銀魂BL小説


なんだかいつもより重いな、と思った。

腕に抱えた一クラス分のノートが、今日はやけにズシリと重く感じる。よろよろとふらつきながら、生徒達でごった返した廊下を進んで行く。そして、なんだか脚も重い気がする。脚を持ち上げて前に踏み出す、たったそれだけの単純作業が妙にいつも通りにいかない。
生徒から掛けられる挨拶の声に軽く返事を返しながら、色とりどりのノートの束を持ち直す。
この後、腕の中のこれら全てに今から目を通さないといけない事を考えると憂鬱になる。それが終われば明日の授業の準備をしなければならない。
あ、その前に先輩教師に呼び出されてたから、そちらも行かなければ。
やらなければならない、ぎゅうぎゅうに詰まった予定を思うと頭痛がしてくるほどだ。
教師生活ももう二年目の半ばを過ぎた。まだまだ副担任しか経験していないし一人前とは言えないが、出来る事は増えてきた。
だからか、最近は何かと雑務を押し付けられるようになった。その上一昨日からは担任の教師が風邪を拗らせて欠勤しているから、その分仕事の量も倍近くに増えた。その中には慣れない仕事も多いので、疲労はいつもの倍以上である。早く担任の教師が復活してくれるのを祈るばかりだ。

そして、他にも悩みの種は存在するのだけど。

「あっ、土方せんせー!」

ほら来たやっぱり来やがった。
背後から掛けられた弾んだ声を、聞こえなかったことにしてそのまま脚を動かし続ける。こんな事で気力体力を使いたくないんだ俺は。
「無視とか酷くね?せっかく俺が手伝ってあげようと思って声掛けてんのに」
急に耳元で囁かれた低い声。少しだけ、耳に息がかかる。
思わず肩が跳ねた。さっきの声はだいぶ距離がある所からだったのに、いつの間にこんな近くまで来たのか。
「なっ何しやがる!」
「はは、顔赤くなってる、カワイイ」
突然の事に固まっている俺の手から、ノートの束の半分がスルリと奪われる。そしてそいつはそのまま当たり前のように俺の隣に並んで歩く。
横でふわふわと銀髪を揺らすそいつを睨みつけるが、そいつはそんな俺の視線を受け止めながらもニヤリと笑いかけてくる。
ちくしょう、そんな態度がいちいち腹立つんだよ。
「おい、勝手に取ってんじゃねーよ。それに俺は運ぶの手伝ってくれなんて頼んでねぇ」
「えー、だって一緒に運んだ方が先生だって楽じゃん?それに俺は先生と一緒にいられるし、みんなが得する!まさに一石二鳥!」
「うるせー俺はお前といる事で損してるんだよ!」
「うわ、何それひどくね⁉︎こんなにも俺が愛を示してんのに!」
「だからそれが迷惑だっつってんだろ!」
「またまたぁ、先生つれねぇな」
やけに近い距離でギャーギャーと喚くコイツに、また頭痛が酷くなった気がする。

そう、俺の悩みの種とは、コイツの事だ。

坂田銀時。
俺が副担任を務めるクラスの男子生徒。
そして、四六時中、俺を見かける度に今この状態のようにふざけた事をぬかしてくる、忌々しいヤツ。

コイツが俺に悩みをもたらすようになったきっかけは、今年の春。新しい年度になって初めての授業だった。
去年一年間で学んだことを活かして、二年目となる今年はもっと分かりやすい授業をしよう!なんて、俺は意気込んで教壇に立っていた。
幸いどの生徒も真面目に授業を受けてくれたことにそっと安堵していた、のだが。
授業も終盤となり、「何か質問あるか?」
と問いかけた時、「はいっ!」と坂田が元気良く手を挙げた。そのやる気に満ちた態度と珍しく煌めいた瞳に関心しつつ指名すると、これまた勢いよく立ち上がる。そして教室中に響き渡るくらいの大声で言い放った。
「俺、先生の事好きになっちゃったみたいなんだけど」
「…は?」
素っ頓狂な声が出た。
予測もしていなかった(当たり前だが)言葉に呆気に取られ、思考停止した頭は全く回転してくれない。
それでも何とか絞り出した第一声は、
「いや、それ質問じゃねーし」
という、何とも的はずれで間抜けなものだった。

