雨をかぞえる君のとなり


「それじゃ銀さん、ありがとうねェ」
「おー。また何かあったら言ってくれよな」
 依頼主であった定食屋のおばちゃんの声に、銀時は片手を上げて応える。懐から伝わる、さっき頂戴した報酬の重みのおかげで気分は軽い。上機嫌でガラリと店の戸を開け外に出て、それから思い切り顔をしかめた。
 なぜなら、見上げた空は生憎の雨模様。重苦しい鈍色の雲からひっきりなしに雨粒が降り注いでいる。さっき外で雨樋の修理をしていたときは降っていなかったから、その後に店でお昼をご馳走になっている間に降り出したのだろう。桶をひっくり返したような、とまではいかないものの結構な強さの雨脚である。
 天気予報でも雨だとは言っていなかったし店に来るときは真っ青な晴天だったから、もちろん傘など持っていない。傘立てに大切に仕舞われたままの薄水色を思い浮かべ、小さく溜め息をつく。目の前の通りでも、人々はみな腕を上げて着物の袖を傘代わりにして帰路を急いでいる。これだから急な雨は困るのだ。
 しかし、幸いにもこの定食屋から万事屋までは走れば十分もかからない距離だ。濡れ鼠になること必至だが、何とか帰ることはできるだろう。それに、いつまでも店先で途方に暮れている訳にもいかない。
 銀時は腹を括り、雨空の下へと飛び出した。途端に冷たい水の粒が容赦なく体を打つ。ほんの数十秒走っただけなのに、白い着流しも頭も滴らんばかりにすっかり水を含んでしまう。予想より激しい雨に、銀時は走って帰るという己の作戦が無謀であることを悟った。どこかで雨宿りでもするべきかもしれない。
 と、ちょうど目に入った、斜向かいの軒下に佇む黒い人影。どくりと心臓が跳ねる。まさか会えるなんて思っていなかった。
 思わず緩む口元を何とか引き締めつつ、踵を返してその人影のもとへと走る。ぱしゃ、と足元で水が跳ねる。地面を叩く雨の粒が着物の裾を汚したけれど、構わずに駆けていく。
「よっ、副長さん」
 軒下へと駆け込みながら、そこにいた人影に声をかける。俯いていた彼が弾かれたようにパッと顔を上げた。切れ長の瞳が大きく見開かれる。不意を突かれたような表情が珍しくて愛しくて、必死で平静を装っていたもののつい頬が緩んでしまう。
「隣、邪魔するぜ」
 そう言うと、土方は「勝手にしろ」と小さく呟いた。そしてそのままふい、と顔を逸らしてしまう。その様子がなんだかいつもと違うように思えて、内心で首を傾げた。
 以前のように何でテメーがこんなとこに!などキャンキャンと噛み付かれなくなったことは素直に嬉しい。この間の雨の日、少しの勇気と素直さのおかげで縮められた距離を表しているように思うから。けれど、棘が無くなった代わりにどこかよそよそしいというか、そわそわとした雰囲気を纏っているように感じるのだ。現に今だって、あまりこちらを見ようとしていない。
 そんな彼の様子を怪訝に思いつつも、折角会えたのだからこのチャンスを逃したくない。陰でグッと拳を握り気合いを入れつつ、表ではいつも通りを装って土方へと話しかける。
「雨、急に降り出したな」
「ああ」
 短い返事。それでもめげずに会話を続けようと思い試みる。
「朝は晴れてたから油断するよなァ。何のフェイントですかってんだ」
「そうだな」
 相変わらず素っ気ないけれど、一応ちゃんと言葉を返してはくれる。それに、口調には拒絶の色は滲んでいない。ひとまずそっと胸を撫で下ろした。どうやら嫌がられてはいないらしい。
「つーかお前、びしょ濡れじゃん」
 よくよく見ると、土方の着た隊服はところどころ色が濃くなっていることに気付く。足元にも小さな水溜りが作られているのが見てとれた。
「……あー、まぁな」
