雨をかぞえる君のとなり
ぴちゃり、と鼻先に感じた冷たい感触。手をやると、案の定指に雫が付いた。顔を上げると一つ、二つと水の粒が空から落ちてきて、たちまち地面の色を濃く変えてゆく。
とうとう降りだしやがったか。
薄暗い雲に覆われた空を見上げ、銀時は思い切り顔をしかめた。
閑古鳥の鳴く万事屋には今日も依頼は無く。なけなしの金を少しでも増やせられたらと向かったパチンコ屋でもツキは来ず。店に来たときよりもむしろ軽くなった財布を片手に、また子供達にどやされる、と憂鬱な気分で帰路についたところで、この雨である。
こんなときに限って結野アナの天気予報を見逃していたので、当然傘など持っているはずもなかった。空から止め処なく降り注ぐ雨粒をその天パ頭で受け止めるしかない。
まさに踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂。ひっきりなしに降り続く雨は、沈み込んだ銀時の心を代弁するかのようであった。
とにかく、道の真ん中でずっと突っ立っている訳にもいかない。万事屋まで走って帰るには無理がある距離だし、どこか雨宿り出来そうな場所を探してきょろきょろと辺りを見回す。そう言えば、確かそこの路地裏を抜けた辺りに空き家があったはずだ。そこの軒下であれば、誰にも迷惑をかけることなく雨宿りが出来るだろう。
そう考え、銀時は思い浮かべた目的地へと水を蹴りながら走る。きちんと天気予報を見ていたのだろう、道行く人達は慌てる様子もなく傘をさし、素知らぬ顔で通り過ぎてゆく。なんだか妙に惨めな気分だ。心なしか、雨脚も段々と強くなってきている気がする。布越しに冷たい水粒の感触をうけながら、今日の自分の不運を呪いチッと舌打ちを一つ零した。
やっと古びた空き家の軒下に着いた頃には、流雲模様の着物はすっかり水を吸ってしまっていた。それは髪も例外ではなく、しっとりと水気を含んだ頭はいつもより何割か増しで膨らんでいる。ふるふると犬のように頭を振って滴を飛ばそうと試みるものの、余計にもこもこと膨らみが増してしまった。
はぁ、と小さく息を吐いた後、どんよりと滲んだ灰色の空を見上げる。細い線を尾のように引きながら降る雨粒は、まだまだやむ気配はない。しばらくはここに留まることになりそうだ。銀時は、今度は深く溜め息をついた。軒下の隅の方では、まだ蕾の紫陽花が葉に水を受けながら心許なく揺れている。
頭上の庇を打つ雨のさざめきに、雨樋から滴り落ちる水の澄んだ音が混じる。そんな小さな音さえ鮮明に聞こえるほど、目の前の通りには人の気配がない。雨に沈んだ町には、ひっそりとした淋しさが漂っている。
まるで自分一人だけ別の世界に飛ばされたような心地だ。そんな考えが脳裏に浮かび、その子供のような考えが気恥ずかしくて誤魔化すように頭を掻く。昨日の夜に神楽とSF映画を見たから、きっとその影響だろう。
そう言えば洗濯物を干しっぱなしにしていたが、万事屋には新八がいるはずだからきっと取り込んでくれているだろう。神楽は、久しぶりの雨に喜び勇んで出かけて行ったかもしれない。傘をクルクルと回しながら嬉しそうに散歩する様子が目に浮かぶ。
足元の小石をブーツの先で転がし弄びながら、取り留めのないことをつらつらと考える。あぁ、パチンコに行っていたとき、あそこで打つのを止めときゃ勝てたかもしれない。そしたらこんな雨に打たれることもなかっただろう。やっぱり結野アナの天気予報を見逃したところからツイていなかったのだ、今日は。今更そんな事を考えても仕方ないけれど、それでもグダグダと頭の中で言葉を連ねていく。と言うより、他にする事が無いのだ。
足先で弄っていた石ころも、いつの間にかぬかるんだ地面に埋まってしまっていた。完全な手持ち無沙汰である。ぐるりと周りを見回すも、さっきから大して代わり映えのない、静かな町並みが広がるだけだ。
何となく、また空を眺めてみる。
濁った色の雲が立ち込めた、暗い空。
昔は、この重苦しい鈍色の空が好きではなかった。
護ろうとした手の平から全てが零れ落ちていった日。あの日の空も、こんな色をしていた。なくしたものたちの真ん中、なす術も無く空を見上げるしかなかったあのとき。耳を伝う雫の感触。濡れた頬に感じる冷たい空気。それらは、いまだはっきりと脳に焼き付いたままで。どれほどの時が流れようとも、忘れることなどできない。
けれど、今は。
この町に来て、アイツらと出会って、雨が連れてくるのは嫌なものだけじゃないと知った。一つの傘に無理やり三人で入る温かさ。暗い空に気分が沈んでいるとき、心配そうな顔をする人がいるくすぐったさ。黙って側にいて、寄り添ってくれる優しさ。全部、この町に降る雨が連れてきたものだ。
