marginal room
分かち合っていた熱がそれぞれの体へと戻ったとき、土方はすでに指一本動かす気力さえなかった。
ひとりぶんだけになった熱が急速に冷めていくのを感じながら、青色吐息を繰り返す。先程せっかく清めた体は再びどろどろになってしまった。泥のようにシーツにへばり付いてしまった体は、起き上がることさえ許さない。酷い倦怠感だ。もう瞬きすらも億劫だ。
焦点が合わせにくい、滲んだ視界のまま茫然とベッドに転がっていると、不意に銀時と目が合った。ぼやけた視界の中、彼の瞳の色だけがはっきりと目に映る。その深い赤が、そっと細められた。見慣れた意地の悪い笑みではなく、どこか寂しげで、自嘲にさえ見える表情。目を離すことができなかった。
身じろぎさえできずにいると、彼の腕がすっと伸びてきた。既視感のある、その仕草。また髪を搔きあげられる、と思ったが、その手は額には触れなかった。伸ばされた手は目許に触れ、優しい手つきでするりと撫でなれる。先程まで流していた涙のすじが、彼の節ばった指に拭われる。濡れた指先がゆっくりと遠ざかっていく。ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたようだ。胸の奥が鈍く痛む。殊更に優しく触れた手を、拒絶することもできないまま、ただ見つめているしかなかった。
「……これで、出られるようになってんだろ」
言い聞かせるように呟かれた声は、ほんの少しだけ掠れていた。何か返事をしようとして、けれど上手く声が出なかった。
黙ったままの土方に背を向けた銀時は、ベッドの下に脱ぎ捨てられていた下着を身につけ、長着を羽織る。それから、ゆっくりとベッドから下りていく。ギシリ、と不安げな音を立てたベッドに、土方一人が取り残された。恐らくドアへと向かっているのであろう銀時の後を追おうと思ったけれど、鈍い痛みのせいで、ベッドに放っていた長着を羽織るのが精一杯だった。まだ歩くには骨が折れる。仕方なく彼の白い背中を目だけで追う。
ゆるゆると歩いていた銀時は、ドアの前へと辿り着くと大きく肩を上下させた。深呼吸しているのだろう。その張り詰めた空気が伝わってくるようで、土方も思わず息を飲む。
銀時の手の平が挿しっぱなしにしていた鍵を包む。そして、ゆっくりと鍵を回そうとする、が。
やはり、鍵は回らない。先程と同じで、びくともしていないのが遠くからでもよく見えた。
ドアは、開かないままだった。
「何なんだよ!」
いつの間にか叫んでいた。体に纏わりつく気怠さも忘れて、勢いのままに体を起こす。ぐちゃぐちゃになった感情が、ぶつけられる的を探して、理性に象られないまま声となる。
「お前が出られるって言ったからっ……!」
「んなの、俺だって分かんねェよ!」
銀時の鋭い声が、部屋を覆う薄い闇を切り裂いた。なじる土方の声よりも更に大きな声。はっと我に返り銀時を見る。背を向けているから表情は見えない、けれど彼の張りつめるように強張った肩はよく見えた。
確かに、銀時だって同じ状況なのだ。何が起こっているのか、どうすればいいのか分からないのは同じだ。彼を責めても何も変わらないし、解決しない。土方は取り乱してしまったことを恥じた。
とりあえず何か言葉をかけようと口を開く。だが土方が何か言うより先に銀時がぽつりと呟いた。
「まぁでも、俺のせいかも」
「は?」
低く小さな声で呟かれた言葉の意味が分からず、土方は思わず問い返す。すると銀時は、ゆっくりと振り返った。
「ごめんな、土方」
振り返った彼は、小さく眉を寄せて、無理矢理口の端を上げていた。苦しげにすら見える笑み。告げられた言葉の意味も、その表情の意味も分からない。
「万事屋?」
「いや、こっちの話」
淡々とした言葉には拒絶の色が滲んでいる。追及を拒むような響きを感じ取ってしまっては、もうそれ以上問い返すことなどできない。彼は一体、何に謝ったのだろう。胸の奥がざわざわと落ち着かなくて、土方は手の平を握り締める。
しかし、ゆっくりとベッドに戻ってきた銀時は、もういつも通りの表情だった。見慣れた、気の抜けた顔。困惑する土方をよそに、銀時は飄々とした様子で土方の隣に座った。
「今何時くらいなんだろうな」
