ねこの愛の示しかた


 翌日、窓から射し込んだ細い光の筋に、そっと目を開ける。昨日と何も変わらない、柔らかな朝日。音を立てないよう静かに起き上がる。隣の布団はまだこんもりとしていて、寝息とともに微かに上下している。まだ朝と呼ぶには早すぎる時間だから、起こす必要もないだろう。ぼんやりと見つめていると、布団から少しだけ覗く頭から猫耳が消えていることに気付いた。昨日までは激しく存在を主張していたクセに、何とも呆気ないものだ。今は見えないが、きっと尻尾も、そして猫の性質も綺麗さっぱり無くなっているのだろう。
 つまり、彼は屯所に帰っていく。
 万事屋のなか、いつもの風景に土方がいることを楽しんでいたのも事実だ。けれど、もうこれ以上は耐えられなかったのも事実で。心のどこかで安堵している自分に気付き、少しだけ苦笑が洩れた。
 二度寝する気分にもなれず、もぞもぞと布団から這い出る。そのまま欠伸をしつつ台所へ行き朝食作りに取り掛かる。

 味噌汁の香ばしい匂いが漂い始める頃、着替えを済ませた土方が台所へとやって来た。いつもの隊服をカッチリと着込んだ彼には、やはり尻尾など見当たらなかった。表情も、心なしか昨日までよりも締まって見える。
「おい、俺の分の朝飯はいらねェ」
「え、もう帰んの」
「あぁ」
 昨晩見せた柔らかな表情など無かったような、普段通りの仏頂面。当たり前だ、これが本当の土方なのだから。
「朝飯くらい食ってけば?」
「いや、どうせこの時間なら屯所の朝飯に間に合う」
「……ふーん」
 フライパンの上に広がる卵を巻く手が止まる。そうだ。彼は帰るのだ。自分の居場所に。
「世話になったな、すまなかった」
「おう、報酬たんまり貰うからな」
「本当がめついのな、この貧乏人」
「うるせ、銀さんこれでも社長だからなコノヤロー」
 ぽんぽんと飛び出る軽口の応酬。けれど、土方の顔が見られない。視線を上げることができないまま、手元の黄色い塊を見つめる。
 すると、耳に届いた、ふっと軽い息の音。背後の気配から伝わる、綻んだ雰囲気。笑ったのか、土方が。
 ぱっと顔を上げて振り返るも、もう既に土方の姿は無くて。玄関から靴を履く音、続いて戸を開けて出ていく音が響く。ピシャリ、と戸が閉じられてからも、台所の入り口をぼんやりと眺める。ふと気が付いたときには、手元の玉子焼きはすっかり焦げ茶色になっていた。
 やがて出勤してきた新八が、ひょこりと台所を覗く。
「あ、土方さん帰られたんですね」
 昨日より一人分減った朝食に気付いたのだろう。
「ああ」
 返した声は、少し掠れていた。

 その後、三人で食卓を囲んだものの、どうにも味気なく感じてしまう。いつものテレビ番組、いつもの騒ぎ声、なのに。
「銀ちゃん、玉子焼きがダークマターになってるヨ。銀ちゃんまでアネゴみたいになったアルカ」
 失敗作の塊を箸でつつきながら、神楽が不思議そうに尋ねる。
「うるせー。ダークマターにはなってねェだろーが、ちょっと茶色っぽくなっただけだろーが」
「人の姉上を引き合いに出すのやめてくれません。それにコレ、ちょっとどころじゃないんですけど全体的に焦げ茶色なんですけど」
「その上なんか硬いネ。銀ちゃんいつの間にレンガなんか焼き上げてたアルカ」
「あーもう、文句言うなら食うんじゃねー」
 いつもなら軽口を叩きながら受け流すのだが、今はそんな気分にもなれない。ドロリとした目を向けると、目の前の新八と神楽はやれやれといったふうに肩を竦めた。
「銀ちゃん、いつもに増して目が死んでるアル。まぁ、トシがいなくなって寂しいのは分かるけど」
「そうですよ。寂しいでしょうけど、もうちょっとシャキッとしてください。今日も仕事あるんだし」
「どうせまた街中で会えるネ。元気出すヨロシ」
「……別にそんなんじゃねーし」
「はいはい」
 誤魔化してみるものの、子供達からの生暖かい視線は止まることがない。何だか決まり悪いし気恥ずかしい。ヤケクソのように、硬い玉子焼きにかぶりついた。
 