それから坂田の場も弁えない告白攻撃は始まった。
去年も坂田のクラスの授業を担当していたから関わりはあった。まぁ確かにふざけたところはあったが、締めるところはちゃんと締めているという印象だった。それに、不本意ながらも坂田の冗談のおかげで授業が盛り上がることもあった。他にも授業の準備や教材を運ぶのを手伝ってもらった事だって何度もある。質問があるといって数学職員室まで訪ねてくることもよくあった。
そんな、少なくない交流の中で、坂田はなかなかいい生徒だと俺の中では位置づけられていた。何なら好感さえ持っていたというのに。
それが今や、ふざけた冗談にもならないような言葉で俺をからかっている。まさか坂田の言葉が本気だなんて思ってはいない。むしろ本気と取る方が難しい。
実際、他の生徒達も最初こそ囃し立てたり冷やかしたりしていたが、いまやもう「よく考えたら坂田のすることだから」なんて言って完全無視の体制を貫いている。
俺が何処に居ようが、何をしていようが、誰といようがお構い無しに告げられる自称愛の告白はもはや嫌がらせだ。
そんな嫌がらせを、生徒達の中では親しみを持ってすらいた相手から受けるのは、なんだか少しだけ裏切られたような気分がした。
そして、そう感じてしまう自分が嫌だったし、坂田の言動を軽く躱したりできず翻弄されている自分が情けなかった。
そしてそんな状況を打破出来ないまま、坂田からの告白攻撃は半年経った今でも続いている。


