雨をかぞえる君のとなり
じっとりと汗の滲む額を、銀時はぐいと手の甲で拭った。
午前中にエアコン修理の依頼をこなし、時間を持て余したので何となく町をぶらぶらと散歩してみたものの、ただ歩いているだけでも汗が吹き出す。昼下がりの太陽は容赦ない日差しを浴びせてくる。梅雨が明けたばかりの空は、ついこの間までのじめじめとした鬱陶しさなんてすっかり忘れたみたいにからりと澄んだ青空である。もこもことした真っ白な雲がいかにも夏といった風情を醸している。
あの雷の鳴る嵐の夜からちょうど一週間。あの翌日、屯所へと帰る土方を送って行く道中で、例の傘屋へと寄った。傘のひどい有り様を見て痛ましそうに目を細めた親仁は、けれど「直せるか」という土方の問いに力強く頷いた。
「任してくだせェ。すっかり元通りに直してみせやすよ」
どんと胸を叩いた親父の頼もしい台詞に、銀時と土方は揃って安堵の笑みを浮かべたのだった。
修理には一週間ほどかかると言っていたから、ちょうど直った頃だろう。梅雨は過ぎたのでもう傘の出番は少なくなる。それでも、また揃いの傘が互いの手元にあるのだと思うと、やはりむず痒いような気持ちになる。
気恥ずかしさが込み上げて、銀時は首の後ろをぽりぽりと掻いた。と、そのとき、その手にぽつりと雫が落ちた。冷たさにぴくりと肩を跳ねさせつつ空を見上げるも、かんかんと照りつける太陽は相変わらずだ。それなのに空から落ちる雫はだんだんとその数を増していき、空中に幾つもの細い線を描いてゆく。お天気雨だ。銀時は慌てて近くにあった空き家の軒下へと飛び込んだ。
溜め息をつきながら濡れた着物をパンパンと叩く。と言っても、すぐに避難したからそこまで水は染み込んでいない。ふわふわとした髪の毛も、いつも通りの質量を保っている。不幸中の幸いだな、と銀時は小さく口元を緩めた。
ふと、今いる軒下が、前にも雨宿りしたことがある空き家の軒下だと気付く。確かあれは、パチンコ帰りに雨に降られた日。土方と相合傘をしようとしたもののフラれてしまい、未遂に終わった日だった。梅雨が来る前の出来事だからほんの一ヶ月半くらいしか経っていないのに、なんだか随分と懐かしく感じる。梅雨の間にいろいろな出来事があったからだろう。この間はまだ蕾だった紫陽花はすっかり葉だけになり、そのすぐ脇に壁を覆うように伸びた蔓には、深い青色の朝顔の花が咲いている。
雨の雫をうけるその花たちを見ていると、彼の藍色の傘が脳裏に浮かんだ。
会いたい。銀時はぎゅ、と強く手の平を握り締めた。青く澄んだ空からはいまだ雨が降り続いている。
あれから一週間、顔を合わせていない。依頼をこなしに出掛けているときも、今日のようにぶらりと散歩しているときも、あの真っ直ぐな背中を見かけることはなかった。
会えない一週間のなかで、今の自分の気持ちを考えて考えて、考え抜いて、そして。
伝えたいことができた。だから、はやく顔が見たい。会いたい。銀時は祈るように雨空を見上げた。
「また雨に降られてやがる」
そのとき、不意に声がかけられた。驚いて、ぱっと顔を向ける。目の前に広がった見覚えのある藍色の傘の下、覗いたのは紛れもなく土方であった。
会いたいと思ったときに、ちょうど現れやがった。なんだか照れくさいもののやっぱり嬉しくて、じんわりと胸の中にあたたかさが滲んでいく。
「傘、直ったんだな」
彼の手に握られているのは、新品と見間違うほど綺麗に直されたあの傘。あの雷の夜の、ぼろぼろに折られた姿なんて嘘だったかのようだ。
「ああ、おかげさまでな。たった今受け取ってきたところだ」
嬉しさを滲ませるように口元を緩めた彼は、こくりと頷いた。それから少し目を伏せると、小さく口をもごつかせる。
「で、その……入ってけよ。お前さえ良ければ、だが」
言いにくそうに告げられた言葉に銀時は目を見開いた。よく見れば、傘の陰から覗く頬がほんのりと赤く染まっている。つられるように銀時の頬もかぁっと熱を持ち始める。
「いいのかよ」
「良くなかったら誘わねーよ。それに、雨のことで精一杯で、誰も俺たちなんて見てねェし」
確かに、急に降り出した雨である。銀時と同様、道行く人々は誰も傘を持っておらず、あたふたと屋根のある場所へと急いでいる。
「……じゃ、お邪魔しまァす」
促すように軽く持ち上げられた傘の下に、銀時はするりと滑り込んだ。
やはり男二人で入るには少し狭い。濡れないようにするには肩が触れるほど近づかなくてはならない。
「おい、ちゃんと入れてるか」
尋ねる土方の声に頷きつつ、同じように聞き返す。
「ああ。お前こそ濡れてねぇか?」
「ん、大丈夫だ」
