(小説)魂成鬼伝の章
【7章~最終章~】
『おっお兄ちゃんの事、男の人として好きなの!』
初めてお兄ちゃんに想いを伝えた日の言葉
お兄ちゃんに恋をして
日々お兄ちゃんと過ごしていく中で
私の中にたくさんたくさん増えていったお兄ちゃんへの想い
日々増えていく溢れんばかりの想いを
ついには抑える事が出来なくなって
気付けば私の口から出てしまっていた言葉
言ったあとに後悔して
否定されたらどうしよう
血の繋がりがなくても変わらず妹としか見られないと言われてしまったらどうしようと
色んな考えが頭の中をぐるぐる巡って
…怖くなってうつ向いて震えだす私を
真っ赤な顔をしながら『オイラもすげぇ好きッ!!!』と抱きしめてくれたあの日の事を今でも昨日の事のように覚えてる
幸せだった
いつも太陽みたいな笑顔でみんなを楽しませてくれる貴方が大好きだった
その心に大きな傷を抱えてても
優しさをけして失わない貴方がなによりも眩しくて大好きだった
ずっと
ずっとそばに居たい
他には何も望まない
私のすべてを差し出したっていい
何を失おうと
どんな苦しみや悲しみが待ち受けていようと
貴方の──”温かさ”を失わずにいられるのなら
お屋敷はもう目前
どくんどくんと早鐘のように鼓動が鳴りひびく
ふと朝のお兄ちゃんの姿が脳裏をよぎると同時に
この先の事を考えてしまい
つい止まりそうになる足を
一歩、また一歩となんとか先へと歩みを進ませる
進まなきゃ
この歩みが何をもたらすのか分かっていたとしても
私は止まるわけにはいかない
この心願う
大切な─大切な想いの為に
『寧々ー』
そう強く胸の中で再度決意した瞬間、私の名を呼ぶ声が耳へと届いた
聞き間違える…、はずがない
私の名を呼ぶ誰よりも愛おしいその声を
どくんどくんと心臓が激しく脈打ち息がつまる
止まってしまった…足取り
この先の事で思考が埋め尽くされ、震えだす腕を必死になって抑えようとする
声の主がどんどん自分の元へと近付いてくる足音が私の耳へと響く
目を見開き、私はうつ向きその場から動けなくなってしまった
『寧々、やっと見つけた』
声の主が姿をあらわす
微かに視界の端に見える足元を目にし
雨粒と共に汗が額から滴り落ちる
震える体をどうにか抑えながら
恐る恐る面をあげれば
朝と同じ漆黒のような真っ黒い髪の色をさせた貴方が笑みを浮かべてそこに居た
一見、落ち着きはらったような笑みを浮かべているようにも見えるけれども
どこまでも赤黒く光るその瞳は射抜くような視線を私へと向けていて
まるで獲物を見つけた猛獣のように
けれどもどこか恍惚としたような表情
その背後には見る者すらものみ込もうとする程の
果てしない漆黒の闇が広がっている
その姿には─、私の愛したあの優しい温かな貴方の面影はもうどこにもなかった
あたりの空気が重苦しい
今まで感じた事がないほどに目まぐるしいほどの張り詰めた陰の気
どこまでも深い闇が今にも私へ襲いかかろうとしているようで 恐ろしい
恐ろしくてたまらない
身体の震えが止まらない
大粒の涙の雫が、雨に混ざり私の頬へ流れ
地にこぼれ落ちていく
でもそれは恐怖からくる涙ではない
…こんなにも
こんなにも恐ろしい闇をずっと一人で抱えてきたの?
こんなにも悲しい闇をずっと一人で耐え抜いてきたの?
