銀魂BL小説


うぐっ……ゔえっ、げほっげほっ

副長室の中から聞こえた音に、襖を開けようとした手が止まる。今ではもう聞き慣れた、できれば聞きたくないその苦しげな嗚咽は間違いなくこの部屋の主のものだ。
心臓をぎゅっと握り潰されているかのような痛みを覚えながら、山崎はそっと襖を開けた。
「副長」
呼びかけるが返事はない。灯りのない暗い部屋の中、聞こえるのは荒い息遣いだけである。目を凝らすと、しゃがみこんだ黒い隊服姿が目に入った。今にも闇にとけてしまいそうなその背をびく、と小刻みに肩を跳ねさせながら、長い指で畳をかりかりと引っ掻いている。
傍まで近づき、隣に膝をついて顔を窺う。
苦しげに眉を寄せた彼は、畳に這わしているのとは反対の手の甲で口元を押さえていた。その顔は、暗闇でも分かるほどにひどく青白い。恐らく、吐き気を必死で堪えているのだろう。時折、辛そうな呻き声が指の隙間から漏れる。
「副長、我慢せんでください。出しても大丈夫ですから」
言ってみたが、ふるふると首を横に振られた。ならばせめて背中をさするくらいは、と伸ばした手はやんわりと払われる。山崎はきゅ、と小さく唇を噛んだ。
しばらく荒い呼吸を繰り返していたが、徐々に深くゆっくりとした呼吸を取り戻ししていく。
少しは落ち着いたらしい副長は、ふーっ、と二、三度深呼吸を繰り返すと「もう、大丈夫だ」と言った。小さく、掠れた声だった。
「あの、何か飲み物でも……」
「いや、いい。すまねぇな」
そう言って、副長は口の端に微かに笑みをつくった。しかし、そうやって笑ってみせていてもいまだ眉根は寄せられたままで、乱れた前髪から覗く額には汗の粒が浮かんでいて。
その表情を見ると、山崎はいつもそれ以上動けなくなる。
また、今日も。
副長がこのような咳をするのは、決まって幕臣達への接待のあった夜だった。接待、とは名ばかりであることは知っている。所謂暇を持て余した爺共の集まりだ。だけど、その中で、彼がどんな仕事をしているかは知らない。どんなことをさせられ、何を言われているか。何一つ知らない。知ってはいけない。それを、副長は望んでいないから。求められているのは、接待場所までの送迎と、何も聞かないこと。これだけだ。
分かっている。
分かっているけれど、それでも、やっぱり副長の苦しそうな顔なんか見たくない。もう、これ以上苦しまないでほしいのだ。山崎は膝の上のこぶしを固く握り締める。
思い切って、口を開く。
「副長、接待先で、何があるんですか……?」
涙の膜が張った美しい藍色が山崎を捉える。別段表情を変えることもなく、ぼんやりとしたそれを見た途端、今までの思いが弾けた。
「……何で副長が苦しまないといかんのですか」
しんとした部屋の中では、山崎のぽつりと呟いた声さえも大きく響いた。
「何で誰にも何も言わんのですか、何でもっと周りを頼らんのですか、何で……!」
「山崎」
堰き止めていたものが決壊したようにぶわりと溢れ出した思いを、彼の声が止める。落ち着いた、静かな声だった。
思わず言葉を飲み込んでしまう。
「山崎、やっぱり茶を持って来てくれ」
言外に、頭を冷やせと、もう何も言うなと言われているのは分かった。自分でも、それ以上言うべきではないのだと理解している。
けれど、言葉となった思いは溢れたままで。流れ出ることを止められなかった。
もう、限界だった。
「俺、もう副長の苦しむところ見たくないんです、そんな顔してほしくないんです」
「……山崎」
「何で俺にも何も言ってくれんのですか」
「山崎」
「もう、一人で苦しまんでください、もっと俺を、頼ってください」
「おい、」
「俺は、ずっと、副長が、土方さんのことが……」
「山崎!」
さっきよりも大きな声が、暗闇を震わせる。きつくこちらを睨みつける藍色の瞳に、体が竦む。
「もう、何も言うな。……茶だ、早く」
逸らされた顔。小さく顰められた眉。
ああ、この人は。
山崎は、きつく手を握り締めた。
この人は、俺の言葉じゃ、俺の思いなんかじゃ動いちゃくれない。
分かっていたはずだった。だけど、胸の真ん中が鋭く痛む。目の奥に熱いものが込み上げる。
それらをなんとか飲み下して、いつものへらりとした笑みを作る。手の平と、胸の奥が、じんじんと痛い。
「……すみません。茶ですね、少し待ってください」
震える声でなんとか言葉を紡ぎ、よろよろと立ち上がる。
部屋を出て、ぱたんと障子を閉めると同時に、くしゃりと顔が歪んだ。溢れ出したまま行き場のなくなった言葉たちを、細い溜め息に換える。少しでも気を抜くと瞼から熱い滴が零れ落ちそうで、無理矢理に顔を上げる。
と、場違いなほどに明るい月が目に入った。すべてを知っているくせに知らんぷりを続けるみたいな、白々しい光。ぽっかりと静かにこちらを見下ろす光がまた徐々にぼやけていく。
ぐい、と目頭を袖で拭い、食堂へ向かう。夜勤の隊士以外はもう皆寝静まっている。足音がひとつだけ響く廊下を、山崎はゆるゆると進む。
行きたい場所と行くべき場所は、必ずしも一致するとは限らない。
きっとこの後、言われた通りに茶の入った湯呑みを持って副長室に戻り。言われた通りに今までと同じく何もなかったかのように振舞って。「おやすみなさい」とだけ言って部屋を出る。
たとえ、それを自分が望んでいなくとも。
俺は、何も救えない。俺では、あの人は救えない。
瞬きとともに零れた雫は、誰にも知られることの無いままに、冷たい月に照らされて消えた。
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