だから、重そうに立ち込めた黒い雲も、濡れた土の匂いも、冷たい雫の感触も。昔なら叫び出したくなるほど、逃げ出したくなるほど嫌いだったそれらも、それほど苦手ではなくなった。
とは言え、やはり雨よりは太陽の出た明るい青空の方が良いに決まっている。早く晴れねーかな、と銀時は空を見つめながら一人小さく呟いた。
するとそのとき、目の前の通りの向こうから誰かが歩いてくる気配を感じた。Tシャツが濡れてスケスケになった姉ちゃんなら良いなぁ、などと淡い期待を抱きつつそちらへ目を遣る。しかしその傘をさした二つの黒い人影は、恐らく男であろう大きさであった。銀時は心のうちで密かに舌打ちを零した。濡れた野郎なんてむさ苦しいもの、見たくもない。さっきの期待を返してほしいくらいだ。自分もびしょびしょに濡れていることを棚に上げ、その二つの人影を睨みつける。
そのとき、人影の一人の顔が傘からちらりと覗いた。途端、先ほど落胆したのが嘘であるかのように、大きく心臓が跳ね上がった。それは、本心では服の透けた姉ちゃんよりも会いたいと願っていた人で。
つまり、銀時の密かな片恋の相手、だったのである。
段々と近付いて来る彼らに心臓がドキドキとうるさく音をたてるが、そんな動揺をひた隠し冷静を装う。相手にとって、自分はただの腐れ縁のいけ好かない男であろうことは分かっている。だから、この想いがバレてしまう訳にはいかないのだ。ただ姿を見かけるだけで浮き立って、それでいてちりりと切なさが滲むような、こんな想いは。
「アレ、そこにいるの万事屋か? どうしたんだこんな所で」
こちらに気付いて声をかけてきたのは目当ての人物ではなく、その隣を歩くゴリラ、もとい近藤であった。心底不思議そうに尋ねてくる声に、銀時は不快感を隠そうともせずにチッと舌打ちをした。
「……見たら分かんだろ。雨宿りだよ雨宿り」
「え、お前傘持たずに出掛けたの?! 降水確率百パーセントって言ってたじゃん!」
「うるせーな、見てなかったんだよ悪かったな!」
自分でも嫌というほど身に染みているミスを他人から指摘されるのは、全くもって良い気がしない。
「つーかお前らこそ何してんの? こんな雨の中楽しくお散歩ですかァ?」
悔し紛れに、ずっと近藤の隣でだんまりを決め込んでいた目当ての人物に言ってみる。すると、素知らぬ顔でそっぽを向いていた男、土方はその端正な顔に青筋を浮かべて振り向いた。
「あ? 見りゃ分かんだろ、巡回中だ腐れ天パ」
予想通りの反応だった。眉間に皺を寄せて不機嫌な声音で、棘のある言葉を返される。それでも、自分の言葉や態度に反応を返してくる様が面白くて、嬉しい。その深い藍色の瞳にもっと自分を映してほしくなる。
そんな訳で、この男といるときはいつも、わざと怒らせるようなことを言って揶揄ってしまう。折角得られた言葉を交わす機会を、自分で台無しにしてしまうのだ。
本当は穏やかに会話してみたいし、出来れば笑いかけてほしい。時折仲間達に見せるような柔らかい笑顔を、自分にも向けてほしい。
けれど、ずっと気に食わない腐れ縁としての関係を続けてきたのだ、その意地やらで今更態度を改めるのは容易ではない。また、揶揄って怒らせる以外にこっちに目を向けさせる方法なんて分からない。
だから毎回ちょっかいをかけてはくだらない喧嘩を繰り広げることになってしまうのだ。飽きずに繰り返される言葉の応酬は止まるところを知らない。今日もまた、相変わらずの関係は進歩しないままだ。
「あ、巡回だったのそれ。あまりにチンタラ歩いてるから暇な税金泥棒のお散歩かと思ったわ」
「いや、年がら年中ダラダラしてるようなプー太郎にだけは暇とか言われたくねーんだけど」
形の良い眉を寄せながらこちらを睨む土方に、今度は銀時の額に青筋が浮かんだ。
「は、そこのゴリラだって毎日毎日飽きもせずにメスゴリラのケツ追っ掛けてんだろーが! あれは暇とは言わないんですかァ!」
「このゴリラはいいんだよ、締めるときはちゃんと締めるから」
「それを言うなら銀さんだっていざというときはちゃんとキラめいてますけど! 」
当たり前のように近藤を庇う土方の態度が面白くなくて、つい声を荒げる。
「て言うかトシ、俺のことゴリラって言ったよね、否定するどころかむしろ肯定しちゃったよね」
さめざめと両手で顔を覆う近藤に、土方は「すまねぇ言葉の綾だよ。近藤さんはゴリラじゃねーよ、限りなくゴリラに近いだけだ」と、優しく背中をさすりながらフォローにならないフォローを入れる。そんな様子にも、銀時の心はまた小さなさざ波を立てるのだった。
「つーかお前、本当は傘買う金も無かっただけなんじゃねーの?」
近藤の背中に手を回したまま、土方がニヤリと片頬を上げて言う。その棘のある言葉に思わずカッとなる。後ろに聞こえる雨音に負けないよう、声を荒げて言い返す。
