雨をかぞえる君のとなり
なみなみと猪口に注いだ酒を銀時はぐい、と勢いよく飲み干す。ぷはっと大きく息を吐き出し、それから倒れ込むようにして目の前のカウンターに突っ伏した。
もうすっかり日も沈みきった夜。いつもであればとっくに酔っ払い達で満席になり、ガヤガヤと喧騒に満ちているはずの呑み屋は、今は銀時と親仁の二人しかいない。
それもそのはず、現在外は土砂降りの雨なのだ。店の中にいてさえ激しい雨音が聞こえてくるほどの大雨。こんな天気にわざわざ飲みに出かける人なんて、滅多にいないに決まっている。
今日は朝からじめじめとした嫌な空模様だった。鈍色の重い雲が一面に広がった薄暗い空と、そこから止め処なく落ちる細い雨。どうせならザッと一息に降ってしまえばいいものを、いつまで経ってもうじうじと雨を降らしている鬱陶しい天気。
「なんだか、最近の銀ちゃんみたいアルな」
今朝、神楽に言われた言葉が脳裏に蘇る。
確かにその通りだと思う。
あの、土方と雨宿りして、変てこな相合傘もどきで彼を屯所へと送り届けた日。あの日から、なんだか変なのだ。依頼の最中にぼーっと物想いに耽り、屋根の修理中にトンカチで自分の指を叩いたり追っていた猫を見失ったりなどということが日常茶飯事になった。新八や神楽に呼びかけられても気付かないままぼんやりとしていることもしょっちゅうだ。今までだって、ずっと彼に惚れていたのに。それなのに、こんなことになったのは初めてだった。
このままではいけない。そう思うけれど、どうしたって思い出してしまうのだ。あの日土方の腰を抱いたときの、手に伝わる熱。隣から聞こえた少し荒い息遣い。それらを思うと、もう、どうしようもなくなるのだ。胸の奥から込み上げた熱が指先や頭のてっぺんまで浸透し、無性に叫び出したくなる。かと思えば、苦しくて胸を掻きむしりたくなる。
あのとき溢れる一歩手前だった想いが、今度は体中を巡りながらふつふつと沸いているようだ。本当に、どうしようもない。
あんな、肩が触れ合う距離なんて、今までだって腐るほどあった。胸倉を掴み合い鼻先が触れそうな距離にまで近づいたことすら数え切れない。
なのに。
それなのに、あの日の、あの温度あの息遣いだけが脳にこびりついて離れない。
また思い出しそうになったそれを、軽く頭を振って散らす。またモヤモヤとしたものが胸の中に立ち込めそうになる。
「もうじき梅雨も明けるアル。それまでに、銀ちゃんも何とかするヨロシ」
そう言って神楽はニヤッと笑っていたけれど、こちらとしてはちっとも笑えない。何とかする、と言ってもどうしたらいいか分からないし、どうしたいかさえも分からない。
雨がすべて洗い流してくれる、なんてことはない。
「どうしたんだい旦那、今日はやけに沈んでるねェ」
カウンターの中から親仁の呑気な声が掛けられる。いつもは忙しなく動き回っているのだけれど、他に客もいない今はどうやら手持ち無沙汰らしい。
「んー、まぁな」
腕に頭を預けたまま、もごもごと返事をする。
「パチンコかい? 競馬かい? それとも家賃の滞納とか?」
「違ェよ!そんなくだらねぇことで悩んでんじゃねェよォ!」
バッと顔を上げて反駁するも、
「アレ、アンタが管巻いてるときはいつもそんな内容じゃなかったかい?」
などと飄々と返されては閉口するしかない。うっ、と言葉を詰まらせると、親仁はアハハと楽しそうに肩を揺らした。
「まぁまぁ、なんだかよく分からねェが、こんな天気じゃ気が滅入っちまうのも仕方ねーさなァ」
そう言って訳知り顔で頷いた親仁は、それからひょいと銀時の前から空の徳利とお猪口を攫っていった。
「あっ、何すんだ!」
「ほら、そろそろ帰んな。もっと雨がひどくなってからじゃあ遅いだろィ?」
「……まだ酔えてねェ」
「酔ってないうちに帰らないと。それに、そんな様子じゃいつまで飲んでも酔えねェだろうさ」
奪われた徳利たちを恨めしげに睨んでみたものの、親仁の言うことも尤もである。渋々と重い腰を上げる。