 とは言え、いくら気分が乗らなかろうと、新八の言うように仕事はある。それがたったの一件だとしても、いつもは閑古鳥が鳴いている万事屋にとっては貴重な財源である。
 いっそ、朝から晩まで休む暇も無いくらい仕事が入っていればいいのに。土方のことなんて、考える暇も無いほどに。
 そんな思いとは裏腹に、今日入っている依頼は迷い猫探しである。よりによって、猫絡み。仕事に没頭するつもりであったのに、全くもって逆効果だ。
「ほら、銀さんもっとヤル気出してください!」
「そうヨ、むしろ猫と触れ合った方が早く忘れられるかも知れないアル。目には目をってやつアルナ!」
「それ全然違うよ神楽ちゃん」
 子供達にせっつかれながら、重い足を引きずり渋々と仕事に出掛ける。頭上に広がる、鬱々とした気分とは真逆の爽やかな青空さえ恨めしくなる。

 猫探しなんていうものは、可愛らしい仕事のように見えるが案外骨が折れる。高級で珍しい猫ならともかく、今回のような黒猫の場合そこら中に同じような猫がうろついているので目当ての猫を探し出すのも難しい。その上、なんとかその猫を見つけられたとしても、すばしっこく逃げ回られてしまえば捕まえることは更に困難を極める。
 今回も例に漏れず、やはり大変な仕事であった。植え込みの陰、タバコ屋の店先、狭い路地裏。猫の好みそうな場所を手当たり次第に探しながら、あちこちを駆け回り。何とか路地裏の段ボールの傍に蹲っているのを発見した。しかし、じりじりと近づいていき、いざ捕獲しようというところで、パッと逃げられてしまった。それからまた走り回り、鬼ごっこさながらの捕獲劇を繰り広げることとなったのだ。挟み討ち作戦の末にやっと捕まえたものの、全く懐かない猫は腕の中で死にものぐるいで暴れまわる。引っ掻き傷だらけになりながらも、なんとか依頼主の元へと送り届ける。
「ああ、ありがとうございます!」
 無事に帰ってきた愛猫を見た途端、依頼主のおばさんは安堵に顔を綻ばせた。抱えていた黒猫を手渡すと、宝物のように優しく胸に抱き猫の小さな顔にそっと頬を寄せている。黒猫も、さっきまで暴れていたのが嘘のように大人しく抱かれている。
 やはり、飼い主が一番なのだろう。
 分かっていることなのに、じくりと胸が痛む。アイツも同じだろう。自分の居場所が一番に決まっている。
「きっとお散歩してるときに犬にでも追いかけられたのね。それで逃げてるうちに遠くまで行っちゃったのね……怖かったでしょう」
 涙声で言いながら、依頼主は腕の中で丸くなった猫の頭を撫でる。猫の方も目を閉じてされるがままである。
「もう、心配したじゃない」
 そう言った依頼主の声に応えるように、黒猫も嬉しそうにニャーと鳴く。
 そして、依頼主の目を見つめつつ、ゆっくりと瞬きをした。
 その仕草にハッとする。それは、昨晩の土方が見せたものと同じ仕草だ。
「あの、その瞬きって……」
 思わず尋ねてしまった。すると依頼主は、柔らかく、心底嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、これ?これはね、『大好きだよ』って伝えてくれているのよ」
「……え」
 告げられた言葉に頭が真っ白になる。今、何と言っただろう。混乱して、混乱して、やっと意味が分かったときには顔が熱くてたまらなくなって。心臓の音が、耳の中でうるさいほど大きく響いている。だって、そんなこと。本当に?本当、に?
「猫って素っ気なさそうに見えるでしょう?でもね、尻尾や耳の動きや表情を見れば、何を感じていて何を伝えようとしているのかちゃんと分かるわ。そんな小さなサインを、見逃しちゃダメよ」
 依頼主の腕の中に優しく抱かれた黒猫は、いまだ気持ち良さそうにコロコロと喉を鳴らしている。その表情は、昨晩の土方が見せたものと同じではなかっただろうか。
 いや、それだけじゃない。あの甘えた素振りも、妬いたような態度も、気を許した穏やかな表情も。その全てが、土方の心をあらわしていたのだ。それなのに、肝心なことは全部見過ごして否定して、そのくせ真選組の連中に嫉妬なんかして。自分の気持ちは何ひとつ伝えないまま。
 ちゃんと土方は伝えてくれていたのに。

