早い。
「メガネとチャイナに土産買いたいんだが、そこ寄ってもいいか」
土方が道の脇にある小さな雑貨屋を指差した。
「あ? そんな気ィ使わなくてもいいんだって」
「そんな訳にもいかねーよ、昨日の夜だってわざわざメガネんとこ行かせちまったんだし」
たしかに昨日の夜は、土方との予定があったので神楽は志村家に預けていた。けれど、べつに神楽はそれを嫌がってなどいない。「喧嘩しちゃだめヨ、金ヅルがいなくなったら困るアル」などと言っていたくらいだから、むしろ応援してくれているのだ。新八だって、迷惑だなんて考えていないだろう。銀時は頭ガシガシとを掻いた。
「あいつらはちゃんと認めてくれてるし受け入れてくれてる。お前も分かってんだろ?」
「ああ、分かってる。だからこそ、それに応えてーんだよ」
土方に譲る気がないことは、その声の調子からも窺えた。言い出したら聞かない奴だということは長い付き合いの中で了承済みだ。銀時は仕方なくその店に入ることにした。
小さな店内には、こまごまとした雑貨たちがところ狭しと並んでいた。地元で作られたちりめん細工や切子硝子など、様々な種類のものが置いてある。
「チャイナって手鏡とか使うか?」
ちりめんで作られたポーチとセットになった小型の手鏡を物色していた土方が銀時を振り返る。
「あー、どうだろ。色気より食い気って感じだだけど」
「それでも年頃の娘だし、身だしなみも大切だろ」
土方は自分で言いながら納得したように頷く。
「メガネは……メガネ拭きでいいかな」
ポーチと手鏡のセットとメガネ拭きを手にした土方は、店の奥のレジへと向かって行った。その背中を見つめながら、銀時は小さな溜め息をついた。
ただ純粋に、何か買って帰ってやりたいだけならべつに良い。けれど土方のは、引け目だとか詫びだとか、そういった要らないものが含まれているから。それが、ひどくもどかしい。
なんとなく、近くにあった硝子の猪口を手に取ってみる。薄い橙と赤のグラデーションが綺麗なそれは、冴えざえとしてつめたかった。
店を後にして、またカフェを目指して歩きだす。小さな紙袋を手に提げてた土方は、満足そうに口元を緩めている。爽やかに澄んだ秋晴れの空は、穏やかに笑う土方の横顔によく似合っていた。黄金に光る稲穂を揺らした風が、二人の間を涼しく通り抜けていく。
カフェに着いたのは、ちょうどおやつにぴったりの時間だった。
そのカフェは江戸の街で見かけるような都会的なオシャレさはないけれど、長い年月の積み重ねを感じさせるような、そんな趣のある建物だった。磨り減ってつるつるとした木のテーブルや黒くなった床も、その老練とした雰囲気を醸すのに一役買っている。夫婦二人で営んでいるらしく、こじんまりとした店内には打ち解けた和やかな空気が漂っている。なかなか落ち着ける場所であった。
銀時たちの他に二組ほど客がいたが、どちらも常連らしく寛いだ様子でカップを傾けている。テレビで紹介された割に人が少ないのは、やはり今日が平日だからだろう。
銀時はお目当てのマロンパフェ、土方はコーヒーを、注文を聞きにきた五十代半ばくらいのご婦人に頼む。彼女が下がった後、銀時はふぅと息をついた。このカフェは、調べたときは駅からそれほど離れていないと思っていたが、歩いてみるとそこそこ距離があったのだ。
「結構歩いたな」
「まあな。でもなかなかこういう所来ねェし、新鮮だったけどな」
「悪いな、付き合わせちまって」
銀時は、少し眉を下げてみせた。対照的に、土方はきゅ、と眉を寄せる。
「何言ってんだ。誕生日祝いなんだから、当たり前だろ」
机の上に投げだされた彼の長い指が、コツコツと小さく机を叩く。きっとここが禁煙でなければ、彼は今、懐から煙草を取り出していただろう。
「ん、さんきゅ」
「……おう」
どこか不満げな表情で窓の外を眺める横顔に、気付かれないように小さく苦笑をもらす。
誕生日を祝うことは当たり前だと思ってくれているのに、当日には決して祝おうとしない。