窓を見遣りながら告げられた声も、その調子も、いつもと何ら変わりがない。さっきの表情も言葉も、一体どういう意味が込められていたのだろう。分からないが、銀時があまりにも何も無かったかのように振る舞うから、問い質すことも躊躇われてしまう。胸に困惑を抱えたまま、彼の調子に合わせるようにいつも通りを装う。
「さぁな」
「窓がアレじゃ、何も分かんねェよなぁ」
銀時の視線を辿るように土方も窓に目を向ける。カーテンを開けっ放しにしていたので磨り硝子の窓はよく見える、しかし肝心の外の様子は何も分からない。というのも、窓の外は暗幕でも張っているかのようにただ真っ黒な景色が広がるだけなのだ。
本来なら、かぶき町のはずれに位置するこのホテルからは町の灯りがよく見える。先程は窓が開かないということに気を取られていたので気付かなかったが、その灯りが一つたりとも見えないのだ。
「普通に時間が進んでいるなら、そろそろ夜明けの頃だろう」
不気味なほどにひたすら黒いだけの窓を眺めつつそう返すと、銀時も頷いた。
「おめーは明日……つーか今日は非番なんだろ?」
「ああ。けど、連絡もしねェまま副長が行方を眩ませるわけにはいかねーだろ」
「そりゃそうだな。……大変だねェ、副長さん」
ごろり、とベッドに寝転んだ銀時は大きな欠伸を零していた。つられるように土方も横になる。
「ま、俺は仕事だから早く帰らねーとアイツらに怒られちまうなァ」
「へぇ、珍しいこともあるんだな」
「失礼だな、銀さん結構あくせく働いてんだぜ?ただ大食らいを二匹抱えてるから素寒貧なだけで」
「そーかよ」
会話だっていつも通りである。だから尚更、先程の表情や言葉の意味を推し量ることができない。ちらりと隣を見遣るも、深い海を思わせるような茫洋とした瞳からは何も読み取ることができない。
いつもそうだ。いつだって、この男の心の内は分からない。こんな関係になってからも、態度は以前と何一つ変わらない。しかし行為の最中はいつも甘ったるい言葉を吐き、へらへらと笑っている。
そんな男だから、この関係を始めた理由も本心も全く分からないのだ。結局、土方はその読めない態度に振り回されるほかない。それが歯痒くて焦れったくて、そしてどこか知らない場所に一人置いていかれたような心地になる。土方は小さく唇を噛んだ。
それに分からないと言えば、この状況である。行為が終わった後に穏やかに会話をすることなど、今までほとんど無かった。毎回、行為が終われば土方はいつもすぐにホテルを後にしていたから、ゆっくりと二人きりで過ごす時間自体が無かったのだ。正確に言うならば、わざとそんな時間を作らないようにしていた。それなのにこんな事態になったせいで、今はつらつらと会話を重ねている。
慣れない空気がなんだか居心地悪い。土方はごろんと寝返りをうち銀時に背を向けた。
「あれ、そっち向いちゃうの」
「べつに俺がどっち向こうが関係ねーだろ」
「えー俺はもっとお前の顔見たいのにィ」
「言ってろ」
ああもう、慣れない空気も会話も落ち着かない。行為の最中であればあまりの余裕の無さから受け流すことができる甘ったるい言葉も、素面であればこんなにも胸がかき乱される。何でこんなことになっちまったんだ。頭を搔きむしりたくなるのを必死で耐える。
とは言うものの、本当のところ、こんな状況を引き起こした原因であろうものに心当たりはあるのだ。ふぅ、と息を吐いた後、土方はそっと目を閉じた。
それは、今日の昼過ぎの出来事であった。
巡回中にふらりと姿を消した沖田への恨み言を零しつつ規定のルートを廻っていたときのこと。ふと、往来の真ん中でゴロツキどもに絡まれている男を発見した。
喧嘩と言うよりも、一方的に因縁をつけられているようであった。どちらも帯刀はしていないが、穏やかに話がつきそうな様子もない。土方はそっと彼らに近づいた。
「オイ、なんか揉め事か?」
白々しい台詞と共に、隊服のポケットから警察手帳を取り出す。それを彼らの目の前に掲げながら刀をチャキリと言わせると、案の定ゴロツキどもは舌打ちを零しつつもあっさりと逃げていった。所詮小物だ、大したストレス発散にもならない。
土方はふん、と鼻を鳴らしてから、残された男に目を遣った。身なりは良いが、気の弱そうな普通の男である。大きな荷物を持っているから、何処ぞから来た旅人だろうと推測する。