『……ッ………お…にい…ちゃ………』
目の前で広がり続ける闇に
頬を伝う涙が止まらない
………お兄ちゃん……ッ
『お…に……ぃちゃ………ご…め…なさ………ごめ…ん…なさ…ぃッ』
すべて…私のせいだ
『おに……ちゃ………』
自分は無力だとお兄ちゃんと向き合う事から逃げ続けた私のせい
あんなにもお兄ちゃんは苦しんでいたのに
ずっとずっと苦しんでいるのを私はずっとそばで見続けてきたのに
『逃げて…ごめ……なさい…ッ……何も出来…なく…てごめ…なさ……ッ』
雨と共に頬に伝う涙が止まらない
どうしてもっと早く勇気をもてなかったんだろう
どうしてもっと早く…ッ
後悔ばかりがとめどなく溢れだす
視界に映る貴方の姿が涙に滲み霞んでいき、
私の悲しみに満ちた小さな声をかき消すように雨音がどんどん強まっていく
『(……お願い…、どうか落ち着いて…ッ)』
目の前の現実から泣いて逃げないで…
どんなに後悔しても…、もう時間を戻す事は出来ない
どんなに嘆いても過去を変える事は出来ない…ッ
泣いていても、何も始まらない
思い出して
私がここに来た理由を…ッ
『…………お願い…
お兄ちゃんっ…きいて…ッ!』
涙で震える声を必死に抑え私は叫ぶ
『寧々は…ッどんなお兄ちゃんだって大好き…ッ
大好きなんだよ…ッッ!』
この想いに偽りなんてない
構わないの
貴方がどんな想いを内に秘めていようと
『お兄ちゃんがどんな想いを胸に秘めてても、
どんな願いをもってても寧々の気持ちはずっと変わらないッ!』
だって
だって
『だって寧々は知ってるから…ッ、
お兄ちゃんが誰よりも優しくて温かな人だって事は寧々が一番分かってる…ッ
お兄ちゃんは寧々から…大切なものを奪う人なんかじゃないッ
いつだって、たくさんのものをお兄ちゃんから寧々はもらっているんだよ!』
あの怖い飼い主さんの元で生まれ育った時も
二人で未知の外の世界で生きた時も
離れていた100年の月日の中でも
再会を果たせたあの日からも
『ずっと…、ずっとね
寧々の心…温かいの…。
どんなに悲しい事があってもずっと温かいの…ッ
…この温かさは全部、お兄ちゃんがくれたものなんだよ…
お兄ちゃんがたくさんの愛情を寧々にくれたから、どんな時だって寧々は幸せでいられたんだよ…ッ
お願い…ッ寧々の幸せを奪う存在だなんて…そんな風に思わないで…
自分の中にある優しさや温かさを否定しないで…ッ
寧々はお兄ちゃんの温かさが大好きなの…
愛してるの……ッ
………愛してるの…お兄ちゃん…ッッ』
私の悲痛な叫びがどこまでもその場へと響きわたり
天から地へと強く打ち付ける雨足はまるで私の涙のよう
霞む視界に貴方の姿は映らなくて
大きな闇だけがただひたすらにその場を覆い尽くす
ふと、雨の音にまざり石の転がるような音がした
涙で霞み消えてしまった貴方の姿が
ゆっくりと一歩
また一歩と
こちらへと歩みを進めてくるのが微かに見える
目前までその歩みがすすめられると
そこから伸ばされた腕に腰を力強く引き寄せられ
そのまま気付けば私の唇にはお兄ちゃんの唇が重ね合わせられていた
私の中の時が止まる
その腕は力強く私を抱きしめるのに
唇にはまるで壊れ物でも扱うかのように口づけられたから
その触れ方から優しい貴方を思い出し
私の頬からはまた雨に混ざり一筋の涙の雫がこぼれ落ちた
『………ああ、
俺も愛してるよ寧々』
目の前の瞳が愛おしげに細められ
その唇は私への愛を紡ぐ
『お…にいちゃ……ッ』
『だから…
大人しく俺に”喰われて”くれるよな?』
そしてその瞳はまた赤黒い捕食者の瞳へと変わり果ててしまった
僅かに出ていた陽の光が
雨雲に隠れ、世界に闇が落とされる
…………分かってた
こうなる事は、もう既に分かっていた
5年前のあの日
令月さんのご遺体をお屋敷に運ぶ際、お師匠様から聞いていたから
陰の気に蝕まれたものは”二度と自我を取り戻すことはない”と
私を射抜くように見つめる瞳をまっすぐ見つめ返す
どこまでも赤黒い血のような獲物を狙う瞳
あの優しさに溢れた
私の大好きだった美しい瑠璃色の温かな瞳は消えてしまった
目の前にあるのは獲物をどこまでも狙いさだめる捕食者であって、その瞳からはお兄ちゃんの温かな面影などもう少しも感じられない
なのに…、
不思議だね
貴方への想いが少しも色褪せないの
私を彩るすべてが
こんなにも目の前の貴方を愛おしいと叫び続けてる
…だから、迷わずこの道を行ける
『……ッ!?』
