ねこの愛の示しかた
翌朝目覚めると、まだ隣の布団はこんもりと膨らんでいた。普段の土方ならとっくに起きている時間だろうに。やはり猫はよく寝る生き物なのだと感心してしまう。
窓から射し込む穏やかな日の光が、彼の寝顔を優しく照している。金色に縁取られた、あどけない表情。ふわり、と胸にあたたかいものが広がるのを感じながら、朝食作りのために台所へと向かった。
そのうち新八が出勤してきたので、神楽を起こして四人で食卓を囲む。それから少ないおかずの取り合いをしたり、テレビの内容に茶々を入れたり。その合間に、土方が窘めたり揶揄われたりする声が入り混じる。いつもの騒がしい風景のなかに土方がいる。そのことが、何だかくすぐったい。銀時のそわそわとした気持ちを感じた取ったのか、隣で土方がピク、と耳を動かした。
せっかく万事屋に土方がいるのだ、たくさん同じ時間を過ごしたい。そう思っていたのだけれど、今日も朝から依頼が入っている。いつもは閑古鳥が鳴いているくせに、よりによってこんなときに繁盛するとは。なんとも皮肉なタイミングである。
出掛けるとき、ソファーの上でツンと澄ましている土方に声をかける。
「じゃあ今日も留守番よろしく」
「……案外ちゃんと働いてたんだな、テメーら」
「まぁな。何、見直した?社長って呼んじゃう?社長様を敬っちゃう?」
「フン、せいぜい稼いでこいよ、社長さん」
土方はにやり、と唇の端を吊り上げた。女王様のような高飛車な態度だが、頭の上ではそれに似合わない可愛らしい猫耳がピョコリと飛び出している。
それらの繰り出すアンバランスな魅力に、思わずクラリとしてしまった。俄然ヤル気が満ち溢れてくる。今ならどんな無茶な依頼だってこなすことができそうだ。
「おう、任せとけ! がっぽり稼いでカリカリでも猫缶でもいっぱい買ってきてやらァ!」
「いや、いらねーけど」
「ほら早く行くぞ新八ィ、神楽ァ!」
「上手く乗せられましたね」
「チョロい男アル」
意気揚々と仕事に向かう銀時の後ろで、子供達は呆れたように呟いた。
それから昨日よりも更に気合いを入れて仕事に臨み、テキパキと仕事をこなしていく。その仕事ぶりと言えば、気を良くした依頼人が依頼料を上乗せしてくれるほどであった。太っ腹な依頼人に感謝しつつ、分厚い封筒を懐にしまう。
日も沈みかけ、すっかり夕焼けに染まった帰り道をほくほく顔で歩いていると、隣の新八が小さく溜め息をついた。
「やればできるんですから、いつも頑張ってくださいよ」
「何だよ、テメーは俺の母ちゃんですか。そして俺は珍しく良い点のテストを持ち帰った息子ですか」
「同じようなモンでしょ」
「新八ィ、それは無理アル。ヤル気のある銀ちゃんなんて、ご飯じゃない『ごはんですよ』みたいなものヨ」
「いや、意味分かんねーし。それに『ごはんですよ』はもともとご飯じゃねーよ」
子供達にグチグチと言われるうちに、目に見えるほど張り切っていたことが気恥ずかしくなってくる。これでは自分の気持ちがバレてしまうのも時間の問題だ。あまりはしゃぎすぎないようにしよう、と密かに決心する。
しかしそのすぐ後。定春のエサを買うために寄ったスーパーで猫じゃらしのおもちゃを買うかどうかで小一時間悩んでしまい、またもや子供達から冷たい目を向けられることとなったのだが。
「銀ちゃん、今日私がアネゴんとこでお泊まりする日で良かったアルナ」
「はっ?!いや何がァ?別に全然何もカンケーねーしィ?!」
「全くもって誤魔化せてませんよ」
「目がバタフライ並みに泳いでるアル」
余計に冷たい視線を浴びる結果となった。