「大丈夫か」
声をかけると、俯きがちだった男が顔を上げ、目が合った。気弱そうだとばかり思っていた彼の瞳には、存外に強い光が宿っていた。思わず面食らってしまう。
「はい。ありがとうございます」
礼儀正しくお辞儀をした彼はにこりと笑った。それから荷物を抱え直し、背を向けて去ろうとするも、荷物の重さのせいかぐらりとふらついてしまう。
「おい」
咄嗟に腕を掴んで彼の体を支える。よく見ると顔色が良くない。「すみません」と謝っているが、調子が悪いことは明らかだった。
聞けば時間はあるらしいので、近くの公園まで彼を誘導し木陰のベンチに座らせる。側にあった自動販売機で水を買い、彼に手渡す。二、三口それを飲んだ彼は「すみません、ありがとうございます」ともう何度目かの謝罪と感謝の言葉を口にした。
「こういった人の多い街というものが苦手でして」
ぽりぽりと頭を掻きながら苦笑した彼は、少し顔色が良くなっていた。
「この街は初めてか?」
「はい。でも、明日ここを発つ予定なんです」
「そうか」
しばらくの間ぽつぽつと言葉を交わしているうちに、だんだんと彼の体調は回復してきたらしい。顔色も良くなってきていることに一安心する。
「だいぶ回復しましたし、そろそろ宿に向かおうと思います」
「そうか。まぁ、こんな街だが悪い奴ばかりじゃねェから、また来てもらえると嬉しい」
そう告げながら、銀髪の男とその隣で笑う二人の子供と一匹の犬の後ろ姿を思い浮かべる。
「はは、分かりました。ご迷惑をお掛けしました」
頭を下げる彼に「これも仕事のうちだから」と手を振る。
「お礼と言ってはなんですが……」
そう言った彼は、土方の目をまじまじと見つめた。その真っ直ぐな瞳には澄んだ光が宿っていて、何だか心の底まで全て見透かされそうであった。居心地の悪さを感じて何か声をかけようとしたとき、彼は土方の目の前でパン!と一度手を打ち鳴らした。
「一つだけ願い事が叶うようになるまじないです」
目を丸くする土方に向かって、彼はまたにこりと微笑んでみせた。それからすくっとベンチから腰を上げ、もう一度深々と頭を下げてから去って行ってしまったのだった。
土方は閉じていた目を開けた。いまだ薄暗い部屋の中には何ひとつとして変化が見受けられない。当然のように事態が好転した兆しもない。
そのときは男の言う『まじない』など信じてはいなかったが、今のこの状況を鑑みると本物だったらしい。となると、彼は天人だったのだろう。それならば、この人間の仕業とは思えない事態にも納得がいく。土方は深い溜め息を吐いた。
あの男の「願い事」という言葉を思い出したとき、土方の頭に浮かんだのは『銀時と朝まで過ごしてみたい』というものであった。
土方はいつも、夜が明けてしまう前に部屋を後にしていた。けれど本当は、同じ朝を迎えられたら、と。そう願っていた。しかし、ただの性欲処理の相手にそんな感情を抱いてしまっていることが情けなくて、恥ずかしくて、それに何よりその感情を銀時に悟られるのが怖くて。だから毎回素っ気ない態度をとり、夜と朝の境目が来るまでには部屋から出ていたのである。
だが、『朝までともに過ごしてみたい』という願いを叶えるためにこんな状況になっているのだとしたら、もうドアが開いてもいい頃だろう。この部屋内での時間の経過を考えるともう夜は明けているはずである。それなのにドアは開かない。
それに、窓の外の様子が変わらないように外の世界では時間が止まっているのだとすれば、『朝まで』という前提が壊れてしまう。黒いペンキで塗り潰されたような窓には、いまだ一筋の光も見当たらないのだから。
つまり、彼が叶えようとしている願い事とやらは別のことなのだろうか。
けれど、他に願い事として思い当たるものがない。真選組関係のことであれば願い事とは呼べない。それは自力で切り開き、成し遂げるべきものであり、願い事というよりも目標というべきものだと思っている。それに、銀時とともに閉じ込められたのだから、銀時が関係していることだと考えるのが妥当だろう。
土方がぐるぐると考えを巡らせていると、不意に「なぁ」と背後で声がした。ごろりと寝返りをうって振り返ると、真っ直ぐな赤い瞳と目が合った。