手に抱えていた書を目の前のお兄ちゃんの胸に叩きつけるように翳すと同時に
私の周りを風が吹き荒びはじめた
その風の勢いに私を抱きしめていたお兄ちゃんの身体も少し吹き飛ばされてしまう
その姿を目で捉えながら
少しずつ…少しずつ、書から体に伝わる力を開放していった
『……寧々…?』
額が熱い
体の奥底から何かがはい出てくるようなそんな錯覚が押し寄せる
深い深い闇が地の底から這い上がるように私の中からあふれ出すのが止まらない
お兄ちゃんも…こんな感じだったのかな
『………な…んだ?』
嵐のように私の周りを激しい風が舞い、お兄ちゃんは私に近寄る事も出来ない
あんなにも激しく降り注いでいた雨はいつのまにか止み、かわりに耳を劈くような雷鳴が鳴り響き
同時に私の中に溢れだす闇が外へ外へと溢れだし、目まぐるしく私の身体を変化させていった
『おい寧々…ッ!!』
私の想い
結局お兄ちゃんに届ける事
出来なかったな
『寧々…ッ!!』
…でも、それでもいい
もっと守りたい
大切なものが私にはあるから
『ッ!?』
私の身体を包み込んでいた闇が解き放たれ
突如辺りに静寂が訪れる
風がやみ
あたりを舞っていた砂ぼこりも落ち着きはじめ
私の姿がお兄ちゃんの瞳へと映し出されていく
『寧々…お前…、
そのすが……ッッ!!?!?!?!?!?』
お兄ちゃんが驚きの声をあげたのと同時に
私の牙がその肩を勢いよく貫いた
『ぐぅぁあああッッッッッッ!!!!!?!!?!!!!
あ…ァァア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!!!!!!!!!ぐっぅうぁア゛ッ!?!?』
お兄ちゃんの悲痛な断末魔がその場へと響き渡る
でも私はその牙を弱める事なく更に追い打ちをかけるようその肩に容赦なく噛り付き、お兄ちゃんは抵抗もむなしくなすすべ無く私にその身を捕食されていく
抵抗しようにも力がうまく入らないようだ
当然だろう
お兄ちゃんは、その身に埋め込まれた黒曜石によって身体だけでなく魂までもが極限まで弱りきっていた
そんな中、普段の私ならともかく
魂成鬼伝によって鬼と化してしまった私になど今のお兄ちゃんが敵うはずなどない
『ぅぁあ゛ァ゛アア゛゛ッッ!!!!!ぐぁ…ふぅア゛ッ!!!!!!!!!!!!』
お兄ちゃんの断末魔がただひたすらに響き続ける中
私は止まることなく
お兄ちゃんを咀嚼し続け
あたりには雨の匂いに混ざり血の匂いまで充満しはじめた
口の中も鉄さびの様な香りでいっぱいになる
それでも私はけして止まることはなかった
口の中に運び込まれるお兄ちゃんだった”物”をひたすらに咀嚼し飲み込んでいく
飲み込んでいく
いつのまにかあれだけ響き渡っていたお兄ちゃんの断末魔も止み
あたりには私の咀嚼音のみがしていた
白髪だった髪は貴方から流れる血のように赤く染まり
額から伸びるニ本の角はまさしく鬼の象徴
異様な光景
そこには大きな血だまりの中
涙を流し愛する人を咀嚼し続ける私の変わり果てた姿があった
思考を停止し、ただただ口元だけを動かし続ける
そうしていると
ふと視界の端に私の頬へと向かい伸ばされる手が映し出された
うまく働かない思考の中
その手を見つめ、そのまま手の先の顔の方へと視線を移していく
すると今にも息絶えそうなお兄ちゃんの瞳と目が合わさった
口の端から血を流し
その瞳にはもうほとんど生気を感じられない
あのギラついた捕食者の瞳ももうなりを潜めてしまっていた
目を合わせたまま少しの沈黙の流れた後
その口元の広角が僅かにあがっていく
『お…マエに……くわ…れ…………ル…のも…
わ………るク…ね…ェな………』
…その言葉を最後に
その瞳に宿っていた僅かな生気さえも消えてしまった
あたりを静寂が包み込む
私は…、
震える手でその頭をそっと胸へと抱き寄せ
声を押し殺し涙をこぼし続けたのだった
***
あれから─
どれくらいの時間が経ったのだろう
気付けば私は
深い深い山の奥深くの森の中に1人たたずんでいた
手には愛しさ故かいつのまにか持ち出した、お兄ちゃんの私物の入った風呂敷包みが握られている
余程山の奥深くまで来たのか小鳥のさえずりも獣の気配さえも感じない
『(…よかった)』
自分の居る場所を認識し
少し安堵する
だって…、何も存在しない場所でなら鬼としての破壊衝動を起こす事もない
…私は、はじめからこうするつもりだった
どんな理由があろうと他の誰かを傷つけていい理由にはならない