「はぁ? 天気予報見忘れだけだってさっき言っただろうが、雨で頭でもおかしくなったんですかァ?」
「いや、雨で頭おかしくなってんのはお前だろ。何だその頭、爆発してんぞ」
「うるっせェェェェ!!! お前に天パの苦しみが分かって堪るかこのペッタリヘアーが! そのV字前髪斬り落とすぞ!」
「んだとテメー!」
またいつも通りの喧嘩。不機嫌そうな土方の顔。
折角会えても、くだらない言葉の応酬だけで終わってしまう。こんなんじゃ、笑わせる事なんて到底できるはずがない。
なかなか変えられない自分の性格や喧嘩ばかりの関係がもどかしくて、ぎゅっと手の平を握り締めた。
こんな思いをするくらいなら、喧嘩なんか早く切り上げてしまった方が良い。顔を合わせないようにしてしまえばいい。幸いコイツらは傘を持っているのだから、奪うなり何なりしてさっさと家に帰ってしまおう。
そう考え、頭の後ろを掻きながらさもウンザリといった風を装って口を開いた。
「つーかお前ら、腐っても警察だろ? 困ってる市民を傘に入れてやるくらいはしてもいいんじゃねーの」
言ってしまってから、はたと気付く。今、自分は『傘に入れろ』と言わなかったか? それはつまり、相合傘をしたいということになる。つい本音が出てしまったが、普通気に食わない相手にそんな事は言わないだろう。
まさか、自分の秘めた想いに土方は気付いてしまっただろうか。
内心で滝のように冷や汗をかく銀時をよそに、土方は思い切り不服そうな表情である。
「はぁ? 冗談じゃねー、何でテメーなんか……」
「まぁまぁトシ、万事屋も困ってるみたいだし、傘くらいいいだろ」
横から口を挟みつつ、近藤が朗らかに笑っている。その表情に弱いらしい土方は観念したようにこちらを振り返った。
「チッ……、ほら」
軽く傘を持ち上げながら告げられた言葉に、動揺を隠せない。
何だ、その仕草は。彼の仕草の意味が汲み取れず、頭が真っ白になる。もしかして傘入れってこと?相合傘オッケーのサイン? 自分が言い出したことではあるけれど……本当に、いいのだろうか?
土方の顔を凝視したまま固まってしまっていると、土方が不機嫌そうに声をかけてくる。
「おい、何してんだ。早くしろよ」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が大きく音をたて始める。もう一切雨音なんて聞こえなかった。
相合傘、土方が、してくれるって。
そのことだけが頭の中をぐるぐると回る。信じられない、やっぱり今日はツイている日だったようだ。喧嘩してしまったけれど、土方と一つ傘の下に入れるなんて。
頭はあまりの幸福感でフワフワしているが、体の反応は早い。土方の気が変わらないうちに、と土方の持つ黒い傘の中にスルリと滑り込んだ。
そのとき、銀時の方に僅かに傘を傾けているため濡れてしまった土方の肩が目に入った。銀時を傘に入れるため、自らを濡らしている土方。
その瞬間なんだかよく分からない感情が込み上げてくる。切ないような、愛しいような、複雑な感情がきゅうっと胸を締めつける。
銀時は差し出された傘を土方の手からそっと奪い、それを一つ傘の下にいる土方の方に傾けた。彼が濡れる事がないように。そして少しばかりキメ顔を作り、彼の反応を窺うように隣を見遣る。
だが、その行為は全くの無駄であった。
なぜなら。
「…………土方くん土方くん、何で近藤の傘に入ってんの?」
「は? お前に傘貸してんだから当たり前だろ」
「……え?」
予想外の言葉と行動に頭が真っ白になる。今手にしている傘には、銀時ひとりで。近藤の傘には、近藤と土方が寄り添いあっていて。つまり、結局土方との相合傘はないということで。紳士的な振る舞いもキメ顔も、全くの無駄であったということである。
またもやピシリと固まってしまった銀時に怪訝そうな表情をしながら、土方が言う。
「あ、それ組の支給品の傘だからちゃんと返せよ」
「じゃあな、万事屋。お前も風邪ひかないように早く帰れよ」
いまだ頭がフリーズしたままの銀時に背を向けて二人は歩きだす。一つの傘の下で身を寄せ合う姿は、まさに仲睦まじいものであった。
「いやー、こうやってトシと相合傘してると武州でいた頃を思い出すなぁ」
「何言ってんだ近藤さん。アンタが飲みに行って潰された日もこうやって迎えに行ってやってんだろ」
「そうだったな、いつもスマンなぁトシ!」
あははは、と楽しそうな笑い声と共に小さくなっていく二つの黒い背中。
それを見送るしかない、ひとり残された銀時の背中。どんよりと哀愁を漂わせながら、ぽつりと呟く。
「やだコレ、何この敗北感……」
雨はまだ、やみそうになかった。