 決まり悪そうに呟いた彼は、目を細めつつ雫の滴る前髪を片手で掻き上げる。露わになった白い額を、つ、と水滴が伝っていく。伏せられた長い睫毛の上には、微かな水の粒がきらめいていた。あまりにも絵になるその所作に思わず見惚れてしまう。しばらくぼうっと眺めていたが、ふと我に返って恥ずかしさが込み上げる。惚れているとはいえなんだか妙に居た堪れない。銀時はふるふると頭を振ってその気恥ずかしさを誤魔化した。
 そんな銀時の挙動不審な態度には気付いていないらしい土方は、隊服のジャケットの胸ポケットから煙草を取り出して、それから顔をしかめてチッと舌打ちをした。どうやら雨に濡れて吸える状態ではないらしい。
「……お前そんなに長い間雨に打たれてたの」
 聞いてみると、「……別に大したことねェ」と返された。明らかに嘘であろうその言葉に、強情な彼の性格が滲んでいる。
「嘘つけ、どう見てもびしょ濡れのくせに。何、水も滴る何とやらってか?」
 無駄な意地を張る彼を揶揄ってみると、ふん、と鼻で笑われた。
「テメーは滴ってすらねェな。あ、頭で全部吸収しちまってんのか」
「うるせェ! お前今世界中の天パを敵に回したからな!」
 大声で喚いてみせると、土方はくすくすと楽しげに笑っていた。そんな顔を見てしまっては、もうそれ以上何も言い返せない。銀時は唇を尖らせつつ天パ頭を掻きむしった。惚れるが負けとはこのことだ。
「あーあ、折角懐も暖かくなって良い気分で帰るとこだったのにこんな天気たァな。すっかり水差されちまったぜ、雨だけに」
「上手くねーんだよ」
 もっと笑ってほしくて冗談を言ってみると、にべもなく切り捨てられた。しかし、素っ気なくそう言った土方の口の端は少し上がっている。素直じゃない言葉を返す土方に、今度は銀時が口元を緩める。
「あの傘も置いて来ちまったしさァ、とんだ災難だぜ」
 もっと会話をしたくて何の気なしに呟いたその言葉に、ピクリと土方の肩が揺れた。思いがけない土方の反応に驚いて、思わず土方を見る。
 すると、彼は気まずげにふいっと顔を背けてしまう。どうしたのかと怪訝に思っていると、彼の黒髪から覗く形の良い耳が、ほんのりと赤く染まっていることに気付いた。ドキリ、と心臓が大きく跳ねる。
 おそらく、土方は「傘」という言葉に反応したのだろう。しかし、その理由が分からない。まさか、自分のあの傘に対する扱いや思い入れを知っているわけではあるまいし。決して他の誰にも使わせないし、その上雨の降るたびにあの傘を携えて、年甲斐もなく浮かれながら外に繰り出している、なんて。きっと土方は知らないだろう。
 じゃあなぜ、と悩んでいると、土方がゴホンと咳払いをしてから「そういえば」と言った。
「懐が暖かいとか言ってたけど、お前、仕事帰りか?」
 急な話題転換は気まずさゆえだろう。
「あぁ、そうだよ」
「ふーん、梅雨時は忙しいってのは本当だったんだな」
 妙に感心したような口振りの土方が言う。土方から話を振ってきたのでやはり嫌がられてはいないのだと安心しつつ、前の自分との会話を覚えていてくれたことに胸にじんわりと温かさが広がる。
「おう、まあな。今日は雨樋の修理だった」
「一人で? ガキ達は?」
「あいつらは別の仕事。もう帰ってるとは思うけど」
「そうか」
「副長さんは見廻り中?」
「ああ」
「一人?」
「ん、まぁ……。いつもは二人ずつだが、最近は大した事件もねェから」
「ふーん、お疲れさん」
「おう」
 盛り上がっている訳でも弾んでいる訳でもない、取りとめのない会話。けれども、静かにぽつぽつと交わされる言葉は新鮮で楽しいものである。