誰も…、傷つけたくなかったから
だから、鬼となった暁には誰も近寄る事のない山の奥深くで
残りの余生を1人過ごそうと思っていた
再び止まっていた歩みをすすめはじめる
どこへ向かおうとか特に考えなどない
何も存在しない場所ならどこだっていいの
そうして歩き続けていると
ふと洞窟らしきものを発見した
特に行く宛などなかった私は
なんとなくその洞窟の中へと歩みをすすめていく
薄暗い穴の中
奥へ奥へと進むたび
視界から徐々に光が失われていき
まるで…眠りにつく際の夢に落ちる瞬間のようだと思った
でも口の中に広がる鉄さびのような香りが
この思考を夢へと誘ってはくれない
ふと
力なく私はその場へとへたり込んでしまった
手に握られたお兄ちゃんの私物の入った風呂敷も冷たい地面へと落ちていく
その風呂敷包みが地面へと触れ合う瞬間
中からカラーンという音が鳴り響き
その音が洞窟内に大きくこだました
呆然とする意識の中
響く音に思考を奪われる
なぜそのような音がしたのか気になり
私は風呂敷包みの結び目に手をかけた
中にはお兄ちゃんの着物が数着と手ぬぐいなどが入っており、妙に細長い形をした小さな風呂敷包みも一緒に出てきた
音の出処はどうやらこれのようだ
なにやら長方形の形をした何かを小さな風呂敷で包んでいるようで
視界が暗くあまりよく手元が見えない事から、風呂敷の中にあったろうそくに火を灯し、そばにおく
そうして小さな風呂敷包みの結び目にも手をかけ結び目をゆっくり解いていった
すると、中から出てきたのは上質な白樺の木で出来た長方形の箱だった
『……ね…ね…』
かすれた声を発っしながら震える手でその滑らかな箱の表面に指先でそっと触れていく
そこには慣れ親しんだお兄ちゃんの字で私の名前が彫られていた
『(どうして……寧々の名前…が)』
ぼんやりとした思考が動き出し
心臓が脈打つ
震えだすその手の指先をどうにか抑えながら
静かに箱の蓋を開けてみた
するとそこには
美しい造詣の施された銀色のかんざしが箱の中に収まっていて
またもや震えだしてしまう指先でそっとかんざしを手にする
『……アン…グ…レ………カム……?』
銀色に光り輝くかんざしの飾り部分には美しい造詣の銀細工の花が施されていた
アングレカムの花
この花には見覚えがある
かんざし職人だったお兄ちゃんは
自分の手がけるかんざしには一切の妥協を許さない人だった
飾りに施す花にも縁起の悪い花は使いたくないと
部屋に花言葉の本が置かれていて、前にその本を読ませてもらった事がある
アングレカムの花はその時に本の中で見かけたもの
花言葉がまるで
私の…お兄ちゃんへの想いのようで印象に強く残っていた花
その時の想いが呼び起こされ
瞳の端から涙が再びこぼれ落ち
箱の中を濡らしていく
『…ッ…………?』
そのこぼれ落ちた雫を追うように、
箱の中へと視線を向ければかんざしが入れられていた底に、箱の大きさには合わない紙が入っている事に気がついた
箱からそっと紙を取り出してみる
するとそれは1枚だけでなく、何枚も何枚も同じ紙が入れられているのだと気がついた
私は───その紙に見覚えがあった
『……短冊?』
お兄ちゃんと暮らし始めてから想い出作りの為にたくさんの行事を共に過ごしていた私達
七夕も…その中の一つ
一緒に短冊に願い事を書き
願いを星空に共にかかげた日々が脳裏をよぎる
お兄ちゃんが短冊に何を願ったのかは分からない
『恥ずかしいから内緒ってやつだ!』
と照れ笑いを浮かべたお兄ちゃんの顔を思い出す
いけないとは、分かっていても
私はどうしても何が書かれているのか気になってしまい
その紙をそっと表へと捲ってしまった
するとそこには
…すべての紙に同じ文字が綴られていた
”寧々と夫婦(めおと)となり
生涯大切に愛し続けたい”
『……………ッ…』
言葉が…失われた
『………ァ…………ッ』
私の喉からは声にならない声が幾度も
出ようとしては消え 出ようとしては消えていき
雨粒のような雫が頬を伝い何度も何度も地に落ちていく
”寧々の事
まだ嫁にもらってねぇもんな”
今朝のやりとりの言葉が脳裏へと響きわたり
ふれた唇の温かなぬくもりも
力強く抱きしめられた優しいぬくもりもすべてが呼び起こされる
『お…………に……い……………ッ……』
一体どれだけの想いを込めて
このかんざしを作ってくれたのだろう
一体どれだけの祈りを込めて
この短冊に願いを綴り続けてくれていたのだろう