「なんかさ、こうやって二人でゆっくりしてるの、初めてだよな」
「……そうだったか」
興味無さげにはぐらかしてみたものの、本当は銀時の言う通りであることは分かっていた。
「そーだよ。お前、いつもすぐに帰っちまうし」
ぎくり、と肩が強張る。今まで直接銀時にそれを指摘されたことは無かった。
もっと一緒にいたい、という本心が、銀時に伝わってしまったらどうなるのだろう。
いつも早く帰っていた理由を問われたとき、何と返せばいいのか分からない。心に疚しさがあるせいか、手の平には汗が滲む。
すると突然、また銀時の腕が伸ばされる。そろそろと躊躇いがちに伸ばされた手の平が、そっと頬に当てられる。肌に馴染む、優しいぬくもり。
「俺といるの、嫌だった?」
どこか淋しそうにすら聞こえる声で告げられたのは、予想外の言葉であった。
思わず、そうじゃない、本当はもっと傍にいたいのだ、と言おうとして。
はっとした。
あの昼間の男が叶えようとした願い事。それが、『銀時と朝までともに過ごしてみたい』ではなく『銀時ともっと傍にいたい』というものだったとすれば。
そうだとすれば、『朝まで』という制限が無いのだから、いつまで閉じ込められるのか分からない。というより、『もっと』などという不確かな言葉では出られるようになるのかさえ怪しいだろう。
どくん、と心臓が大きく跳ねる。さあっと血の気が引いていく。
まさか、自分のつまらない思いのせいで、この男をこんな狭い部屋に閉じ込めてしまったのだろうか。頬に触れる優しい手の平が、今はひたすらに痛い。
朝になれば、なんてとんだ見当違いで、本当は、ずっとこの男を閉じ込めてしまったのか。
指先が痺れて、感覚がなくなっていく。目の前が暗くなる。
閉じ込めるつもりなんてなかった。
閉じ込めたくなんて、なかったのだ。
目の前の赤い瞳を、真っ直ぐに見つめ返せない。
この優しい手をした男のいるべき場所は、ここじゃない。こんな、うらぶれたホテルの一室なんかじゃないのだ。子ども達二人とデカイ犬一匹が待つ、貧乏くさくともあたたかい家。それがこいつのいるべき場所だ。ふたりきりの世界など、望んでなんかいなかったのに。
ただのいっときでよかった。ただのいっときだけ、傍にいられたらそれでよかった。
閉じ込めたくなかった。
こんなことになるなら、『もっと』なんて望まなかった。
こんな部屋に閉じ込めてしまうくらいなら、これまでと同じ、何の生産性も重要性もない、ただの体だけの関係でよかった。行為が終わればすぐに帰ってしまえるような関係でよかったのに。
「すまねぇ」
思わずぽつりと零してしまう。自分のせいで、自分が不相応なことを望んでしまったせいで、こんなところに閉じ込めてしまうなんて。そんな思いが、後悔が、溢れ出したから。
「……そっか」
掠れた声で返された言葉に、ふと銀時の顔を見る。そこに浮かんでいたのは、寂しそうにすら見える、陰を含んだ小さな笑み。
そして気付く。銀時が、思わず洩らした「すまねぇ」という言葉の意味を勘違いしていることに。恐らく、彼は先程の「俺といるの嫌だった?」という質問に対する答えだと受け取ったのではないか。
違う、そうじゃない、そんなわけない。そう叫びかけて。
口を噤んだ。胸の奥に隠して見ないふりを続けてきた、本当の想いに気付いてしまったから。
そうか。惚れていたのか、銀時に。
気付いてしまった想いに愕然とする。けれど、すべてが腑に落ちるのだ。
何にもならないと分かっていながら、体だけの関係をずるずると続けてしまう理由も。『体だけ』であるのに、体だけでなく心までぜんぶ明け渡している気分になってしまう理由も。最初の夜、しこたま酔った彼の「なぁ、俺、お前なら抱ける気がすんだけど」という戯言を真に受けてしまった理由も。
そして、『もっと傍にいたい』などという、不相応を望んでしまう理由も。
すべて、この目の前の男に惚れているからだったのだ。
見つけてしまった答えに、土方は茫然と目を見開く。まさかこんなときに気付いてしまうなんて。息が苦しくて、何か言葉を捻り出すこともできない。
そんな土方の様子には気付かない銀時は、更に言い募る。
「そりゃお前、いつも早く帰っちまうわけだ」