そのまま恒道館へと帰っていく二人と別れ、一人万事屋への道を辿る。いつも通り、を心掛けているはずなのに自然と歩調は速くなる。手にしたビニール袋から先ほど買った猫じゃらしが覗き、思わず口元が緩んでしまった。
浮き立つ心を抑えつつ、ようやく辿り着いた玄関の戸を開く。
「ただいま」
すると、奥の居間から尻尾をピンと立てた土方がやって来た。昨日は無かったお出迎えに、じわっと嬉しさが込み上げる。
「おかえり。割と長かったのな」
「あぁ、まぁな。どーした、寂しかった?」
「ふん、馬鹿言え」
憎まれ口を叩きながらも、尻尾と耳はピクリと揺れて反応を示している。案外図星だったのかもしれない。ニヤケそうになるのを堪えながら、素っ気なく居間に戻っていく土方の後を追いかける。
「ほら、機嫌なおせよ。コレで遊んでやるから」
袋から猫じゃらしを取り出す。すると、パッと土方の目の色が変わった。もともと開き気味の瞳孔がさらに大きくなっている。
「なっ、人を何だと思ってやがる! そんなモンで、遊ぶワケ……」
憤慨しながらも、目はしっかりと猫じゃらしの動きを追っている。今は必死に耐えているようだが、我慢できなくなるのも時間の問題だろう。
「だから猫だろ。ほら、来いよ」
挑発するようにウリウリと猫じゃらしを顔の前で揺らすと、ようやく飛びついてきた。
瞳をキラキラさせながら必死になって猫じゃらしを追う様子が、何だか仔猫っぽくて可愛らしい。それに土方が動くたびに背後で揺らめく尻尾も可愛らしい。眼福である。仕事の疲れなんか全て吹き飛んでしまうほどだ。
それから時間も忘れて遊び続け、やっとひと段落つく頃には二人ともくたくたになっていた。我を忘れて遊んでいたことに今更恥ずかしくなったのか、土方はそっぽを向いてグルーミングをし始める。そんな様子を微笑ましく思いながら、銀時は夕食の支度へと取り掛かった。
向かい合って夕食を食べた後、ゆったりと人心地ついていると、不意に土方が上の方に視線を走らせた。その視線を辿ってみると、どうやら天井の隅を見ているようだ。どうしたのかと首を傾げたとき、昔聞かされたある話が頭をよぎった。
猫には、人には見えざるものが見えている。
ぞっと背筋が凍る。いやいや、まさか。だって土方は幽霊の類いが苦手だったはずだ。そんな彼が、こんなに冷静に幽霊を見つめていられるはずがない。うん、絶対違う。いくら頭で否定してみても、滝のように流れる冷や汗はとまらない。
ゴクリと唾を飲み込み、意を決して口を開く。
「なあ、土方く〜ん?お前、さっきから何を見てるワケ……?」
恐るおそる尋ねると、土方は訝しげに首を捻った。
「いや、なんか女の声が聞こえるから……」
「は、女の声?どこから?」
「多分、天井裏か……?」
天井裏から女の声?
一瞬ドキリとしたけれど、すぐに思い当たる。
「あぁ、それさっちゃんだわ」
「は? さっちゃんてあの、くノ一の?」
「うん。時々忍び込んでんだよ、忍だけに」
「ふーん……」
土方が気にしていたものの正体が幽霊ではなくただの知り合いだと分かり、ホッと胸を撫で下ろす。彼女の不法侵入はいつものことなので、今更怒ることも追い出すこともない。と言うか、何を言っても何をしてもドエムな彼女を悦ばせるだけなのだから、どうしようもないのだ。
ふと土方を見遣ると、なぜだか彼は大きく尻尾を振っていた。縦にパシッパシッと打ちつけるみたいに。それは機嫌の悪いときの仕草のはずだ。何か彼の気に障るようなことがあっただろうか。
まさか、さっちゃんの進入を黙認していることが気にくわないのだろうか。と言うことはつまり、彼女に嫉妬している?