私を包み込む温かさがまた強まるのを感じる
『おにい…………ちゃ………ッ』
『随分と暗い所に居るのう』
『!!!?』
突如背後から聞こえてきた声に私の思考は…遮断された
涼やかで凛とし、それでいて圧倒的な存在感を醸し出すその声を聞き間違えるはずがない
背を向けたまま動かぬ私とは対象的にいつもどおりの軽やかな声でお師匠様は語りだす
『ほぉ…、それは薙翔の簪ではないか?』
『……ッ』
慌てて胸元で簪を握りしめる
『ふふ…、なにも隠さんでも良いだろう。
その簪なら余も見た事があるのだぞ。
少し前に薙翔が見せてくれたのよ。
確か……、
そなたへの求婚の証に渡すと言っておったのぅ。』
『…………………』
『随分と嬉しそうに話しておったのを覚えておる
ふふ…、そうか
無事そなたの手へと渡ったのか。
薙翔もきっと喜んでおるだろう』
『……………………
………………何をしにいらっしゃったのですか?』
酷く…冷たい声が出たと思う
今の私には目の前の相手を敬える程の心の余裕はない
でもあくまでお師匠様はお師匠様のままだ
私のぞんざいな態度など特に気にするでもなく
変わらぬ口調でいつだってこちらの予想を容易に超える発言をなされるのだ
『余を喰ろうてみる気はないか?』
『…ッ!?』
こうしていとも簡単に
『先程のそなたと薙翔のやりとりを見ていて思ったのじゃよ、そなたの中にも薙翔と同じ”変わらぬ想い”があるのではないのかと。
そなたが余を喰らえば余の望むものが変わらずに手に入るのではないかとな』
やめて
『どうじゃ?余を喰ろうてみる気はないか?』
やめて
『ここでこのまま1人孤独に生きるより──ッ!』
お師匠様が言葉を言い終えるか言い終えないかの瞬間
洞窟内には突如大量の血飛沫が舞い散った
それで止むことなどはなく、血飛沫はどんどんと舞い、洞窟内の壁を赤黒い血がどこまでも濡らしていく
『………何をしておるのじゃ?』
その言葉には一切耳を傾けず
私はひたすらに血を飛び散らせる
洞窟内に舞散った血は私の血だった
私が私自身の身体を引き裂いていった際に飛び散った鮮血
くぐもった声で痛みを堪えながらも私は自身の身体を引き裂くのをやめはしない
『……もしや、余を喰らわぬよう破壊衝動を抑える為か?』
投げかけられる疑問には耳を貸さず
私は私の身体を尚も引き裂いていく
『だとすれば…、なんと意味のない事を。
知っておろう、そなたの身体は既に鬼の身。
鬼には元来再生能力がある。どんなに身体を引き裂こうとその身に受けた傷はすべて…』
『なら何度でも引き裂くまでですッッ!!!』
私の叫びが洞窟内に響き渡った
『私のお兄ちゃんへの想いは…私だけの物よッッッ!!!
誰にも渡したりなんかしない…ッッ
帰ってください………ッ!!!
かえってッッッッッッッ!!!!!!!!!!!』
悲痛な叫びが洞窟内にどこまでもこだまする
渡したりなんかしない
私の心はすべてお兄ちゃんだけのもの
この心を包み込む温かさはすべて私だけのもの
誰にも渡したりなんかしない
絶対に…
絶対に…ッッ
『………やれやれ、どうやらそなたは余が思ってる以上に頑固者のようじゃのう。
仕方ない。
気が変わったら余を訪ねてくるがよい。
いつでも待っておるぞ』
そう告げるとお師匠様は
その場をさっさっと立ち去ってしまった
あとに残った洞窟内には私の涙混じりの声だけが小さく響くのみ
『………分かっているのですか、お師匠様
私の心を支配するということは、愛する想いを知ると共に
失う哀しみも知る事になるのですよ……ッ』
***
それから幾日も月日が過ぎていった
あれからお師匠様は一度も訪ねては来られなかった
お陰で私はこの山奥で静かに1人過ごせている
洞窟のそばにはお兄ちゃんのお墓を作ったんだ
…中身はないんだけどね
お師匠様に少しも触れて欲しくなくて
私が全部…、食べてしまったから
中身がないなんてお墓の役割を果たせていないような気もするけど、それでも何もないのは悲しいから石を積み上げて作ったの
毎日毎日、私はそこでお兄ちゃんに話しかけてる
今日は何をしたのかとか
何を見たのかとか
特にする事もないから
このあたりの周辺を散策した時の話
『今日はね、すごかったんだよ。
たんぽぽの綿毛を見つけたの、もう春なんだね。
まさかこの辺りまで綿毛が飛んでくるなんて思わなかったから、びっくりしちゃった』
そう言いながら私は自身の後ろから別の花を取り出してみせた
『うふふ、見てみて!