交わされる会話があんまり穏やかで慣れなくて、なんだか気恥ずかしさが込み上げる。それを誤魔化すようにわざと肩をぶつけてみると、更に強い力でごつんとぶつけ返された。思わず笑ってしまう。ちらりと隣を窺うと、土方も小さく口元を緩めていた。
土方の服装は、いつものかっちりとした隊服ではなく着流し姿である。おそらく今日は非番なのだろう。だとすれば、どこへ行くつもりなのだろうか。コンビニのビニール袋を提げているし、もしかしたら用事を済ませて帰る途中だったのかもしれない。
「なぁ、もしかして帰るとこだった?」
いくら彼から言い出したこととは言え、遠回りさせてしまっているのだとしたら申し訳ない。頭を掻きつつ横目で土方の顔を窺うと、彼は少し目を伏せた。足元に視線を彷徨わせた彼は、小さな声で呟いた。
「……お前んち、行くところだった」
「えっ」
ぼそぼそと告げられた言葉に銀時は思わず目を見開く。ぱっと土方の方を見ると、彼は苦笑するように目を細めた。
「だから余計な気ィ使ってんじゃねェよ」
「……おう」
顔がじんわりと熱くなっていく。すぐ隣から向けられた穏やかな笑みに、なんだか胸の内側がくすぐったくなる。耐えきれなくて、銀時はふいと視線を逸らした。傘の外ではぱらぱらと小気味よい音を立てて雨粒が弾けている。
そういえば、土方はなぜ万事屋に向かっていたのだろうか。手に提げているビニール袋は、よくよく見ると見慣れたピンク色の紙パックやらチョコ菓子の箱やらが覗いている。恐らく手土産なのだろうそれらは、銀時の好物に加えて子どもたちの喜びそうなデザート類まで揃えられている。律儀な奴だな、とまた口元が緩んだ。
そんな律儀な奴だから、この前の礼でも言いに来るつもりだったのだろうか。
「あー……、この前の夜のことだが」
そう考えていたとき、ちょうど土方がそう切り出した。ふと隣を見ると、気まずげに少し眉を寄せた土方の顔が目に入る。
「その、助かった。……ありがと、よ」
もごもごとした不鮮明な言葉だったけれど、確かにそう告げられる。そっぽを向いてしまったから表情ははっきりとは見えないのだが、黒髪の間から覗く形の良い耳が赤くなっているのはよく見えた。同じ背丈だとこういうとき隠せないよな、と銀時は小さく苦笑した。
「俺がしたいことをやったまでだ。別に礼を言われる筋合いはねェよ」
「それでも、言っておきたかった。……俺ァ、昔から雨が嫌いだった」
土方は傘を握っている右手の親指と人差し指を擦り合わせている。話にくいことを、それでも話そうとしているような仕草であった。うん、と穏やかな声音をつくって銀時は相槌を打つ。
「昔、色々言われて家を飛び出したことがあってな。そのときも、あの日みたいな雨だった」
「うん」
訥々と語られる話に、銀時は静かに耳を傾ける。詳しくは話さないから分からないが、きっと家というのは土方家のことなのだろう。妾の子であったという彼だから、家の者からの待遇は恐らく良くなかっただろうことは想像がつく。家の者から、心無い言葉をかけられたのだろうか。ちょうど、あの日の接待のように。
「そんときに、必死こいて探してくれた人がいたんだ。……だからあんとき、路地裏でいたときも、誰か見つけてくんねーかなぁって思ってた」
「……うん」
「そしたら……お前がきた」
つい、と藍色の瞳が向けられる。静かに視線が交わった。
「なんか、雨も悪くねぇなって思うようになったんだ、最近」
土方はふっとほどけるように目を細めて笑った。
「お前のおかげかもな」
「……そりゃ、よかった」
何とか絞り出した声は、少しだけ掠れていた。胸の奥がきゅっと締め付けられるようだった。土方のふわりと微笑む顔を直視できなくて、銀時は地面へと視線を落とす。足元にある、空を映した青い水溜まりには、大小さまざまな波紋が重なり合いながら広がっている。
「なんか変な感じだな」
「え?」
ぽつりと呟かれた声に、銀時は顔を上げた。
「こんなに晴れてるのに、雨が降ってるから」
土方は少し傘を傾けて空を見上げていた。つられるように上を向く。確かに、青く澄んだ空から細い糸を引くようにして透明な雫が落ちてくるさまは、なんだか不思議な感じがした。
「ほんとだな。なんか騙されてるみてぇ」
「狐にか?」
「はは、そうかも。ちょっと気温も下がったし、涼しくていいな」
「雨が上がるとすげぇ蒸しそうだけどな」
「うげぇ、確かに……」
大袈裟に顔をしかめてみせると、土方はくすりと笑った。
空から落ちる透明な雫は、陽の光を浴びてきらきらときらめいている。世界を洗うような雨だと思った。
「最近お前と会うときは、必ず雨が降ってるな」