のろのろと店を後にし、雨水の叩きつける夜道を歩く。濃い墨色の空からは大粒の水滴が容赦なく降り注ぐ。頭上の薄水色の傘の中ではボツボツと雨の弾ける激しい音が響く。鼓膜をぬけて脳まで浸透しそうなほどの音量。いい加減気が滅入ってくるものの、逃れる術はない。頭ごなしに降る雨に押し潰されそうだ。銀時はぐっと傘を握る手に力を込める。
ふと傘を上げると、真っ黒な夜空を裂いてはしる、激しい白い光が目に入った。うげ、と顔をしかめた十数秒ほど後にゴロゴロとくぐもった音が聞こえてくる。光と音の間隔や大きさから考えると、雷はまだ遠くにいるらしい。近づいてくる前に、と足を速めた。
とはいえ、帰っても家には誰もいない。神楽はそよ姫と城で遊ぶのだと言って、まだ小雨であった昼寝過ぎに出て行った。新八はというと、お妙が珍しくオフだとかで一緒に休みを取っていた。
依頼も話し相手も無い万事屋に一人でいても悶々とするだけだ。だから気晴らしになればと飲みに出掛けたのだけれど、どうやらその効果は無かったようだ。いくら杯を重ねたところで、結局1ミリたりとも酔えていないのだから。雨の中をはるばる出掛けたものの、結局徒労に終わってしまった。
その上、今日はかぶき町を離れて少し遠くの店で飲んでいた。家を出たときはまだ本降りではなかったし、誰もいない家に早く帰ろうという気にもならなかったのだ。しかし、どうやらそれが災いしたらしい。いくら歩けどもなかなか家に辿り着けず、じわじわと体力を消耗する。その上、雨晒しの冷たさで気力まで刮ぎ取られていく。濡れた長着の裾が足に纏わりついてくるのが鬱陶しいし、ブーツの中にまで入り込んだ水のぐちゃりした感触も不快極まりない。ちっと舌打ちがこぼれる。
何とか足を動かしつつ、飲み屋や料亭などが軒を連ねる通りを足早に過ぎていく。いつもなら赤い顔をした酔っ払いたちが行き交う賑やかな道だけれど、やはり今日はひっそりとしていて人影も疎らだ。その閑散とした通りを抜けて細い裏道に入ると、完全に人影は無くなった。ただ町を濡らす重い雨の音だけが耳障りなほどに大きく響く。ポツポツと灯された頼りない街灯の明かりが、雨粒を白く照らし出している。より雨の気配を濃くしているようだった。
歩みを進めていると、通り過ぎたばかりの路地裏からふと気配を感じた。暗くてよく見えなかったが、何かが蠢いたような気がしたのだ。
ごくりと唾を飲み込む。こんな土砂降りの中、寂れた路地裏に人なんかいるだろうか。じわりと嫌な汗が滲む。
もしかして、見えてはいけないモノが見えちゃったのか。頭に浮かんだ予想に身を強張らせつつ、灯りの届かない路地裏を恐る恐る覗き込む。
すると目に入った、蹲る人の姿。
濡れそぼった真っ直ぐな黒髪と、銀色の線のはしる真っ黒い服。明らかに見覚えのある、隊服姿。
まさか。
ドクリ、と心臓が嫌な音を立てる。慌ててその人影に駆け寄る。茶色く濁った水溜りが足元で跳ねたが、それどころではなかった。
パシャ、と銀時の立てた足音に、目の前の黒い影がさっと振り返る。こちらを見上げる顔は、予想していた当にその人だった。
「土方」
呼びかけた声に、彼はほんの小さく息をついた。
「……テメーか」
返ってきた声はあまりに静かで、雨の音に掻き消されそうなほどに頼りない。
「何してんだよ、こんなとこで」
いまだしゃがみ込んだままの土方に傘を差し出しながら問いかける。バツが悪そうにちょっとだけ眉を寄せた彼は、ふいと顔を逸らしてしまう。
血の匂いは感じないから、どこか怪我をしているという訳ではなさそうだ。それなら尚更、彼がこんなところで蹲っている理由が分からない。
「おい、返事はあんまり期待してねぇけど一応もう一回聞いとくぞ、どうしたんだ」
「……雨宿り」
「バッカ、雨宿りってーのは屋根のあるとこでするもんだ」
「るせェ」
どうやら真面目に答える気はないらしい。それでも掠れた声で返された覇気のない憎まれ口に、思わず溜め息が洩れる。
「ったく、こんなびしょ濡れで何が雨宿りだよ」
取り敢えず彼を立たせようと低い位置にある肩に手を伸ばす。何気なく触れると、本来なら濡れて冷たいはずのそこはじんわりと嫌な熱を持っていた。