ふ、と笑うように口の端を小さく上げた銀時は、頬に触れていた手をそっと離していく。
「今まで付き合わせちまって、悪かったな」
冷えた空気が頬を刺す。ひたすらに優しかった手が、ぬくもりが、離れていく。
「もう、終わりにしようや」
「待っ……!」
思わず手を伸ばしかけて。その手で、
彼の手を掴めるはずがなかった。縋れるはずがなかった。
自分のつまらない願いのために、閉じ込めてしまったのだから。
終わっていく関係を、受け入れるしかない。ここで終わらせるしかないのだ。
「……あぁ」
喉の奥から何とか絞り出した声は乾涸びてひび割れていて、今にも粉々になりそうだった。情けねェ声、と自嘲しようとしたけれど、ただの少しだって頬が動くことはなかった。
思い出したように湧いて出た倦怠感が肩にのし掛かってくる。もともと薄暗い部屋が更に暗くなったようだ。
けれど、これでよかったのだ。土方は、背後の銀時に気取られないようごく小さく、息を吐いた。これで、『もっと一緒にいたい』などと願う理由が無くなった。関係は終わったのだから、『もっと』も何も無い。それならばきっと願い事として認められなくなり、まじないも無効になるはずだろう。つまり、この部屋から出られるようになっているはずなのだ。
この部屋から出られる、出してやることができる。いるべき場所へと、帰してやることができる。そう思うと、関係を終わらせたこともつまらない願いを消すことも、何の悔いも未練も残らない。土方は言い聞かせるように胸の中で呟いた。
けれど、ああ、だからこそ。
今一緒に過ごしているこの時間は。この時間だけは、この胸に灯る願いや想いを、大切に抱えていてもいいだろうか。
土方はゆっくりと体を起こし、サイドボードに置いたままであった煙草の箱に手を伸ばした。その手がほんの微かに震えていることに気付き舌打ちしたい気分になる。手こずりながらも煙草を一本取り出して口に咥え、ライターで火を点ける。
この煙草を吸い終わり部屋を出るまでには、燻る想いなどひとつも残らないように、すべて消しておくから。
だから、この煙草を吸い終わるまでの僅かな時間だけは。
味のしない煙草を咥えながら、じりじりと伸びてゆく灰を見つめる。背後の微かな吐息だけは大きく響くものの、銀時の顔を見ることもできない。俯いたまま細く息を吐き出すと、心許ない煙の筋はゆらゆらと揺れながら、暗く沈んだ部屋へと溶けて消えていく。
するとそのとき、ぐい、と煙草を持つ手を引かれた。驚いて後ろを振り返ろうとするも、それより早く肩を掴まれ引き倒される。どさりとベッドへと倒れ込む寸前に手から煙草が抜き取られ、灰皿に押し付けられるのが視界の端に見えた。
「なんのつもりだ!」
のし掛かってくる銀時を睨みつけようとして、茫然とする。目の前にある彼の瞳が、あまりにも苦しげに歪んで見えたから。
「嫌なら、そんな顔してんじゃねぇよ……!」
噛み締めた歯の隙間から洩れ出すような、掠れた声。けれどそこには、はっきりと激情が滲んでいた。逆光だけれど、きつく寄せられた眉も、鋭い光を湛えた瞳も、引き結ばれた口許も、そのどれもが鮮明で。
おまえこそ、なんて顔してんだよ。胸の中で零した言葉は声にはならなかった。
「そうやって、そんな顔するくせに、いつも態度は素っ気ねェし、もうわけ分かんねェんだよ……!」
唸るように呟いた銀時は、乱暴にガシガシと頭を掻き回す。顔の横に置かれた、彼の右手。それが、ほんの微かにではあるけれど、震えていることに気付いた。
はっと胸を突かれる。
「……ほんとうは」
思わず、するりと言葉が零れていた。きゅ、と目を瞑る。
「本当は、朝まで一緒にいてみたかったし、……もっとお前の傍にいたかった、けど」
みっともなく声が震える。溢れ出してしまった、言うつもりのなかった言葉。言ってしまってから、ほんとうはずっとこの言葉を伝えたかったのだと気付いてしまう。取り返しのつかない、不相応で不似合いな言葉だとは分かっているのに。
目の前の赤い瞳が丸く見開かれる。彼が見下ろす自分の顔は、きっと情けない顔をしている。土方は腕で顔を隠した。
けれど、それはすぐに銀時によって引き剥がされてしまう。
「……なぁ、それ、ほんと?」