付き合いだしてから、誕生日を当日に祝われたことなど一度もない。いや、正確に言えば、例えば道端で偶然ばったり会ったときなんかは、軽口のついでのように祝われることはあった。けれど、夜を跨いでの逢瀬は、必ず後日に持ち越されるのだ。それは土方の誕生日を祝うときも同じであった。なかなか休みが取れない仕事の都合上、というのももちろんあるだろう。けれど、たとえ誕生日当日が非番だったとしても、土方はきっと逢ってはくれない。
ただ、祝ってもらえるのなら、祝うことができるのなら、それだけで良い。そんな思いももちろんある。強がりでもなんでもなく、ただただ本心であった。無事に一年を過ごし年を重ねることの難しさは、充分に分かっているつもりだ。
けれど。土方が誕生日当日に祝わない理由には、納得していない。
『お前には、俺より先に祝われるべき奴が山ほどいるだろう』。
いつかの言葉が蘇る。そう告げた彼の表情はひどく穏やかで優しくて、あまりにも綺麗すぎた。ちょうど、さっき雑貨屋で見つけたあの橙色の硝子細工のような。
僻みとか、諦めとか、そういったマイナスなものは一切含まれない、ただただ優しい表情だったのに。その表情を銀時は、何故かつめたく感じたのだ。
お待たせいたしました、と軽やかな声で告げながら、店員がパフェとコーヒーを運んできた。
「おっ、きたきた」
殊更にはしゃいだ声を上げて、銀時は細長いスプーンを手に取った。上にポンと乗った栗を掬い、口に入れる。香ばしい甘さが口いっぱいに広がる。
「美味いか」
よほど嬉しそうな顔をしていたのか、向かいの土方が呆れたように声をかけてくる。銀時は大きく頷いた。
「スッゲェ美味い。遠出した甲斐あるわ」
「そりゃ良かった」
白い湯気を立てるコーヒーに口をつけながら土方が笑う。あたたかそうな湯気が微かに彼の顔を覆った。口の中で溶けるバニラアイスが、やけにつめたく感じた。
「お前も食う?」
モンブランクリームを掬い上げ、差し出してみる。
「マヨネーズかけていいなら」
「せっかくの秋の風味を台無しにすんじゃねーよ」
分かりきった答えではあったものの、銀時は思わず鼻白む。差し出していたスプーンを引き寄せ、さっさと口へと放り込んだ。
「すっげぇ甘そう」
マヨネーズを馬鹿にされた意趣返しだろうか、微かに眉を寄せながら土方がポツリとこぼす。
「うん、すっげぇ甘ぇよ」
「よくそんなもん食えるな」
「お互い様だろ」
そう言うと、ふふ、と小さく笑みをこぼした土方は「まあな」と呟いた。
パフェを堪能した後は、ゆったりとした時間を過ごす。窓が切り取った外の風景も、店内の落ち着いた雰囲気も、忙しい日々の喧騒を忘れさせてくれるようだった。
人心地ついた後、銀時は「この後どうしようか」と切り出した。
「まだ帰るには早いな」
店内に掛けられた振り子時計を見やりながら土方が答える。
「それでしたら、そこの近くの山に登ってみたらいかがかしら」
不意に聞こえた声に、二人は揃って振り向いた。そこには、店員であるあの婦人がにこやかな笑みを浮かべながら立っていた。ふと店内を見渡せば、いつの間にか客は銀時たち二人だけになっていた。
「紅葉にはまだ少し早いけれど、とっても眺めがいいんですよ」
「そうなんですか」
相槌を打ちながら、それはいいな、と思った。あの山のことは、土方も懐かしそうに見つめていたし、銀時自身少し気になっていたのだ。眺めがいい、というのも興味を惹かれる。
どうする?と土方に視線で問いかける。土方も、こくりと頷いた。
「じゃあそこに行ってみることにします」
土方が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「お二人はどちらからいらしたんですか?」
ふわふわとした柔らかな声で彼女が問いかける。
「江戸からです」
「まあ、すごい。都会ね」
屈託のない様子ではしゃいだ声を上げた彼女に、小さく苦笑する。ここだって江戸からそう離れてはいないはずなのに。この店に漂うのんびりとした空気は、おそらく彼女が醸しているものなのだろう。
「ここは何もない田舎だけれど、いい所です。是非楽しんでいらしてね」
柔らかく笑う彼女の後ろで、厨房から彼女の亭主も顔を覗かせている。その顔には、彼女にそっくりな穏やかな笑みが浮かんでいた。同じ時を過ぎてきた者特有の、よく似た雰囲気。なんだか、胸を突かれたような気がした。