「まさかお前、熱あるのか?」
俯いたまま何も返してこない。黙っているということは、恐らく肯定なのだろう。よくよく見ると、随分と呼吸が荒い。大きく肩が上下しているのが暗闇の中でも見てとれた。
「お前、体調悪いときに出歩くのが趣味なの?なに、ドM? 前髪はVで性癖はM?」
「うるせェ天パ」
「今天パ関係ねーし」
こんなときでも一応軽口は叩けるらしい。尤も、ただの強がりかもしれないが。
銀時はさしていた傘を閉じる。すると土方は驚いたようにハッと目を見開いた。
「お前、何してんだ、濡れる」
「あ?別にいいよ今更だし」
「は、何……」
「何ってオメー、ずっとこんなとこでいる訳にいかねーだろ。こっからだと屯所より近いし、万事屋行くぞ」
言いながらじっとりと水を含んだ隊服の腕を取る。すると土方は小さく頭を振った。
「いい、一人で帰れる」
「一人で歩けもしねェヤツが何言ってんだバカ」
掴んだ腕をグイと引き何とか土方を立たせる。たったそれだけのことで、彼はふらりとよろけてしまう。
「ほら、無理だって分かったろ。いいから行くぞ」
小さく唇を噛む彼の腕を自分の首に回させる。力の入らない彼の体を支えるため、自分よりいくらか細い腰に手を遣る。まるで、この前の雨宿りのときのような体勢だった。ただ、前とは違う、手の平に伝わるあまりに高すぎる熱。きゅっと眉根を寄せる。
そして、近くに寄って分かったのだが、土方からは微かに酒の匂いが漂っていた。
「じゃ、歩くぞ」
そう告げて足を踏み出そうとしたとき、土方が待て、と身動ぎした。
「俺の傘が、そこに……」
足元を見ると、閉じたままの傘が地面に転がっていた。あの、銀時のと色違いの傘だ。そう言えば今日はずっと雨だったのだから、土方がいつ屯所を出たにしても傘は持っているはずだ。
「お前、何で傘さしてねーの」
呆れたように言いながらその藍色の傘を拾い上げる。それを差そうとして、ぎょっとした。骨が数本折れている。歪んだそれを見て、銀時は顔をしかめた。
今日は雨だったとはいえ、風はさほど強くない。
傘がこんなになることなど、ないはずだ。
「……どしたの、コレ」
すぐ隣にある顔を見ると、ほんの僅かだけれどくしゃり、とその表情が歪む。そんな顔を見てしまうと、もう何も問い質せない。
「……取り敢えず、行くぞ」
ぐったりとしたままの彼の体を支え直しつつ、今度こそ歩きだす。
足にも力が入っていないから、当然歩みは遅い。その歩幅に合わせながら、ゆっくりと慎重にその体を運ぶ。耳元から聞こえる吐息は随分と荒い。苦しげなそれが繰り返されるたび、焦りがじわりと募っていく。ゆるゆるとしか進めないことが歯がゆい。一刻も早く楽にしてやりたいのに。舌打ちしたい気分だ。
それに、心なしかさっきまでよりも雨脚が強くなった気がする。体を打つ雨粒は大きく、痛いくらいだ。傘を差せたらいいのだけれど、銀時とて同じくらいの体格の成人男子を支えながらは流石に骨が折れる。
ずり落ちそうになる土方の体を抱え直したとき、土方がきゅ、と僅かに眉を寄せた。
「すまねぇ」
ぽつり、と落とされた言葉に、息が詰まる。堪らない気持ちになる。
「だから、別にいいっつってんだろーが。お前は黙って担がれてりゃいいんだよ」
頭を掻きむしりたくなる衝動を抑えながらそう返すと、土方はまた唇を噛んで俯いた。長い前髪がその顔を覆い隠しているせいで、その表情までは窺えない。けれど、濡れて張り付いた黒髪の隙間から覗く頬は、熱のせいで赤く蒸気していて。そこを、そっと滴が伝う。雨に濡れているから。そう分かってはいるものの、胸がざわりと音を立てる。
その頬に流れる滴を拭いたい。だけど、両腕は彼の体を支えているし、何より拭おうとする自分の手も濡れている。土方の頬に流れる滴を、ただただ見ていることしかできない。銀時はきつく奥歯を噛み締めた。
無性に長く感じる道のりを無言で歩き続け、ようやく万事屋へと辿り着いた。