 次第に強まる雨のせいだろうか。気が付けば、だんだんと目の前の通りから人影が消えていく。まだ昼過ぎだというのに、閑散とした町並みはまるでいつもとは違って見える。雨にけぶった風景はすっかり白く霞み、どこか淋しさが漂う。向かいの路地の隅でひっそりと咲いている紫陽花も、雨の匂いの立ち込める空気の中で所在無さげに佇んでいる。
 雨音だけが響く不鮮明な景色の中、まるでこの世界にたった二人取り残されたかのように錯覚してしまいそうだ。そんな馬鹿げた錯覚が前に観たSF映画だけのせいでないことは、もう気付いている。
 ちらり、と静かになった隣を見遣る。
 濡れたせいで普段よりペタンコ気味になった黒い髪。それでもなお艶やかさは健在なのだから最早憎らしくなる。俯き気味の頭からすっと伸びる白い首筋。そこを、髪から垂れた雫が微かな線を残しながら流れていく。淡く色気を纏ったその風情に、なんだか見てはいけないものを見たような気になってしまう。どぎまぎと落ち着かなさを感じながら、それでも目が離せなかった。
 その艶やかな黒髪に鼻先を埋めて、滑らかで白い首筋に触れてみたい。
 胸に渦巻く嵐のような衝動を、ぐっと手の平を握り締めて堪える。
「……何だよ」
 そのとき、ちらりと寄越された藍色の瞳の流し目。思わず肩が跳ねた。
「え、何が?」
 声が裏返りそうになりながらも、何とか動揺をひた隠しつつ尋ね返す。
「何見てたんだよ」
「べ、別に何も見てねェし?」
「そうか」
「そうだよ」
 我ながら無茶な誤魔化し方だと思ったけれど、土方はそれ以上言及してくる様子はない。何とかその場を凌げたことに、そっと胸を撫で下ろした。
 下手くそな会話をしている最中も、雨は飽きることなく降り続けている。ポツポツと目の前を落ちていく雨垂れの音も、だんだんと間隔が狭まっているように感じる。
「雨、やまねーなァ」
 ぽつり、と零れた言葉。何気ないその呟きに、土方が振り返る。それから、そっと小さく笑った。
「そうだな」
 そう返された声音は、思いの外柔らかだった。思いがけない反応を寄越すものだから、胸に照れ臭さが湧き上がってくる。
「ほんと、雨、やまねェな」
 ゆっくりと、まるで言い聞かせるように繰り返した土方は、ふっと小さく俯いた。
 伏せた目のせいで、なんだか儚い印象を与える彼の姿。長い睫毛が影を落とす頬は、いつもより白いように感じる。唇も赤みが消えて紫がちだ。やはり雨に濡れているせいだろう。
「お前、唇が紫になってんぞ。寒いんじゃねーの。それともとうとうマヨネーズの吸い過ぎによる副作用でも出てきたか?」
 心配している本心を、軽口に溶かしこんで尋ねてみる。
「アホか、マヨに副作用なんてある訳ねェだろ。……別に、これくらい何でもねェ」
 一瞬呆れたような顔をした土方は、すぐにふいと顔を背けてしまう。
 「何ともない」という言葉も、その仕草も、強がりだとは分かっている。
 けれど、それ以上心配するための言葉も権利も、ただの腐れ縁でしかない自分は持っていない。背けられた顔を覗き込むことも、ましてこっちを向け、と肩に触れるために手を伸ばすことも、できやしないのだ。そっと前に向き直る。
 より一層、雨音が大きくなった気がした。
「つーかさ、お前屯所に電話して迎えに来てもらえば? ケータイとか持ってんだろ?」
 心配を悟られないように普段通りの声音を意識しながら、ずっと気になっていたことを聞いてみる。本当はもっと一緒に雨宿りをしていたかったけれど、どうやらあまり体調が良くないらしい土方をずっとこんなところに居させるわけにはいかない。
「そんな私用のために隊士の公務を妨害することなんざできるわけねェだろ」
 真面目な土方らしい返事。思わず溜め息が洩れる。体調が優れないときくらい、素直に周囲を頼ればいいものを。