思い浮かんだその考えを慌てて打ち消す。まさか、あの土方が自分に対してヤキモチを妬くなんて。そんなことあるはずがない。
あまりに片恋の期間が長すぎると、どうにも自分に都合の良い解釈をしてしまいがちになる。口元に薄っすらと自嘲じみた笑みを浮かべつつ、銀時はそっと顔を背けた。
胸に抱えた複雑な思いとは裏腹に、時間はつつがなく流れて。何事もなく、一日の終わりが近づいていく。
そうして迎えた就寝前。奥の間へ行くと、先に来ていた土方は来客用の布団の上で、習慣となっている布団揉みをしていた。二人きりの部屋の中に、布団の擦れる音だけが微かに響いている。
土方の動きに合わせてゆらゆらと小さく揺れる尻尾を見つめる。すると、彼の着ている甚平の、尻尾の付け根付近が僅かに汚れていることに気付いた。自分では見えない部分であるので、きっと説明するより払ってやった方が早いだろう。
背後に回り、パン、と尻のあたりを軽く叩いてやる。
「おい、ここ汚れてんぞ」
「あっ!」
すると目の前の身体が大袈裟なほどにビクッと跳ね上がった。それまで緩やかに振られていた尻尾も、途端にピンと高く伸ばされる。思わず、といった風に漏らされた声に、銀時までビックリとしてしまう。
「あっ、ごめん! 痛かったか?」
慌てて土方に尋ねるも、彼はなぜか小さく肩を震わせながら俯いてしまう。そんなに嫌だったかと心配になりつつ、そっと彼の顔を覗き込む。
すると、耳まで真っ赤になった土方と目が合った。驚きと混乱が入り混じる瞳を大きく見開き、口許を手で抑えている。思いがけないその表情に、心臓が大きく高鳴る。
「や、別に、痛くはなかった、けど……」
ふい、と顔を逸らされながら返されたのは、彼らしからぬ歯切れの悪い返事で。痛くないなら、一体どうしたのだろう。見慣れない彼の様子にどぎまぎしつつ頭を捻る。そう言えば、猫じゃらしを買うついでに少し立ち読みした、猫の生態について書かれた本。あれに、『大抵の猫ちゃんは尻尾の付け根を触られるのが好き。中には、つい気持ち良くなっちゃう子もいるほど!』とか何とか書いていたような……。
思い出した途端、かあっと顔に熱が集まる。つまり、さっきの土方は、気持ち良くなっていたのか。俺の手で。俺に、触られて。
「……もしかして、気持ち良かった?」
「っ!」
確信を持っていながらも尋ねたのは、イタズラ心というか、サド心というもので。パッと顔を上げた土方は、眉間に皺を寄せ口を真一文字に引き結んでいる。威嚇しているような表情だが、それでも頬は赤く蒸気していて、恨めしげに睨み上げる瞳には薄っすらと涙の膜が張っていて。
その表情に、ゾワリと背筋が総毛立つ。
「なぁ、返事しろよ」
「……うるせぇんだよ、腐れ天パ」
恥ずかしいのか、悔しいのか。首筋まで赤く染めながら再び俯く姿を見れば、むくむくと嗜虐心が湧き上がってくる。もっと見たい。もっと、触りたい。
もう一度さっきと同じところを叩く。今度はなんとか声は抑えられたようだが、ビク、と跳ねる体は明らかに快感をひろっている。
「おい、やめろっ……!」
背後にいる銀時を振り返って睨みつける瞳に、また興奮がゾワリと背筋を駆け上がる。非難と困惑が込められた視線に構わず、さらにポンポンと叩き続ける。そのリズムに合わせるように、上擦った声が上がる。
「あっ、も、まてっ、ぅあっ!」
抗議の声を上げているものの、合間に喘ぎ声を挟まれていては説得力なんかまるで無い。それに、さっきまで気丈にこちらを睨みつけていた藍色も、すっかり潤んでしまっている。こんな可愛らしい、というかソソる反応をされては止められない。元より、止めるつもりも無いのだけれど。
「んっ、も、やめっ、ぁあっ!」
触れるたび、もっと、とねだるかのように細い腰がどんどん突き出されていく。尻尾も真っ直ぐに伸ばされたままだ。四つん這いで尻だけ高く上げた格好。思わずゴクリと喉が鳴る。
土方は顔を枕に伏せてしまっているため、その表情を窺い知ることはできない。しかし、こちらに向けられた無防備な首筋は、熟れた果実を思わせるほどに赤く染め上げられている。ぎゅっとシーツの端を握り締めた手は、ふるふると震えている。突き上げられた腰から背中にかけてのしなやかなラインも、細切れに上がる普段より高めの声も、何か他のことをしているように錯覚しそうだ。
いいんじゃないか。