なんとか階段を上りきり、玄関に土方を押し込む。覚束ない手つきで彼が靴を脱いでいる間に、さっさと風呂の準備を済ませる。タオルを手に玄関へと戻ると、土方は壁に体を預けて荒い息を吐いていた。風呂に入れるべきか迷ったが、このままでは悪化すること請け合いだ。
「今風呂沸かしてるけど、入れそうか?」
「あぁ」
「シャワーだけさっと浴びてこい。絶対無理すんなよ」
「あぁ」
微かな声で返される。それからまた、零すように「すまねぇ」と呟いた。
「だからいいっつってんだろ。次謝ったら切腹な」
そう言うと、彼はすっかり押し黙ってしまった。俯いた彼の濡れそぼった黒髪をタオルで拭いてやる。抵抗されるか、とも思ったけれど、彼は意外にもされるがままであった。単に抵抗する気力もないだけかもしれないけれど。素直に頭を差し出す様が、なんだか項垂れているように見えてしまう。また、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
そうこうしている間に風呂が沸いたので、脱衣所へ土方を押し込んだ。一人で風呂に入らすのはどうかとも思ったのだが、さすがに一緒に風呂に入るのは忍びないし色々と耐えられない。それに彼だってきっと嫌がるだろう。心配だが、外で待っているしかない。
土方が風呂に入ったことを確認してから脱衣所へと入り、びしょ濡れになっている隊服を洗濯機へと放り込んで代わりに自分の白い長着を籠に置いておく。風呂からちゃんとシャワーの音が聞こえていることに、ほっと胸を撫で下ろした。
とりあえず隊服のポケットから取り出しておいたケータイやら手帳やらを居間の机に置きに行く。そのまま居間で彼を待とうかとも思ったけれど、あんな状態の土方を一人にしておく気にもなれない。何かあったときすぐに気付くようにと、脱衣所を出たところの廊下で彼を待つことにする。
雫の滴る頭をタオルで拭きつつチラリと目を遣った窓の外では、更に雨が激しさを増したようだ。叩きつけるような雨粒の音が部屋の中まで大きく響いている。まだまだやむ気配は無さそうだった。窓の外の濡れた闇をじっと見つめる。
土方が蹲っていた路地裏。あれは確か奥まで突き抜けてしばらく歩くと高級料亭やら旅館やらが軒を連ねる通りに繋がっているはずだ。そして彼は隊服を纏っていたので、恐らく幕臣への接待か何かの帰りだと考えられる。そして、その料亭などのある通りから真選組の屯所へと帰る場合、あの路地裏を通るのは随分遠回りになる、と言うよりむしろ逆方向へと向かうことになってしまう。傘も駄目になった人間が、わざわざ大雨の中を遠回りするとは考えにくい。つまり、屯所へ帰るつもりは無かったのだ。恐らく、心配をかけるから、もしくは帰りにくくなる何かがあったからだろう。
抱き寄せた土方から微かに香った酒の匂い。それは、呼気からではなかった。項垂れるように俯いた、濡れる黒髪から漂うものだった。
かけられたのだろう。頭から、酒を。
嫌味な幕臣ジジイのしそうなことだ。立場が下であり自分には決して逆らえない者を甚振り屈辱を与えて、嘲笑う。それに土方はあの容色だ。プライドが高く高潔な美しい男を甚振って遊ぶのだ、暇なジジイにとってはさぞ楽しいことだろう。まったくもって、反吐が出そうだ。
そう考えると、あの壊れた傘もその幕臣の仕業だろうか。傘の惨状を見てどうしたのかと聞いたとき、土方は悔しそうに、苦しそうに顔を歪ませていた。自分で折ったわけでもあるまいし、きっと折られたのだろう。こんな大雨が降っている中で、傘を壊すなんて。そんな真似、相手を人間として扱っていれば到底できないはずだ。
タオルを持つ手に力がこもる。胸糞が悪くて、今すぐにでもそのジジイを殴り飛ばしたくて、でも、そんなことができるはずもなくて。無力感にぎゅっと奥歯を噛み締める。
窓の外が一瞬白く光る。顔を上げると次の瞬間、夜を破るような激しい音が轟いた。いつの間にか随分と近づいてきていたようだ。屋根や窓を叩く雨の音も勢いを増している。あのとき、路地裏の土方に気付いていなければ、彼はこんな雨の中ずっと蹲っていたのか。あんな場所で、たったひとりで。