「そんなこと言ってる場合かよ。何、本当はケータイ忘れてきたんじゃねーの」
 つい口をついて出た軽口に、彼の肩がピクリと跳ねる。
「え、まさかの図星だった……?」
「……うるせェ」
 雨音にかき消されそうな声量で返される憎まれ口。それはつまり、肯定の意味を表しているのだろう。
「まじでかお前ケータイを携帯しないってどーいうことだよ、ケータイのアイデンティティ崩壊させてんじゃねーか」
「ケータイのアイデンティティって何だよ」
「携帯されることに決まってんだろ。つーかお前、その調子じゃ財布とかも忘れてそうだな」
 流石に馬鹿にすんなと怒られるか、と思いつつ口にした台詞に、土方はまた決まり悪そうに「うるせェ」と呟いた。
「ちょっ、お前、大事なモン全部置いてきてんじゃねーか……つーことは昼飯も食ってねェの?」
「ん、まぁ……でも今日は朝から食欲無かったし……」
 だから別に平気だとか何とかごにょごにょと言い訳のように返す土方に、また溜め息が零れる。朝から食欲が無いということはつまり、朝から調子が悪かったということで。確かに副長という立場上なかなか休めるものではないだろうけれど、それでももっと自分を大切にすることを覚えてほしい。本当に、危なっかしい男だ。
 そのとき、くしゅん、と。うるさいほどに響く雨音の中、不意に聞こえた小さな音。
隣を見ると、先程よりも青ざめた顔で鼻をすすっている。やっぱり大丈夫なんかじゃねェだろ、と胸中で呟いて。
 それから、覚悟を決めた。
「おい、今から走れるか」
「え?」
「お前、ずっとこんなとこでいられねェだろ。送ってくから、帰ェるぞ」
 言いながらベルトと帯を外し長着を脱ぐ。黒いインナーだけの格好は思いの外肌寒かったけれど、そんなことはどうだっていい。
「送るったって、ここから屯所と万事屋は方向が真逆だろ?」
「大丈夫だよそんくらい」
 バサリ、と脱いだ白い長着を頭からかぶり、その中に呆気にとられている土方を引き込む。
「お前、これ……」
「あー、そんなに厚い生地じゃねーけど、ちょっとは傘代わりになるだろ」
「……いいのかよ」
「いいよ」
 お前の傘になれるなら。
 素直に頼ることができない、不器用で危なっかしい男。だからこそ、その背中を目で追ってしまう。ただの腐れ縁だとか心配する資格が無いとか、結局そんなことは忘れて手を伸ばしてしまう。
 いつだってそうだ。
 これまでも。
 そしてきっと、これからも。
「走るぞ、ちゃんと着いて来いよ」
 肩が触れるほど側にいる土方にそう告げて、軒下を飛び出す。
 相変わらず雨は降り続けている。暫くやむことはないだろう。
 長着を掲げるために両腕を上に挙げた格好はなかなか走りづらいけれど、本調子でない土方のペースに合わせるには丁度良かった。
「やっぱ雨強えな、大丈夫か」
 走りながら右脇の辺りにいる土方に声をかけると、「あぁ」と返される。しかし、通常の彼の足の速さに比べると走るスピードは随分と遅い。無理しやがって、と眉をしかめる。また一段ペースを落とす。
 かぶった長着の外側、視界の隅では、人気もなく鈍色に沈んだ町並みが流れていく。一息吸うごとに湿った雨の匂いが肺へと染み込む。足を踏み出す度に冷たい濁りが足元で跳ねる。薄い布一枚では凌ぎきれずにじわりと浸み出した滴が、腕を、頬を伝う。
 また隣からくしゃみが聞こえる。控えめなその音が、何より大きく響く。はやく、はやく。気だけが急く。濡れた顔をぐいと手の甲で拭う。
「大丈夫か」
 もう一度尋ねたちょうどそのとき、土方がふらりとよろけた。咄嗟に腰を抱きとめる。その触れた箇所があまりに冷たくて、不意に抱きとめた手に力が籠もる。