今日はね、お花だってあるんだよ。
たまにはお兄ちゃんだってお花見たいかなと思って。
勿忘草…綺麗だよね。
令月さんのお墓のお世話の為に式神を送ったんだけど、その帰りに持ってきてもらったんだ』
手にした花をお墓のそばにそっと埋めていく
『積んだら可哀想だから土ごと持ってきてもらったんだよ。これならお兄ちゃんも長い間お花を見てられるね』
少し前に降って溜めていた雨水をほんの少しお花へと垂らす
心なしかお花が元気になったような気がして頬に笑みが溢れた
『ねぇ、お兄ちゃん』
優しい風が頬を温かく掠めていく
『”…本当はあの時、
自我を取り戻していたんでしょ?”』
涙を流しお兄ちゃんを咀嚼し続けていた私の頬に
お兄ちゃんの手が伸ばされたあの時
視線が合わさったあの瞬間
お兄ちゃんの瞳にいつもの温かさが一瞬宿っていたのを私は見逃さなかった
『寧々が後悔しないように
…演技してくれてたんでしょ?』
お兄ちゃんはあの時には既にもう、虫の息だった
あの瞬間に自我を取り戻してしまって
そうして…、それをもし私が知ったら
もっと他に方法があったんじゃないかってきっと私が後悔してしまうと思ったんだと思う
お兄ちゃんは…そういう人だから
いつもいつも私の心の事ばかり
『お兄ちゃんの想い
全部ちゃんと、寧々に届いてるんだよ
見逃さないよ…だって、大好きなお兄ちゃんの想いだもの
だから寧々、後悔なんてしないよ
お兄ちゃんが必死に守ろうとしてくれたんだもの
後悔なんて絶対しない…
ありがとう…っ
ありがとう…お兄ちゃん…ッ』
頬を温かな涙が伝っていく
胸の中にも温かな想いが広がっていく
私を彩るすべてがまだ
こんなにもお兄ちゃんの優しさで包まれてる
『お兄ちゃん、
お願いがあるの』
涙を拭い私は再度愛しい貴方へと言葉を投げかける
『寧々、きっと…地獄に落ちると思うんだ
どんな理由があろうと鬼になってしまったし、
それにお兄ちゃんの事…食べちゃったから。
でも、大丈夫。
覚悟は出来てるから』
ふと空を仰ぎ見て
遠い記憶の彼方の出来事を思い出す
”どんな理由があれけして許されない行為だ。
僕は地獄に落ちるだろう。
そこで罪を償わなければならない。
心構えは出来ている”
一時、まだ普通の猫だった時に
共に過ごした家族のような間柄だった創一さんが残した言葉
創一さんも…、同じような気持ちだったのかな
『…覚悟は出来てる』
再度自分の気持ちを認識するように言葉を呟く
『だから……、
だからね
寧々頑張るから
一生懸命頑張るから…
だから…また生まれ変わってもう一度巡り会えたら、今度こそお兄ちゃんのお嫁さんにしてほしいの…ッ』
私の髪を結うアングレカムの簪が陽の光で優しく光り輝いた
『約束だよ……お兄ちゃん…』
そうしてまた幾度となく月日が過ぎていった
春が来て
夏が来て
秋が来て
冬が来て
目まぐるしい月日が移ろい行く季節と共にどんどん過ぎ去っていく
変わらない同じ日々を過ごし続ける事
およそ100年
とうとうその時はやって来た
空には金色の美しい満月が輝いており
地面に転がる私はその月の光を見つめながら
自分の終わりが少しずつ近付いてくるのを感じとる
その口元には目の前で輝く月の光を見て笑みが溢れている
だって
温かな優しい光がまるで貴方のようで
こんな時でも貴方の温かさを感じる事が出来て
嬉しくて幸せだから
愛おしさから指先をそっと月へと伸ばす
『あ………い…して…………る……』
その言葉と共に1陣の風が空へと舞い上がる
まるで彼女の言葉を愛しい彼の元へと届けるように
『…逝ったか』
木々の奥深く
大木の枝に腰をおろし、左右非対称の瞳が少女の亡骸を色無く見つめ続けていた
『愚かな娘よ…
これほどまでに恋い慕うなら
なぜ喰らったあの日に魂(薙翔)をあの世へと強制的に送り届けたのか