そのとき、ガタリと風呂場から音が聞こえた。どうやら土方が風呂から出たらしい。無事にシャワーを浴び終えたことにほっとしつつ、そっと静かに居間へと移動する。心配だったからずっと脱衣所の前で待機していました、と知られるのは気まずい上に恥ずかしい。ソファに腰を下ろしそわそわとしながら土方を待つ。
しばらくして居間へとやってきた土方は、やはりまだ熱が下がらないようで少しふらついている。駆け寄って肩を支えると、土方はそっと息をついた。熱い吐息だった。
「大丈夫だったか」
「ん……」
頼りない声で返される返事にも、調子の悪さが滲む。気分の悪さを堪えるように眉を寄せ、伏せられた長い睫毛の下の瞳は潤み揺れている。そんなしおらしい、らしくない様子を見せるから、胸がざわついて落ち着かない。
簡単にくたばるほどヤワな男ではないと分かっている、けれど。いや、むしろ普段は真っ直ぐに背筋を伸ばして凛と立っている彼だからこそ、こんなにも弱っている姿を目にするのが堪えるのだ。それが惚れた相手なら尚更である。
「とりあえず寝とけ」
そう言いつつ、奥の和室へと連れて行く。予備の布団を手早く敷き、その上に土方を横たえさせると、彼はそっと目を閉じた。
それを確認してから、台所へと向かい冷たい水を張った桶と手拭いを用意してくる。和室へと戻り、水で冷やした手拭いをそっと額に乗せる。と、土方は薄く目を開いた。
「わり、起こしたか」
「いや、大丈夫だ」
聞くと、土方は緩慢な動きで頭を横に振りつつそう言った。まだ眠っていたわけではなかったらしい。
居間の机に置いたままだった彼の所持品を枕元へと持ってくる。彼が大人しくしていることを確認してから、銀時もシャワーを浴びるために風呂場へと向かった。
やはり土方が気掛かりなので、烏の行水で風呂を済ませ急いで彼の元へと戻る。音を立てないよう細心の注意を払いながら、そろりと部屋の中へと入る。電気を消しているため薄暗い部屋の中、彼の寝息をかき消すような外の雨音がやけに大きく聞こえた。
土方の眠る布団の傍に、そっと腰を下ろす。ふと見ると、ケータイの位置がさっき置いたときと変わっている。恐らく、真選組に連絡を入れたのだろう。何と言って事情を話したのかは分からないけれど。嘘を話したのか真実を伝えたのか、と言うかそもそも彼の身に起こったことは何一つ分からないのだ。口惜しくて、奥歯を噛み締める。
気を落ち着かせるために水でも飲んでこよう、と立ち上がりかけたとき、不意に袖を小さく引かれた。弱い力で袖を掴む腕を辿り、土方の顔を見る。眠っているとばかり思っていたが、潤んだ目は微かながらも開いていた。
「ここに、いて」
掠れた声で、絞り出すように告げられた言葉。それは、普段なら絶対に聞くことなど無いであろう声音であり、子供のような口ぶりであった。心臓を直に鷲掴みにされたように、胸の奥が苦しくなる。
薄く開いていた彼の目は、既に閉じられていた。寝言だったのだろうか。かたく閉じられた瞼を見ながら思う。
着物の袖を掴む土方の手を、そっと両手で包み込む。剣だこだらけの手。いろいろなものを護り、耐えてきた手。熱をもったそれを、優しく撫でる。
「俺はここにいるよ」
そう言うと、安心したように土方の体からふうわりと力が抜けた。
今は、ただ静かに眠ってほしい。穏やかになった寝顔を見つめながら、銀時は祈った。
ぱっと視界が白く爆ぜた次の瞬間、どん、と太鼓のような大きな音が空気を震わせた。驚いて目を開く。随分と大きな雷だったようだ。
いつの間にか眠ってしまっていたことに気まずさを感じ、ぽりぽりと鼻の頭を掻く。ちらり、と土方を見遣ると、こちらを見つめている視線とばっちり目が合った。
「あ、……起きてたの」
「いや、さっきの雷で起きた」
そう言った土方の声は、眠りにつく前よりもはっきりとしたものになっている。
「体調は?」
「割と良くなってる、と思う」
「そっか。良かった」
確かに、蒸気していた頬も今では少し赤みが差す程度になっている。握り締めた手から伝わる熱も、随分と穏やかなものになっている。
……握り締めた、手?