瞳が、真っ直ぐに土方を射抜く。恐々と、確かめるように問われる。
「それが、本当のお前の想い?」
必死さすら感じさせるような、真剣な視線で見つめられては、誤魔化すことなどできなかった。躊躇いがちに、こくりと小さく頷く。
「じゃあ、何でいつもさっさと帰ってたの?」
問い質す言葉には、はぐらかすことなど許さないような有無を言わさない響きがあった。腹をくくるしかないようだ。土方はごくりと唾を飲み込み、重い口を開く。
「お前に、……情が湧いてるのを、悟られるのが、こ……、悟られたくなかったから」
ああ、言ってしまった。どうしようもないこの想いの存在を、伝えてしまった。しんと静まり返った部屋のなかに響く自分の声が、だんだんと声が小さくなっていく。
土方は銀時の顔を見つめ返すことができず、ふいと顔を逸らした。視界に広がるシーツの白が、やけにくすんで見えた。
「お前は、ただ揶揄ってるだけだって、分かってたのに…………すまねぇな」
「なんだよ、それ……!」
低く呟かれた声。それは、やけに切羽詰まったように響いた。
なんでお前が、そんな声。
わけが分からずにいると、ふと頬に手が触れた。先程の、ひたすらに優しいだけだったのとは違う手の平で、前を向かされる。ぎらぎらとした鮮やかな赤い瞳と、視線が交わる。
「俺が揶揄ってるだけって、何でそうなるんだよ!」
怒気すら滲むような激しい言葉だった。けれどそれでも彼の激情の理由が分からず、土方は小さく首を傾げた。
「違う、のか?」
「当たり前だろ! 本気じゃなかったらあんな抱き方しねーよ! つーかそもそも抱かねーよ!」
吼えるように告げられた言葉。心臓が止まりそうになる。土方は目を見開いた。本気。本気、だったのか。あの言葉も、あの態度も、すべて。今まで過ごしてきた幾たびの夜が、その温度や質感を伴いながらまざまざと脳裏に蘇る。
ずっと抱えてきた認識が覆されたことに、頭の中がごちゃごちゃになりそうだった。思わずまじまじと目の前の瞳を見るも、そこにはほんの少しの嘘も冗談も隠されていない。ただひたすらに真っ直ぐで、真剣な瞳。
銀時の手の平に触れられている頬が、途端に熱く感じられた。
ああ、きっと本気なのだろう。手の平の熱さがあまりにも真摯にそう告げている、けれど。
「……もともと喧嘩ばかりだったし、最初は酒の勢いだし、そんな、本気だと思う方が難しいだろ」
それでも俄かに信じることなどできなくて、もぞもぞと言い訳めいた言葉を連ねる。だがそれは確実に本心であった。
だって、『体だけ』の関係なのだから。
彼が本気であるはずがないと思い込んでいた。その認識は大きな壁として心の中に作り上げられ、自力では壊すことなどできなかったのだ。
そんな土方の言葉に、じれったさを滲ませて銀時が叫ぶ。
「んなの、好きでもねーヤツに可愛いとか綺麗とか言わねーしキスだってしねーだろ! 分かれよ!」
「……分かんねぇよ。好きだって、言われてなかったから」
ぽつりと零すと、銀時ははっとしたように目を見開いた。
ふいと視線が逸らされ、それから気まずげにガシガシと頭を掻く。
「……伝わってるもんだと思ってた。なのに素っ気ないし、でも体は寄越すし、何考えんだろうって、ずっとわからなかった」
拗ねたような口振りを、子供のようだと感じた。
「お前こそ。普段はこんな関係になる前と変わらない態度なのに、抱くときだけ妙に甘ったるくて。何のつもりなんだ、って」
言いながら、されているのと同じように、彼の紅潮した頬に指を這わす。手の平で包むと、すり、と顔を擦りつけてきた。甘えるような仕草に思わず頬が緩む。
「ずっと、お前の本心を分かりてぇって、思ってたよ」
囁くと、銀時はくすぐったそうに笑い、それから困ったみたいに眉を下げた。
「分かりてぇって思うなら、渡されたもんは素直に受け取ってくんない?」
「お前こそ。誤解されたくねぇなら、一番大事なことを言葉にしろよ」
どちらからともなく、くすくすと笑いだす。
随分とまわり道をしてしまった。ただ一言の言葉があれば、ただ少し察しようと努力していれば。
けれど、もう分かったから。
最初は間違えてしまったけれど、これからは。
「土方、好きだ。こんな関係になる前から、ずっと」
「ああ、俺も。お前に惚れてる」