未だ俺の隣でぺちゃくちゃと喋り続ける天パ馬鹿に適当に相槌をうちつつ歩いているうちに、見慣れた扉が近づいてきた。
俺が重い扉を開けて部屋に入ると坂田も後からスルリとついてきた。仮にも職員室に入るんだから、もうちょっと遠慮というものがあってもいいだろう、と思ったが、坂田に限ってそんなもの持ち合わせている筈ないか、と思い直す。
「あ、密室に二人っきりだね先生」
「お前本当馬鹿だろ」
他の先生方はそれぞれの部活の顧問を受け持っているから、放課後にこの部屋にいることは少ない。せいぜいテスト期間中くらいだ。
ちなみに俺は剣道部の副顧問だが、顧問の先輩教師から放課後の部活には顔を出さなくてもいいと言われている。それに俺自身、次の日の授業の準備に手一杯でまだそれどころではない。
「これ、どこ置く?」
手に持ったノートを軽く上げながら坂田が聞いてくるので、自分で持っていた半分を自分の机に置いて、この横に置いといてくれ、と答える。
はーい、と坂田は言われた通りにどさっとノートを机の上に下ろし、一仕事終えたというような誇らしげな顔をしている。それを見て思わず噴き出してしまった。
「せっかく手伝ってあげたのに何笑ってんだよ」
拗ねたように口を尖らせる彼にまた笑いが込み上げるが、なんとかそれを噛み殺す。
「いや、何でもねぇよ」
片手を振りながらそう言って誤魔化す。
それでも坂田はまだ不服そうな表情を浮かべているので仕方なく
「まぁ、なんだ…その、助かった。ありがとな」
と、一応礼を言っておく。
さっきまで頑なに手伝われるのを拒否していた手前、こう素直に礼を言うのは気恥ずかしい上にきまりが悪い。
思わず赤くなった顔を見られないように少し俯きがちになってしまう。
「だからさ、もうほんとそーいうの反則だって。いちいちそんなツボ狙ってくるのやめてくんないお願い300円あげるから!」
急に坂田の様子が変わったことに眉をひそめる。なんだか焦ったような口調になっているし、顔もほんのりと赤みを帯びて見える。頭の後ろをがしがしと掻きながら軽く俯いてしまっているから、その表情までは読み取れないけれど。
「あ?早口過ぎて何言ってるか分かんねーよ。よく舌噛まねぇな。あと300円はありがたく貰ってやる」
「何でそこだけ都合良く聞き取れてんだよ」
本当は、こういった言い合いの応酬が出来るのは楽しい。ふざけた告白モドキさえ無ければ、だが。
そんなことを考えている間も、坂田の頬は赤く色付いたままだ。いい加減不思議になってくる。
「それよりお前、さっきからなんか顔赤いぞ。どうかしたのか」
一瞬ビクリと肩を揺らした坂田は若干挙動不審気味に
「え〜⁉︎俺はいつも通りだしィ?いつもと変わらないみんなの銀さんだしィィィ⁉︎」
と喚いた。
あぁそうだった、コイツがおかしいのはいつもの事だった。
一人で納得していると、もう普段と同じ表情に戻った坂田が口を開いた。
「せ、先生こそ今日何か変じゃね?いつもはしないようなミスとかいっぱいしてたよな」
ギクリとする。
そうだ。坂田の言う通りだった。
授業時間の変更を把握してなくて生徒が呼びに来るまで気付かなかったし、必要なプリントを職員室に忘れてしまい授業を中断して取りに行ったし、計算ミスをしたし、5回も噛んだし。
小さなミスと言えばそうだけど、生徒に迷惑をかけた事には変わりはない。
「なんか、顔色もあんまり良くないし…大丈夫?」
こちらの顔を覗き込みながら告げられた言葉に、今度は俺の顔がかぁっと熱くなる。
生徒に、しかも常日頃から俺を悩ませているヤツに心配され気遣われた事が、自分はまだまだ半人前だと思い知らされたようで、悔しかった。
ぎゅっと掌を握りしめる。
「なぁ、もしかして、先生って今日…」
「なんでもねぇから!」
思わず声を荒げてしまった。同時に、開けていた棚の扉を勢いよく閉める。
バタンっと思いの外派手な音で我にかえり大人気ない態度をとってしまったことにまた情けなさが込み上げてくる。
とその時、さっきの衝撃で棚の上にあった、プリントの束やファイルなんかがぐらりと揺れるのが目に入った。
あ、やばい。
そう思った時には、それらはもう俺の方へ大きく傾いでいて。直撃は避けられないと悟った俺は、次にくるであろう衝撃に備えて身を固くし目を瞑った。
ドサドサッと派手な音が足元に響く。が、予想していた衝撃や痛みは全く襲って来ない。
そっと目を開けると、視界の大半が黒く覆われていた。それが坂田の制服だと気付くのと同時に、坂田が俺を庇ったのだと理解した。
「ばかっ、お前っ…!」
「へへ、すごくね?俺の反射神経。先生は大丈夫?」
へらりとした笑顔を向けられ、そのあまりの近さに思わずたじろいてしまう。
「あ、あぁ、俺は大丈夫だ。すまねぇ、お前こそ怪我とかしてねぇか?」
「ん、俺も平気。ったく、先生って案外ドジだよな。危なっかしいっつーか。もっと気ぃ付けろよな、心臓に悪いから」
「……うるせ」
返す言葉も無く俯いてしまう。本当に、自分でも情けない。
「…けどさ」
すぐ近くにある坂田の顔がこちらを覗き込む。そのあまりの顔の近さに思わず仰け反ろうとする。
しかし、坂田は棚に手を突き俺に覆い被さる形だから、俺の顔の横には坂田の腕があり容易には身動きがとれない。
校庭から聞こえる歓声やホイッスルが、どこか別世界のもののように遠くに聞こえる。
「まぁ、そんなトコも可愛くて好きだよ」
こちらを真っ直ぐに見つめる赤い瞳から目を逸らすことが出来ない。
いつものようなふざけた言葉も、鼻と鼻が触れそうな距離のままで言われると、何だか気恥ずかしいものが込み上げてくる。
このまま顔を見られていることに耐え切れなくなって、ふいっと坂田から顔を背ける。
「アレ、先生顔赤いぜ。もしかして照れて…」
「照れてねェェェ!!」
ぐい、と力一杯坂田の顔と腕を押し退け、強引に坂田の腕の中から脱出する。
顔が熱く感じるのも、妙にくらくらするような感覚も、全部気のせいだ。
「じゃあ俺今から職員室に用事あるから!他の先生に呼ばれてるから!」
「え〜、行っちゃうの〜?せっかくイイ雰囲気だったのに」
「うるせぇそんな雰囲気欠片ほども無かったわ!」
「またまたァ。じゃ、先生帰ってくるまで待ってるから、早く帰って来てね」
「お前もさっさと帰れェェェ!!」
坂田を数学職員室からなんとか追い出し、急いで職員室へと向かう。
どうせ雑務を押し付けられるだけだろうとは分かっているが、遅くなったらまた文句を言われてしまうだろう。