「あっ」
ぱっと土方の手を放す。しまった、ずっと握ったままにしていた。銀時は瞬時に手を引っ込める。
本当は土方が起きる前に放すつもりだった。けれど銀時自身も寝てしまったからそれができなかったのだ。確かに、土方に傍にいてほしいと頼まれたから手を握っていたのだけれど、きっと寝ぼけていた土方は覚えていないだろう。怪しまれるに違いない。
「いや、ごめん、あの、」
「…………俺が言ったんだから、謝んな」
ぼそり、と落とされた言葉に顔を上げる。
「……覚えてたの」
「まぁな」
「そっか」
寝ぼけていたわけでは、なかったのか。
銀時はふ、と小さく息をついた。
「水か何か持ってくるわ。腹は減ってねぇ?」
「ああ。すまねぇな」
「だからいいって」
膝に手をつきながら立ち上がり、台所に向かう。
蛇口を捻り、透明なコップに水を注ぎながら銀時はさっきの土方の言葉について考えた。
ここにいてという土方の言葉が、寝ぼけていたからではないと分かったとき。胸の奥からじわりと溢れてきた熱が、体中をゆっくりと巡っていくようだった。今も、胸が震えそうなほどの喜びが心をいっぱいに満たしている。
この間の、一つの着物を二人で被ったへんてこな相合傘をしたとき以来、ずっと胸の中にあったもやもやとした黒い雲が一気に霧散していく。
銀時はコップを持つのとは反対の、さっきまで土方の手を握っていた右手をそっと握り締めた。傍にいてほしいと願われることが、傍にいるのを赦されることが、こんなにも心をあたたかくする。
窓の外から聞こえる雨の音は、もうさっきまでのような激しさは無かった。
冷たい水を入れたコップを片手に和室へ戻り、上体を起こしていた土方に向けてそれを差し出す。
「ほら」
「ん、さんきゅ」
手渡すと、土方は両手でそれを受け取りゴクゴクと喉を鳴らして水を飲んだ。すぐにコップの中身が半分ほどになる。彼がふぅ、と一息ついた頃を見計らって、銀時は口を開いた。
「なぁ、何があったのか聞いてもいいか」
静かな声音で尋ねると、土方は微かに肩を揺らした。
「……ただの接待だ」
やや間があってから溜め息と共に告げられたのは、予想通りの言葉であった。ぶっきらぼうな口調だったけれど、ほんの少し、声が震えていた。
「……接待」
「お前も、大体は見当がついてるだろうけど」
言いながら、土方はふっと自嘲じみた笑みを浮かべた。かける言葉が見つからなかった。
「べつに、いつも通りだったんだ。大したことじゃねェ」
「いつも通りって、どんな」
少し声が上擦ってしまったことを、銀時は頭の隅で恨んだ。
「ネチネチ嫌味言われたり組のこと馬鹿にされたり、嫌がらせされたりとか。さすがに、酒かけられたのは今回が初めてだけどな」
土方は手の中のコップを弄びながら淡々と告げた。伏し目がちに、それでも口許に小さく笑みを浮かべている。そんな土方の表情に、銀時は奥歯を噛み締めた。そんなことをいつも通りと言ってしまえるほどに、何度も何度も耐えてきたのか。
大切なものを貶されて自分自身の誇りも踏み躙られて。それでも、全部飲み込んで真っ直ぐに立って。
本当に、見つけられてよかった。あのとき、路地裏を覗き込まずにそのまま素通りして、蹲る土方を見つけられていなかったら。考えるだけでぞっとする。
けれど、そんなことが、今までにあったのかもしれない。誰にも見つけられず、暗い場所で膝を抱える土方の姿が、いつかの夜にはあったのかもしれない。
「……そんなのが、毎回?」
「……べつに、毎回ってほどじゃねぇよ」
「あいつらは知ってんの?」
「組の奴らか?……あんまり詳しいことは言ってねぇ。それに、べつに伝えようとも思わねェよ。汚れ仕事は、俺の仕事だ」
またしても予想通りの答えだった。土方がそんな役目を他の奴に背負わせるはずがない。すべて一人で受け止めようとすることくらい分かっている。だからこそ、こんなにも。
「けど、全くの無抵抗って訳じゃねェよ。犬だって隙を見せりゃあ噛み付く」