分からぬ…、わからぬのう』
その謎をまるで問うように非対称の瞳は空に輝く月を見上げるが
しかしすぐ様その口元には笑みが彩られ
言葉が再び紡がれる
『知っておるか寧々、世の名は中国語で
”さようなら、また会いましょう”
という意味なのだよ
そなたにとっては、実に皮肉な偶然よのう
いや、むしろ喜ばしいのか
…ふふ、どちらでも良い
そなたと余の願いは向かうところが同じなのだからな
その想い余が叶えてやろう
時よ───戻れ』
神がそう口にすると同時に
世界が色を無くし崩壊を始めた
緑美しい木々も
美しく輝く月も
少女と青年の流した涙の日々も
すべて遥かなる悠久の時の中へと無に帰していく
移ろいゆく世の幻かのように
***
ぐつぐつと鍋の煮えたぎる音と共に
辺りをいい匂いが立ち込めていた
大きなお屋敷の中にある
台所の中で
仲睦まじい男女が肩を並べ
共に朝食づくりに勤しむ中
ふと
互いの視線が交わる
『……ッ!!!?!?』
日常のほんの一瞬
目があわさる事なんてよくある事
いつもなら少し照れながらも共に笑顔を向け合うその温かな一瞬に
何故か二人して息をのむ
震えだす身体
手に握られた調理器具は床へと落ち
気付けば
互いの身体をこれでもかと強く抱きしめあっていた
瞳から涙がとめどなく溢れだす
分からない
先程まで
いつも通り共に朝食を作っていた
いつも通りおはようの挨拶をして
いつも通り共に階段を降り、ここで朝食を作り出したはずなのに
今目の前に居る存在をなぜだか信じられなくて
確かめるようにその身体に縋るようにその手を大きな背中へと回し着物をぎゅっと握りしめる
そうして触れ合った身体からはいつもの温かな温もりが伝わってきて
それが嬉しくて余計に涙があふれ出して止まらない
『お…にい…ちゃ……ッ』
『…寧々…ッッ』
涙が止まらないのはお兄ちゃんも同じようで涙混じりの声で必死に私の名を呼ぶ声が耳元から何度も聞こえてくる
触れ合う身体も力強く抱きしめられ
その大好きな温もりを感じる度に
大好きな声を聞くたびに
会いたかったと私のすべてが叫んでいるのを止められない
どうしてこんな風に思うのか分からない
どうしてこんなにも胸が張り裂けそうな想いに包まれるのかが分からない
胸に宿る様々な感情を抑えることが出来なくて
私達はただただ
涙を流し、互いを力強く抱きしめ合う事しか出来なかった
窓の外からは温かな優しい風が舞い込んでくる
その先の向こう
木々の覆い茂る森の奥深くから左右非対称の瞳が私達を静かに見つめ続けていたのだった
<寧々鬼化ifエンド真実の章 完> ↓
↓続きあり
↓↓
次ページこのお話の続き小説あり
●寧々に強制的に”あの世”へと魂を送られた薙翔が行きついた先は、
閻魔大王が死者の生前の行いを審判する審理の門であった
冥府の王と呼ばれる閻魔の元下される判決に薙翔が選ぶ決断とは───
寧々鬼化IFエンド真実の章番外編【あの世の薙翔】次ページ記載
『おっお兄ちゃんの事、男の人として好きなの!』
初めてお兄ちゃんに想いを伝えた日の言葉
お兄ちゃんに恋をして
日々お兄ちゃんと過ごしていく中で
私の中にたくさんたくさん増えていったお兄ちゃんへの想い
日々増えていく溢れんばかりの想いを
ついには抑える事が出来なくなって
気付けば私の口から出てしまっていた言葉
言ったあとに後悔して
否定されたらどうしよう
血の繋がりがなくても変わらず妹としか見られないと言われてしまったらどうしようと
色んな考えが頭の中をぐるぐる巡って
…怖くなってうつ向いて震えだす私を
真っ赤な顔をしながら『オイラもすげぇ好きッ!!!』と抱きしめてくれたあの日の事を今でも昨日の事のように覚えてる
幸せだった
いつも太陽みたいな笑顔でみんなを楽しませてくれる貴方が大好きだった
その心に大きな傷を抱えてても