空を見上げたまま土方が呟いた。懐かしむように少し目を細めた彼は、それからすっと藍色の瞳を銀時へと向ける。
「そうだな」
銀時も少し目線を上に向けて、梅雨入り前のあの相合傘未遂の日からこれまでを思い出す。最初はくだらない喧嘩ばかりで、相合傘なんて逆立ちしたって出来そうもなかったのに、今は一つ傘の下で穏やかに言葉を重ねている。やはり、なんだか不思議な気分だった。
ひと雨降るごとに、少しずつふたりの距離は近くなってきた。
ならば、この雨は。今降っているこの雨は、ふたりの関係をどのように変えるのだろうか。
静かになった傘の中には、一粒ごとの間隔が長くなった雨の音が小さく響いていた。雨脚は徐々に弱くなっている。
「あ、やんだみてぇだ」
土方が傘の外へと手を伸ばす。その手の平を濡らすものはなくなっている。傘の上でぱらぱらと弾けていた音も、今はまったく聞こえない。
ばさりと傘を閉じた土方は、銀時を振り返って少し笑った。そのままさっさと歩き出してしまった土方を追うようにして銀時も足を踏み出した。もう隣にいる必要はないはずなのに、誘われるように銀時は土方の後をついていく。同じ大きさの二つの影が、ゆらゆらとしながら並びあう。出番を取り戻したとばかりに日差しを強める太陽のおかげで、地面に映る影はくっきりと濃い。
「なんか、景色が綺麗になったな」
銀時はぐるりと辺りを見渡した。濡れた木々の緑は、光の粒を纏ったことでより鮮やかになった。光を反射させる水溜りもきらきらと輝いている。真っ白な雲に手が届きそうなほど、空が近いような気がした。
「空気中の塵やほこりなんかを雨粒がくっつけて降るから、雨上がりの景色は綺麗に見えるんだとよ」
一斉に鳴き出した蝉の声にかき消されないように、土方は少しだけ声を大きくしてそう言った。うるさげに顔をしかめた彼に、銀時は小さく苦笑する。
「へぇ、そうなのか」
「まぁ俺も受け売りだから、詳しいことは分からねェが」
そう付け加えた土方は、からりと澄んだ青空を見上げるとふ、と口許を緩めた。
「確かに、綺麗だな」
その穏やかに凪いだ表情こそがあまりにも綺麗で、ぎゅっと胸が詰まる。同時にあたたかいものが胸の奥から溢れて出して、胸いっぱいに満ちてゆく。
空気の中の塵を雨が洗い流してくれたから、こんなにも景色が綺麗に見える。同じように、つまらない意地やくだらない見栄を雨が洗い流してくれたから、こんなにも穏やかに笑う土方の表情を見ることができたのだ。
ひと雨降るたびに、少しずつ近づいた二人の距離。雨が上がった今思うのは、もっと傍に寄りたいということ。
雨が降っているときは隣で傘をさして、晴れた青空が広がるときは同じ空を見上げたい。移ろう季節も、揺蕩う天気も、どんな空も隣で一緒に見ていたい。
隣で、笑いあっていたい。
さぁっと吹き抜けた風が、濡れた木々の葉を、水溜りの水面を、膨らむ白い雲を揺らして通り過ぎてゆく。水を含んでいた着物の袖がひらりとたなびく。
じりじりと急かすように照りつける太陽が、どんどん気温を上げていく。つられるように胸の鼓動も速くなる。銀時はいちど、ぐ、と手の平を握り締めた。それから、少し前を歩いていた土方の手を掴もうと腕を伸ばす。
するとそのとき、それを見透かしたかのように土方がくるりと振り返った。黒い髪がぱさりと軽い音を立てて翻る。めいっぱい光を浴びる横顔が、淡い金色に縁取られて輝いた。
「あの雨の夜に俺を見つけてくれたのが、お前でよかったと思ってる」
銀時の目を見つめた彼は、じっくりと確かめるようにそう告げる。銀時は思わず目を瞬かせた。告げられた言葉の意味が脳みそに浸透してくると同時に、かっと頬が熱くなる。
確信犯ですか、コノヤロー。胸の内でごちた銀時は、行き場をなくしていた右手でガシガシと頭を掻いた。それからもう一度、土方へとその腕を伸ばした。
掴んだ手をそっと引き寄せる。
「俺は、雨の日だけじゃなくて、晴れでも曇りでもどんな日でも傍にいたいって思ってるんだけど」
耳元で囁くと、今度は土方がぱちぱちと瞬きをした。顔を覗き込んで視線を合わせる。彼の藍色の瞳をじっと見つめていると、その下の頬がじわじわと赤く染まってゆく。ぱくぱくと空気を求めるように口を動かした土方は、そのあとぎゅっと真一文字に唇を結ぶ。眉間に少し寄った皺さえも愛おしいと思った。
「お前は、どう思う?」
ゆっくりとした口調でそう問うと、土方は小さく目を伏せた。それから、噛み締めるみたいにこくりと頷く。
「俺も」
見つめる銀時の瞳をしっかりと見返しながら、土方が告げる。ふっと綻んだ表情は、晴れた空によく似合う清々しい笑顔だった。
ふたりの頭上、雨上がりの澄んだ青空には大きな虹が輝いていた。
おしまい