 片手を離したことで支えを失いダラリと垂れ下がった長着が彼の黒髪を覆い隠す。表情の見えないまま、くぐもった声が返された。
「……ああ、大丈夫だ」
「うそつけ」
 普段の土方なら考えられない、漂うような力無い声音で告げられた言葉を一蹴する。
「肩に手ぇ回しとけ、そんで長着の端っこ掴んで」
 抱きとめたままの腰を支え直しつつそう言うと、土方はおずおずといった風に従う。その間も、しきりに雨は降り注いでいる。
「また走るぞ」
 こくん、と頷いたのを見て再び駆け出す。
 しばらく無言で走り続けた末に、ようやく屯所の門が見えてきた。雨の中にありつつもなお厳めしいそれを、躊躇わずくぐり抜ける。
 玄関に入ったところで、ちょうど近藤と鉢合わせた。
「アレ、万事屋? どうした、つーか何その白いの?」
「届けモンだ」
 白い長着に包まれたままになっていた土方を引っ張り出し、近藤へと押し遣る。
「え、トシ?」
「近藤さん」
 突然現れた土方の姿に近藤が目を丸くする。
「調子悪いクセに巡回して、雨に降られて立ち往生してたから連れてきた」
「ちがっ……」
 きっと土方は自分の体調のことなんて隠しておくつもりだったのだろう。ましてや、近藤が相手なら尚更だ。だからこそ、銀時はそれを告げたのだ。
 必死に否定しようとする土方の頭を近藤が優しくぽんぽんとたたく。それから、銀時へと向き直り困ったように笑った。
「……ありがとな」
「おう。……そいつ、体が冷えきってる。早く風呂でも入れてやれ」
「……うん、そうだな」
 銀時の言葉に近藤は一瞬不意を突かれたような顔をしたけれど、すぐにまた柔らかな笑みに戻り頷いた。その表情に、なんだか柄にもないことを言った自覚が込み上げてくる。むずむずと居た堪れないような気分になり、びしょ濡れになった頭を掻く。
 おーいザキー風呂ってもう沸いてるよなー、などと廊下の先へ向かって呼びかける近藤の声を聞きつつ、銀時はくるりと踵を返した。
「おい」
 そのとき、背中にかけられた控えめな声。
 首だけで小さく振り返ると、土方が真っ直ぐに銀時を見ていた。
「その、……助かった」
 思いがけない素直な言葉。はっきりと、真っ直ぐに伝えられたそれに、胸の中にじわりと温かさが広がっていく。冷たかったはずの指先が、頬が、ゆっくりと熱を帯びていくのが分かる。
「おう」
 やっとのことでその一言を絞り出し、背を向ける。
「お前も風呂、入っていけよ。風邪ひいちまう」
「いや、どうせ帰るのにまた濡れるし」
「え、でも……」
「大丈夫だから」
 食い下がろうとする土方を強引に言いくるめ、素早くその場から立ち去った。
 屯所を後にして、まだ雨のやまない帰り道を走る。来たときよりも、ずっと速く。もつれそうになる脚を必死で動かす。
 地を打つ騒がしい雨音よりも、自分の胸の鼓動が大きく響いている。降り続ける雨に濡れる頬は、それでもなお熱を失くさない。
 それが、ただ走っているせいだけでないことは、分かっている。
 そっと右手を開いて見る。さっき、土方を支えた手。土方に、触れた手。冷たかったはずなのに、なぜか温もりが残っているようだった。その微かな熱が流れていってしまわないように、ぎゅ、と手の平を握り締める。
 すぐに帰って正解だった。あと、少しでも側にいたらきっと抑えきれなかっただろう。胸の奥に溜まった想いが、残らずすべて溢れだしてしまっていたに違いない。
 灰色に濁った空の下、銀時のついた小さな溜め息だけが静かに溶けていった。
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