 固まってしまった銀時を見て、依頼主はふっと微笑んだ。
「あら、あなたも瞬きされたことがあるのね。なら、応えてあげなくちゃね」
 黒猫の頭を撫でながら、依頼主が呟いた。その言葉に、小さく頷く。
 いつの間にか震えていた指先をぎゅっと強く握り締める。
 ちゃんと確かめて、伝えたい。
 強い衝動に突き動かされるように、その場から走り出す。
「銀さん、頑張ってくださいね!」
「銀ちゃん、上手くやるアルヨ!」
 背中に投げかけられた子供達の声。色々と恥ずかしいが、気にしている暇はない。がむしゃらに足を動かし続ける。流れる景色の中に凛と伸びた黒い背中を探しながら、とにかく走る。さっきまで猫を探すために走り回っていたのに、また猫を探すことになるとは。
 もっとも、こちらの猫はどこにいるのか見当がつかないため、さっきよりも探し出すのは難しい。屯所に押しかけても追い返されるだけだろうから、土方が今ちょうど見廻りに出ていることを願う。無駄足になろうが、それでも会いたくてたまらなかった。

 行きつけの定食屋、街角のタバコ屋、静かな川の土手道。心当たりのある場所をあちこち探し回る。どれだけ息が上がろうとも、人にぶつかろうとも、がむしゃらに走り続け。そうしてかぶき町中を駆けずり回り、そろそろ足が限界を迎えようとしたころ。
 ようやく捉えられた、土方の姿。賑やかに人の行き交う大通りの真ん中を、平隊士の部下を引き連れて歩いている。やはり見廻りだったのだろう。こちらに気付かないまま背を向けて歩く彼を追いかける。やっとの思いで追いついて、必死にその腕を掴んだ。
 パッと振り返った土方の藍色の瞳を、真っ直ぐに見つめ返す。息も整えず、勢いのままに告げる。
「なぁ、話したいことあるんだけど、いい?」
その藍色が、驚きに見開かれた。当惑した様子に構わず、後ろに控えている部下へと呼びかける。
「ごめん、ちょっと副長さん借りてくぜ」
「はっ!?何言ってやがる!」
  土方はじたばたと暴れだしたので、掴んだ腕を離すことのないようぎゅっと力を込める。すると、銀時の切羽詰まった様子を感じ取ったのか土方は少しだけ大人しくなった。呼びかけられた部下も、突然のことに茫然としながらもコクコクと首を縦に振っている。それを見届けた後、近くの路地裏に土方を連れ込んだ。
「離せ!何のつもりだ!」
 寂れた路地裏に土方の声が響くのも構わず、ぞんざいに積まれたビールケースの脇をすり抜けてずんずんと奥の方へと進む。通りからの喧騒が届かなくなったところで、くるりと土方へ向き直る。
 逃げられないよう両腕を掴み、困惑の表情が浮かんだ顔を覗き込む。
「なぁ、猫ってさ、気まぐれで何考えてんのか分かんねーモンだと思ってたんだけど」
 訝しげに細められた瞳と目を合わせる。
「案外素直だったんだって、思っていいよな?」
 瞬間、土方の顔が赤く染まる。何を指した言葉なのか、ちゃんと分かっているようだ。だったら、あの表情や仕草の意味もきっと。
「何だよ、何の話だよ! ほんと離せって、もう……」
「聞いたんだよ、猫がゆっくり瞬きする意味。だから、お前を探してた」
「っ!」
 ビクリ、と肩を跳ねさせた土方は、それきり俯いてしまう。前髪に遮られてその表情は窺えないが、掴んだ腕から彼が少し震えていることが伝わってきて。ぶわ、と胸の中が熱くなる。
 あぁ、本当に。彼も、同じ想いを。
 右手を土方の頬に添える。触れられなかった、ずっと触れたかった。その優しい柔らかさに、胸が詰まるほど切なくなる。土方が驚いたようにパッと顔を上げた。絡まりあう視線。手の平から伝わる頬の熱。滲んで揺れる藍色の瞳。もう、我慢なんてできなかった。
 意を決して、口を開く。
「なぁ、土方。俺、お前が好き」
 告げた言葉に、土方の頬がサッと赤く染まる。手の平に伝わる熱がたちまち熱くなる。信じられないものを見るような、驚きを堪え切れないといったように瞳が見開かれて、それから。
 それから、くしゃりと歪む。眉を寄せ、何かに堪えるような表情。想いを通合わせた直後とは思えない、苦しげな顔だった。
「……嘘つけよ」
 掠れた声で呟くように落とされた言葉は、自嘲じみた響きで。なぜ、と思っている間に、頬に触れていた右手を土方が掴んで外す。
「俺ァ、猫耳も尻尾もねェ。可愛くもねェし素直でもねェ、ただの男だ」