「うん」
「特に今日のジジイは叩けば山ほど埃が出てくるようなキナ臭ェ奴だからな。山崎に身辺を探らせてたから、既に尻尾は掴んである」
「うん」
「あとはそれを証拠にしてお縄につかせてやれば、転落街道まっしぐらだ。ざまぁみやがれってんだ」
ニヤリ、と土方は口端を吊り上げて偽悪的な表情を作ってみせる。そんな強気な言葉も、恐らく強がりなどではなく本当のことなのだろう。けれど、土方が今までに受けてきた屈辱も感じてきた悔しさも、すべて紛れもない事実で。プライドが高くいつだって真っ直ぐに立つ彼が、今にも折れてしまいそうなほどに参っていたことも、変わりのない真実なのだ。
銀時は、布団の上に投げ出された土方の手に触れた。ほんの少し震えている、あつい手。結ばれたその手を、やさしく包み込む。
「……うん。よく頑張ったよな」
まだ少し揺れている藍色の瞳を見つめながら告げると、土方は驚いたようにその瞳を丸く見開いた。ひゅ、と微かに息を飲む音が聞こえた。見開かれた瞳は次の瞬間にくしゃりと小さく歪み、さっと顔が伏せられる。
手の平のなかで、土方の手がぎゅっと握り締められたのが分かった。強張った肩が、小さく震えている。はらはらと気丈な振る舞いが崩れだす。それを見て、胸が痛んだけれど、同時に少し安堵した。
護るべきものである真選組の奴らには見せることができない弱音も、本心も、ここではさらけ出してほしかった。少しでもいいから、折れそうな心も耐えてきた辛さも見せてほしかったから。震える肩に、そっと手を回す。
「いっぱい話したら疲れたろ。横になるか」
「……ああ」
触れていたのとは反対の手からコップを受け取り、もぞもぞと布団にもぐり込む土方を支える。
「……いつも通りのはずだった。耐えられるはずだったんだ」
横になった土方が、掠れた声でぽつりと零した。腕で顔を覆っているからその表情は窺えない。けれど、少し上擦った絞り出すような声音が、土方の心を表しているようだった。
「うん」
「傘を、折られた」
「……うん」
やはり、あの無惨な姿に変えられた傘も、その幕臣の仕業だったらしい。予想していたこととは言え、胸糞が悪い思いは変わらない。眉をひそめそうになるのをなんとか堪える。
「それが、なんか分かんねェけど、ちょっと応えて。ほんと、何やってんだろうなぁ」
自嘲するように、独り言のようにポツリと零された言葉。それはつまり、それほどまでにあの傘を大事に思ってくれているということだろうか。
もともと物を大切にしそうな男であるから、深い意味は無いのかもしれない。それでも、嬉しかった。
「修理したらすぐ使えるようになるよ。中棒は全然傷付いてなかったし」
「……そうか」
「一緒に修理に持ってこうぜ。あの傘屋ならすっかり元通りに直してくれるだろ」
「ああ、そうだな」
ふ、と声が微かに軽くなった。少し落ち着いたのだろう。顔を覆っていた手からも力が抜けたようだ。ぐっと結んでいた手の平が緩み、少し開かれている。
その後、すぐに穏やかな寝息が聞こえてきた。落ち着いたらまた眠気が襲ってきたのだろう。ずれてしまっていた布団をそっと掛け直す。
顔色も良くなっているし、表情の険もとれている。このぶんだと、明日の朝には体調も回復しているだろう。銀時はほっと胸を撫で下ろした。
抱えるものがどれほど重くても、決して途中で投げ出したり他人に預けたりしない男だと分かっている。だからこそ、ほんの少しだけでもその重さを吐露してくれたことが、傍にいさせてくれたことが、こんなにも胸の奥を熱くする。
雨をやませることはできない。土方のうえに降る冷たい雨を、やませる力など持ってはいない。
けれど、一人で雨に打たれている彼に、傘を差し出すことはできる。雨が降る間、傍にいることはできる。隣にいて、雨が上がるのを一緒に待つことはできるのだ。それが、なにより嬉しかった。
銀時は目を閉じて、外の音に耳を澄ませる。
明日の朝には、この雨もすっかり上がっていることだろう。