その、『他のこと』をしても。
頭の中、どこか奥の方から聞こえる声。ハッとして、目の前の土方を見る。
いいのだろうか。
だって。
だって、ずっとずっと好きだったんだ。もう本当に、ずっと。いつからなんて分からないほど前から。彼だけを。
力尽くで抑えつけ、蓋を閉めて胸の奥に仕舞い込んでいた想いが、ドクリ、ドクリ、と溢れだす。
ゆっくりと、伏せられた顔に手を伸ばす。枕に流れる黒髪の隙間から覗く、熱を帯びた真っ赤な頬。そこに、触れようとして。
そっ、と手を下ろした。
「ごめん」
「……え?」
「調子に乗りすぎたわ」
ぐしゃぐしゃ、と目の前の黒髪をかき回す。
途端に力の抜けた土方は、ぐったりと布団の上に伏せた。ゆっくりと頭をもたげて振り返った彼の、少しだけ充血した瞳と目を合わせる。いまだ潤んだままの藍色に、湧き上がるのは興奮ではなく罪悪感で。
「もう、しねェから」
安心させるみたいに小さく口の端を上げる。もっとも、ちゃんと笑えているかは分からないけれど。歪な表情をしているだろうに、それでもジッとこちらを見つめる土方の視線に耐え切れなくて、目を逸らした。
彼の枕元に置いたままだった右手を、静かに握り締める。
すると、トン、とその手に頭が押し付けられた。小指のあたりに感じる、彼の髪の感触。そしてそのまま、控えめに頭を擦り付けられる。
ああ、もう、本当に。
切なさに息が詰まる。本当に、この男は。人の気も知らないで。こんな、泣きたくなるほど残酷で優しいことを、この男はいとも簡単にやってのけるのだ。
固く結んでいた手をなんとか開き、耳の後ろのあたりを掻いてやる。手は微かに震えていてぎこちないけれど、それでもできるだけ優しく。指先に感じるサラサラとした髪の感触がくすぐったい。なぁお前、もう少しで男に犯されかけてたんだぜ。いいのかよ、そんな男のまえでそんな顔を晒して。そう言ってやりたくなるほど、彼は無邪気に甘えてくる。遣る瀬なくてでも同じくらい嬉しくて、きつく唇を噛み締めた。
やがてコロコロと喉を鳴らし始めた土方は、満足げに目を細めてまた枕に頭を預けた。少し汗ばんだ額に張り付いた前髪をそっと掬ってやる。
そのとき。もぞもぞと首を動かしてこちらを向いた土方が、真っ直ぐな視線を投げかけてきた。そして、こちらを見つめたまま、ゆっくりとした瞬きを繰り返す。まるで何かを、訴えかけるみたいに。
何かの合図だろうか。分からないまま、同じようにゆっくりとした瞬きを返してやる。すると土方は、ふわりと小さく微笑んで目を閉じた。
その後すぐに微かな寝息が聞こえてくる。
あまりにも穏やかで柔らかな、その寝顔。猫の性質によるものだろうとは分かっているのに、それでもなお、胸に広がるのは紛れもなく喜びで。
気に食わない、いけ好かないヤツに見せていい表情じゃないだろ、それ。切なさに少し笑えて、それからくしゃりと歪む。
きっと屯所にいたときは、もっと無防備で穏やかな顔を見せていたに違いない。だって、あそこが彼の居場所なのだから。部外者の自分に対してでさえこの懐きようなのだ、いつも傍にいる彼らが相手ならもっともっと穏やかな、きっと見たこともない表情をしていたに決まっている。
さっき、手を出してしまわないでよかった。心の底からそう思う。
あのまま、想いを隠さず彼に触れていたなら、きっともうこんな無防備な顔は晒してくれなかった。それどころか、次に会ったときは目も合わせてくれなくなっていただろう。いや、避けられて、会うことさえ叶わなくなっていたかも知れない。それは流石に、辛すぎる。
ならば。
いくら部外者だろうと、気にくわない相手だと思われていようとも、顔を合わせられなくなるよりはずっといい。例え、他のヤツにはもっと綺麗なものを見せていようとも。この柔らかな表情が見られなくなるよりは、ずっとずっといい。
彼の居場所にはなれなくとも。
臆病なのは分かっている。けれど。どうしようもなく、本心なのだ。
右手に視線を落とす。さっき、彼の綺麗な黒髪に触れていた右手。指先には、まだ微かに彼のぬくもりが残されている。その熱を逃さないよう、そっと手のひらを結んだ。
すうすうと穏やかな寝息をたてる土方の布団をかけ直す。それから、少し離れたところに敷かれた自分の布団に潜り込み、土方に背を向けて横になる。背後から聞こえる微かな息遣い。目を閉じていても、なかなか眠れなかった。