鼻先が触れそうな距離で囁きあう。
やっと心を通いあわせることができた。そんな実感が、ふわりふわりと花が咲くように胸の中を満たしていく。
その時、ガチャリ、と。無機質な、しかし耳馴染みのある音が部屋に響いた。
それは間違いなく、鍵が開いた音だった。
「は、今……鍵、開いた……?」
「行こう」
二人してベッドから飛び降り、バタバタと忙しなくドアへと向かう。ドアをよく見ると、挿しっぱなしにしていた鍵の向きが変わっていることに気付く。部屋番号を記したプレートがゆらゆらと揺れている。もしかして。そんな思いが、小さな泡のように胸に浮かぶ。
恐るおそる手を伸ばした銀時が、ドアノブを握る。それから、ゆっくりとドアノブを回した。
錆びたドアノブは、いとも簡単に角度を変えた。
「なぁ、これ」
「……ああ」
振り返った銀時の瞳には興奮が滲んでいる。自分も同じような目をしていることを、土方も自覚していた。
ドアノブを握る銀時の手に、自分の手を重ねた。
そっと力を込める。
すると、まるで何事も無かったかのように、素直にドアは開いた。
ドアの向こう側に見える、深い緋色の絨毯。数時間前にも見たはずの飾り気のない殺風景な廊下が、ひどく懐かしい。
「え、うそだろ……」
「すげぇ、まじで」
途轍もない安堵が押し寄せ、思わずその場にへたり込んでしまった。大きく息を吐きつつ顔を手の平で覆う。そうしなければ、あまりにも緩みきった顔を晒してしまいそうだった。
「なぁ、他のも」
「ああ」
肩を叩かれ、頷き返す。慌ただしく部屋へと引き返し、あの窓へと駆け寄る。黒一辺倒だった窓の外の景色は、今は柔らかな朝の光に照らされている。窓を開けると朝特有の爽やかに冷えた空気がするりと部屋に入り込んできた。
壁の時計を見遣ると、針が示す時刻は五時半を過ぎた頃であった。携帯電話も、いつもの通りの画面を映すようになっていた。
すべてがもと通りになっている。
それはもちろん素直に嬉しい。しかし、それが何故なのかが分からない。
土方が首を捻っていると、不意に銀時が呟いた。
「願いが、叶ったから、か」
「え」
パッと銀時を振り返る。どうしてそれを彼が知っているのか。驚きのあまり声も出せずに彼を凝視ていると、彼は弁解するように顔の前で手を振った。
「いや、あの、えーと。……これは昨日の夜の話なんだけどさ」
そう言って彼が語り始めたのは、土方にとって予想外のものであった。
要約すると、こうである。
飲み屋で土方と鉢合わせる前、ひとりで杯を重ねていた銀時のもとに喧嘩中と思われる声が聞こえてきた。声のした方を見ると、喧嘩というよりは絡まれているといった状況の旅人風情の男を発見し、生来のお節介を発揮してその場を収めてやったのだという。するとその男にひどく感謝され、また一緒に飲んでいるうちに意気投合して話が弾んだらしい。天人だという彼は、エンパース星という星の出身だと語った。「僕はね、人の考えていることが分かるんです」そう言った彼は、銀時の目をじっと見つめ、「……これは話が早い」と呟いた。そして銀時の目の前でパン、と一度大きく手を打ち鳴らし、「一つだけ願い事が叶うようになるおまじないです」と微笑んだのだという。
「それ、本当か?」
信じられない思いで尋ねると、銀時は気まずげにに頭を掻いて頷いた。
「俺も最初は嘘だと思って信じてなかったんだけど、お前と二人きりで閉じ込められて、ホントなんだって思って」
「なあ、その男って、気弱そうな外見の割に目の光というか力が強くなかったか?」
「ああ、そういえば……、って土方も知ってんの」
「ああ。俺は昼間にその男が絡まれてたのを助けた」
「まじかよ、どんだけ絡まれてるのあの人……」
全くもって同感だ。無事に祖星へと帰れることを祈るばかりである。二人してしみじみと頷き合っていると、「って、そうじゃなくて」と銀時が声を上げた。
「土方もあの人を助けたってことは……」
「ああ。俺も言われたよ、願い事を叶えてやるって」
「まじかぁ……!」
頷くと、銀時は額をパチンと叩いた。驚くのも無理はないだろう。土方だって、まさか銀時も『願い事を叶えてやる』などと言われているなんて思ってもみなかったのだ。