「アレ、何だか顔が赤いようだが、どうかしたかい?」
職員室に着くなり、俺を待っていた小太りの先輩教師にそう指摘された。動揺しつつも、急いで来たからだと誤魔化す。
そんな事より、早く本題に入って頂きたい。それとなく促してみる。
「あぁ、君も最近慣れない仕事が多くて疲れただろう。だから、今晩一緒に飲みにでも行こうかと思って君を呼んだんだよ」
人を呼びつけておいて、そんな用かよ。
そう心の内で毒づきながらもそれを表には出さないように気をつけて丁重にお断りする。
まだまだ仕事は残っている。それに、この人と飲みに行くのはまっぴら御免だ。
毎回近い距離に来て体のあちこちを触ってくるようなヤツとなんか、誰が一緒に飲みに行きたいなどと思うだろう。雑務を押し付けられる方がまだマシだ。
しつこく掛けられる誘いの言葉をやんわりと断り続ける。
すると
「土方先生、今日は何かとミスが多かったようですね。最近慣れない仕事ばかりだろうけど、気を抜いてもらうと困りますからねぇ」
なんて嫌味を言われた。
何なんだ、本当。さっきまでは労う素振りを見せていたと思ったら、今度は掌を返したような態度である。
開いた口が塞がらない俺は咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。その隙にとばかりに、向こうはつらつらと言葉を重ねる。
「今日みたいなミスがあっては生徒にも良い影響は与えませんしねぇ。今後このような事が無いように、指導の必要があるかもしれませんね」
「…すみません」
「まぁこんな場所で説教、というのもなんだから場所を移しましょうか。お酒でも飲みながらの方が先生も気が楽じゃありませんかな」
その台詞で、相手の急な手の平返しの意図が読めた。
コイツ、俺に説教するなんて口実を作って、そのまま呑みに連れ出すつもりだ。
気付いた途端、嫌悪感で眉間に皺が寄りそうになったが、なんとか堪える。
「まったく、いくらまだ若いからってミスが許されるなんて思ってもらっちゃ困りますからねぇ」
…そんなこと、一度だって思った事は無い。思うわけがないのに。
けれどミスをしたのは本当であるから、言い返すことは出来ない。そんな自分が腹立たしい。あまりの悔しさに、さっきまでの頭痛が一層酷くなってぶり返す。
「じゃあまた、一時間後にここに来てくださいね」
念押しのように俺の顔を覗き込みながら告げられた言葉への反応に戸惑う。
仕事も残っているし断りたいけれど、俺のミスを説教するから、なんて言われたら行くしかない。
ぎこちなく頷きかけた、その時。
「土方先生!さっきの授業のとこで質問があるって言ったのに、こんなトコで何してんスか!」
急に背後から掛けられた、よく通る大きな声。振り返らずとも分かる、それは坂田のものだ。
その姿を認めた途端、なぜか身体中の力がほっと抜けた。
本当は、質問したいなんて聞いていない。きっと坂田が俺を助けるために咄嗟に考えた嘘なのだろう。
生徒からの質問と、同僚との飲み。二つ天秤にかけるなら前者を選択するのが普通で。
だから、角が立つことなく断ることができる。
「…あぁ、そうだったな。すまねェ、忘れてた」
「じゃ、今から数学準備室行って教えてよ」
ぐい、と腕を引く坂田の力に素直に従いつつ、未だ状況が飲み込めずポカンとした先輩教師に顔を向ける。
「すみません、先約がいましたので今日は行けそうにありません。だからコイツに叱ってもらうことにします」
そう言った瞬間、少しだけ、坂田の手に力が籠った気がした。
呆気にとられたままの顔が口を開く前に、と素早く二人で職員室を飛び出した。