 今更そんなこと、言われなくても知ってる。そう思ったが、目の前の土方の揺れる瞳の中に。そこに隠された、微かな怯えと諦めに気付いて。
 その原因に思い当たる。
 今朝、一回も土方と目を合わさなかった。いつも通りの姿に戻り、屯所へ帰っていく土方をチラリとも振り返らず、見送りさえしなかった。それを土方は誤解したのではないか。
 猫耳と尻尾が付いていて猫らしい特性を持った、可愛らしい土方だから惚れたのだと。
 堪らず、目の前の身体を抱き締める。抱き寄せた肩は、微かに震えていた。ぎゅっと胸が締め付けられる。
「知ってる。知ってるに決まってんだろ。何年お前だけを見てきたと思ってんだよ」
 耳元でヒュッと小さく土方が息を飲む音がする。構わずに、抱き締める腕に力を込める。抱えている想いの強さ、熱さを、残らず全て届けたい。
「猫耳も尻尾も、猫の特質としての素直さも、そりゃすげぇ可愛かったよ。けど、だから惚れたんじゃねー。他のヤツの猫耳なんか毛ほども興味無くて、お前のだから可愛かったんだよ」
「……じゃあ何で、今朝、全然目も合わさなかったんだ」
 ぽそりと呟かれた言葉に、やはり誤解の原因となっていたのは今朝の態度なのだと思い知る。そりゃあ、猫耳があったときの構いようからすれば随分素っ気ない態度だった自覚はある。だけど、それは。
「それは、……帰っていくお前を見たら、引き留めちまいそうだったから。もっとここにいろよって」
「っ!」
「お前の帰る場所になれる真選組の連中に嫉妬してたんだよ、情けない話だけど」
 気恥ずかしさが込み上げ、ガシガシと頭を掻く。思わず自分の汚い心情を吐露してしまったが、こんなことを言っても土方は困るだけではないか。そう気が付いて、後ろめたさに彼を抱き締める腕を解こうとした、そのとき。
 土方の両腕が、おずおずと背中に回された。控えめに、けれどしっかりと抱き締め返される。まるで、離れるなとでも言うように。
「……猫は成人男性が苦手だって言ったろ。俺、屯所にいたとき、ちょっとキツかった。けどお前のとこでいるときは全然で、……むしろ、安心した」
 訥々と告げられたのは、あまりに嬉しい言葉だった。ドクドクとうるさいほどに心臓が音を立てる。こんなに近くにいるのだから、きっと土方にも伝わっているだろう。けれど、それでもよかった。
 もちろん、真選組が大切なことに変わりはないだろう。それでも、本能的な部分で自分を信頼し、心を許してくれていたというのはやはり嬉しい。傍にいることを、ゆるされたような気持ちになる。
「だから、いっぱい甘えてくれたの?」
 尋ねると、土方はぐっと息を詰まらせた。それからしばらく口を引き結んで逡巡していたようだが、観念したように口が開かれる。
「だって、猫だったし……、悪ィかよ」
 恥ずかしいのか、銀時の肩口に顔を押し付けるようにして俯いてしまった。
「馬鹿、悪いワケあるかよ。すげェ嬉しかった」
「……おう」
「けど、普段の素直じゃねーところも強情なところも承知の上で惚れてっから」
「…………ん」
 顔は見えないけれど、きっと頬は赤く染まっているのだろう。肩に乗せられた小さな頭を手の平で包み込む。片手に収まるほどの頭をそっと撫でると、彼はすん、小さくと鼻を鳴らした。
「土方、好きだよ。だから、お前の気持ちも教えて」
 もう一度、彼の柔らかな頬に触れる。今度は両手でしっかりと包み込んで、真正面から向かい合う。覗き込んだ藍色の瞳は、もう揺れていなかった。
「……俺も、お前が好き」
 真っ直ぐに銀時を見つめ返しながら告げた土方は、恥ずかしそうに、でも幸せそうに目を細めて笑う。ちょうど昨日の夜に見せたのと同じ、穏やかな笑み。それは、紛れもなく銀時だけに向けられた笑顔だった。
 愛しくて、また彼の身体を抱き寄せる。かつて猫耳があった場所を撫でると、彼はその黒い頭をこつんと押し付けてきた。その仕草が嬉しくて、ふっと頬を緩ませる。
 素直じゃないところも好き、なんて言ったけれど、やっぱり猫って案外素直だったんだな。
 胸の中に広がったあたたかな幸せを感じながら、銀時はそっと目を閉じた。




おしまい
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