膝の力が抜けたみたいに、よろよろと銀時がベッドに腰掛けた。土方もその隣に座る。
そのまましばらくの間、あーとかうーとか唸っていた銀時は、一度ゴクリと唾を飲み込んだ後に口を開いた。
「閉じ込められたって分かったときに、願い事って何だろうって考えて」
確かに、フロントに電話をかけようとしたが繋がらなかったとき、銀時は何か考えている様子であった。それを思い出しながら、土方は小さく相槌を打つ。
「そしたら、お前と二回目をすることかなって思い当たって、何とか理由をこじつけて実行してみたけど……開かなくて焦ったぜ」
苦笑する銀時に、そう言えばあのときの彼は珍しく取り乱した様子を見せていたな、と思い当たる。そのあとに零された「ごめんな」という言葉も、今ならその意味が分かる。きっと銀時もその後の土方と同じ思いを抱えていたのだろう。自分のせいで相手を閉じ込めてしまったという、罪悪感と焦燥感。
けれど、その後の彼の態度は腑に落ちない。お互いに気持ちを吐露した瞬間にドアが開いたことを考えると、きっと銀時の願い事というのは『付き合うこと』とか、そういった類のものだろう。けれど、土方が関係を終わらそうとしたときには、食い下がったりする様子を見せなかった。願い事を叶えないと出られない、と分かっているならば、それを止めるはずだろう。
「なぁ、お前の願い事って一体何だったんだ?」
いくら考えても答えが分からなくて、首を傾げながら隣の銀時に問いかける。
すると彼は、小さく笑った。
「お前の、ほんとうの気持ちを知ること」
その静かに返された言葉が、じわりと胸を締め付ける。
あのとき銀時は、土方の拒絶こそがほんとうの気持ちだと思い込んだから、手を離したのだ。
『付き合うこと』を願わずに、ただ相手の本心だけを求めて、それが自分の抱えるものと違うならば手放すことすら厭わない。自分の想いすら犠牲にして。
変なところでいじらしいというか、臆病なこの男らしい答えだと思う。もっと早く、与えられていたものに気付けていたならば。土方は強く手の平を握りしめた。
だからこそ、本心を告げられてよかった。心の底からそう思った。
「で、土方の願い事は何だったの?」
顔を覗き込まれて、思わずふいっと目を逸らす。
「……もっと、お前の、そ、傍にいること」
なかなかに小っ恥ずかしいことを言っている自覚はある。だんだんと尻すぼみになっていく声が余計にその気恥ずかしさを際立たせる。隣の男のにやにやと笑う顔が目に浮かぶようだ。
「ふぅん、そっかぁ」
滲ませた喜色を隠そうともしないその声音に、じわじわと顔が熱くなる。
けれど。
「だから、何で開いたのか分かんねェんだ」
ぽつりと零すと、銀時は不思議そうに首を傾げた。
「どういうこと?」
「もっとを願ったから閉じ込められたんだと思った」
続きを促すように視線を送られる。確かにこれだけでは意味が分からないだろう。土方は一度大きく息を吐き、語りだした。
「もっと傍に、なんて願っちまったから。だから、関係を始めたこの部屋に二人きりで閉じ込められたんだって」
そう思い当たったときの恐怖は、鮮明に胸にこびりついている。もう出られるようになったと分かっていても、何となく後ろめたいような思いは消えない。隣の銀時の顔が見られず、俯いて手の平を見つめる。
すると、その手の平に銀時の手が重ねられた。
「たぶん、その『もっと』ってのはさ」
驚いて銀時を見ると、彼はそっと呟いた。
「ただ時間とか距離のことじゃなくて、……心を通わせること、なんじゃねーの」
照れ臭そうに人差し指で頬を掻いた彼は、土方を見てにっと笑った。向けられた言葉と笑顔に、胸の中にあたたかさが広がってゆく。
そうだった。最初から、願っていたことは何ひとつ変わってなどいなかったのだ。
「そうだな」
ぎゅ、と手の平を握り返す。触れ合う熱はこれまでより更に優しく、分け合う温度はこれまでより遥かにあたたかかった。
この部屋から始まった、歪で不確かな関係。それはまたこの部屋で、意味のある、大切で確実な関係へと、新しく結び直された。
「さ、そろそろ出ようぜ」
「ああ」
傍にあるぬくもりを、傍にいられる喜びを噛みしめながら、土方はそっと部屋の外へと足を踏み出す。
扉の閉まる音が、優しく響いた。
おしまい