「…おい」
助かった。ありがとな。
そう言おうとしたけど、坂田の纏う雰囲気が普段とは何だか違う気がして、声をかけるのが躊躇われる。それに、坂田の手は俺の腕を強く掴んだままで離れる気配が無い。
そのまま坂田は人気の無くなった廊下をずんずんと早足で進んでいく。俺もその後を半ば引き摺られるようについていくしかなかった。


坂田に腕を引かれて連れて来られたのは無人の講義室。坂田がその扉を開けた瞬間、視界にオレンジが溢れた。それが目の前の銀髪に反射して、そのあまりの眩しさに思わず目を細めた。
すると、未だ俺の腕を掴んだままだった、坂田の想像していたよりも大きな手にぎゅっと力が込められた。
驚いて坂田の顔を見ると、今まで見た事がないくらいに真剣な表情を浮かべていた。いつもの、死んだ魚のような目の締まりの無い顔とは程遠いそれに、少し面食らう。
「もうさ、さっき言ったじゃん。先生は危なっかしいんだから、ちゃんと注意しろって。なのに何でさっきみたいな事になってんの?」
「…うるせ」
坂田の目を見ることが出来ない。さっきからずっと助けられっぱなしだ。情けない。
小さく唇を噛み締める。
「つーか先生、今日調子悪いだろ?」
「え?」
言われて初めて気が付いた。
確かに、体は怠いし、頭痛はする。
疲労からくる症状なんだと思っていたけど、確かにこれは体調が悪い時の症状だ。
「さっきも言おうとしたんだけどさ。今日の失敗って全部そのせいだよ。ずっとしんどかったろ」
坂田の優しい口調で掛けられる言葉がじんわりと胸の中の柔らかいところに染み込んでいく。
「…あんなヤツの言うこと気にしちゃダメだよ。大丈夫、先生は頑張ってるよ、いつだってずっと。俺が保証するし、みんなも分かってるから」
いつもより少しだけ低い声で紡がれる優しい言葉。
じわり、と視界が揺れて滲んだ。
泣くつもりなんてこれっぽっちも無かった。なのに、俺の両目からは次々と雫が溢れている。
堪らず俯く。すると瞬きで弾かれた透明な雫が眼鏡のレンズに落ちた。滲んでいた視界がたちまちぼやける。
「っくそ、…なんでっ…!」
止まらない涙に悪態を吐きながら役立たずとなった眼鏡を外そうとブリッジに手をかける。
しかしそれは俺より先に坂田の両手によってスルリと抜き取られた。
「調子悪い時って涙脆くなるもんじゃん。俺も熱の時とかポロポロ泣いてるもん。源泉垂れ流しってやつ?」
眼鏡を制服の裾で拭きながら軽口を叩く坂田の姿を見ると、ふっと笑いが込み上げた。
同時に心も軽くなった気がする。
「それを言うならかけ流しな…あと、お前の涙は温泉なんてそんな高尚なもんじゃねぇよ」
「うわ、こんな時でも辛辣だな!」
ケタケタと笑う坂田に釣られて俺も思わず笑みが零れた。
すると、坂田が一瞬真面目な顔をした。
どうかしたのか、と思っている間に、坂田の腕が俺の頬へと伸びてきた。
そのまま制服の裾で顔を優しく拭かれる。
「おい、制服汚れるだろっ…!」
「先生の涙は綺麗だから汚れませぇーん。だけど…」
「だけど?」
不意に顔を覗き込まれ、真っ直ぐな瞳がこちらを射抜く。
「やっぱ先生は笑った顔が一番綺麗だな」
クルクル頭を掻きながら、頬を染めて告げられた言葉。
いつもと変わらない、ふざけた言葉。
それでもやっぱり俺の心臓はどくんと大きく跳ねた。
赤くなったであろう顔を急いで隠し、冷静を装って呆れた風に言う。
「お前よくそんな恥ずかしいこと言えるな」
「だって、本気だもん」
「え?」
耳を疑う。
思いがけないことだった。
へらっと気の抜けたような笑みを浮かべた坂田の顔をまじまじと見つめる。
本気だって?そんな馬鹿な。
「最初の俺の告白の仕方が悪いのは分かってる。先生が冗談だと思っても仕方ないってことも」
スルリと頬を撫でられる。くすぐったいが不思議と嫌な気はしなかった。
「本気な事ほど誤魔化しちゃうんだ、俺の悪い癖だけど」
「……ずっと揶揄ってんだと思ってた」
「そんなんじゃねぇよ。そんなワケねぇよ」
両手で顔を挟まれる。掌のあたたかい感触が心地よい。
「本当は、去年、体育館で新任の先生ですって紹介された時から一目惚れしてた。…それからずっと俺は、本気で先生が好き」
坂田の掌の熱がこちらにまで侵食してきたようだ。触れられている頬がじんわりと熱くなっていく。
「去年一年間、先生の側にいてみたけど、''いろいろ手伝ってくれるいい生徒''以上にはなれないんだって分かって。それなら想いを伝えようって思ったんだけど、本気って知られるのが、それまでの距離を無くすのが怖くて誤魔化した。…そんで失敗しちゃったね」
すっと両手が離れていく。
久しぶりに空気に触れる頬の感触がなんだか寂しい気がした。
「…坂田」
「だから、これからは誤魔化さないでちゃんと言うから!本気なんだって、伝わるように」
にかっと笑った坂田の顔を、窓から射し込む夕陽が優しく照らしている。オレンジで縁取られたその笑顔に、胸がきゅうっと締め付けられる心地がする。
手を伸ばしてその頬へ触れたくなった。ぎゅっと掌を握りしめる。
「だから先生、覚悟しといてね。卒業するまでに絶対俺のこと好きにさせるから!」
言いながら、先程取り上げられたままだった眼鏡を掛けられる。思わず瞑った瞼をゆっくり開くと、そこには鮮明で澄んだ世界が広がっていた。すっかり綺麗にされたそれにはもう涙の跡はどこにも無い。
「あと、調子悪いんだから早く帰って休みなよ」
「…おう」
優しい声音で、気遣うように言われた言葉に思わず素直に頷く。そんな俺の様子を確認して、坂田は満足そうに笑った。
「…じゃ、また来週。ちゃんと正攻法でアタックするから覚悟しとけよ!」
捨て台詞のように叫んだ後、坂田は教室を出ていった。


一人残されたオレンジに光る教室で、先程までの坂田の言葉の数々を反芻する。
今までずっと俺を揶揄うためなんだと思っていた、ふざけた言葉。
本気なんだって、本当に好きなんだって。
瞳を閉じると、赤く頬を染めながら笑う坂田の顔が浮かんでくる。
そっと笑みがこぼれる。

坂田は卒業までに俺を惚れさせるなんて意気込んでた。だが、きっとその必要はないのだと思う。
だって、自分でも信じられないけれど。
あいつの言葉が本気だと分かった時に胸の奥の方から込み上げてきた嬉しさも。
体の怠さと頭痛は体調のせいに出来ても、顔に篭った熱だけはそれのせいではないであろう事も。
これからは正攻法でアタックする、なんて言われて、それを楽しみに感じている事も。
それらが、俺の本当の気持ちに気付かせるから。
…本当は、俺も、お前に惚れそうになってるよ。
なんて、そんなこと、今はまだ。
少なくとも、あいつが卒業するまでは。

教えてなんてやらねェけど。
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