優しさをけして失わない貴方がなによりも眩しくて大好きだった
ずっと
ずっとそばに居たい
他には何も望まない
私のすべてを差し出したっていい
何を失おうと
どんな苦しみや悲しみが待ち受けていようと
貴方の──”温かさ”を失わずにいられるのなら
お屋敷はもう目前
どくんどくんと早鐘のように鼓動が鳴りひびく
ふと朝のお兄ちゃんの姿が脳裏をよぎると同時に
この先の事を考えてしまい
つい止まりそうになる足を
一歩、また一歩となんとか先へと歩みを進ませる
進まなきゃ
この歩みが何をもたらすのか分かっていたとしても
私は止まるわけにはいかない
この心願う
大切な─大切な想いの為に
『寧々ー』
そう強く胸の中で再度決意した瞬間、私の名を呼ぶ声が耳へと届いた
聞き間違える…、はずがない
私の名を呼ぶ誰よりも愛おしいその声を
どくんどくんと心臓が激しく脈打ち息がつまる
止まってしまった…足取り
この先の事で思考が埋め尽くされ、震えだす腕を必死になって抑えようとする
声の主がどんどん自分の元へと近付いてくる足音が私の耳へと響く
目を見開き、私はうつ向きその場から動けなくなってしまった
『寧々、やっと見つけた』
声の主が姿をあらわす
微かに視界の端に見える足元を目にし
雨粒と共に汗が額から滴り落ちる
震える体をどうにか抑えながら
恐る恐る面をあげれば
朝と同じ漆黒のような真っ黒い髪の色をさせた貴方が笑みを浮かべてそこに居た
一見、落ち着きはらったような笑みを浮かべているようにも見えるけれども
どこまでも赤黒く光るその瞳は射抜くような視線を私へと向けていて
まるで獲物を見つけた猛獣のように
けれどもどこか恍惚としたような表情
その背後には見る者すらものみ込もうとする程の
果てしない漆黒の闇が広がっている
その姿には─、私の愛したあの優しい温かな貴方の面影はもうどこにもなかった
あたりの空気が重苦しい
今まで感じた事がないほどに目まぐるしいほどの張り詰めた陰の気
どこまでも深い闇が今にも私へ襲いかかろうとしているようで 恐ろしい
恐ろしくてたまらない
身体の震えが止まらない
大粒の涙の雫が、雨に混ざり私の頬へ流れ
地にこぼれ落ちていく
でもそれは恐怖からくる涙ではない
…こんなにも
こんなにも恐ろしい闇をずっと一人で抱えてきたの?
こんなにも悲しい闇をずっと一人で耐え抜いてきたの?
『……ッ………お…にい…ちゃ………』
目の前で広がり続ける闇に
頬を伝う涙が止まらない
………お兄ちゃん……ッ
『お…に……ぃちゃ………ご…め…なさ………ごめ…ん…なさ…ぃッ』
すべて…私のせいだ
『おに……ちゃ………』
自分は無力だとお兄ちゃんと向き合う事から逃げ続けた私のせい
あんなにもお兄ちゃんは苦しんでいたのに
ずっとずっと苦しんでいるのを私はずっとそばで見続けてきたのに
『逃げて…ごめ……なさい…ッ……何も出来…なく…てごめ…なさ……ッ』
雨と共に頬に伝う涙が止まらない
どうしてもっと早く勇気をもてなかったんだろう
どうしてもっと早く…ッ
後悔ばかりがとめどなく溢れだす
視界に映る貴方の姿が涙に滲み霞んでいき、
私の悲しみに満ちた小さな声をかき消すように雨音がどんどん強まっていく
『(……お願い…、どうか落ち着いて…ッ)』
目の前の現実から泣いて逃げないで…
どんなに後悔しても…、もう時間を戻す事は出来ない
どんなに嘆いても過去を変える事は出来ない…ッ
泣いていても、何も始まらない
思い出して
私がここに来た理由を…ッ
『…………お願い…
お兄ちゃんっ…きいて…ッ!』
涙で震える声を必死に抑え私は叫ぶ
『寧々は…ッどんなお兄ちゃんだって大好き…ッ
大好きなんだよ…ッッ!』
この想いに偽りなんてない
構わないの
貴方がどんな想いを内に秘めていようと
『お兄ちゃんがどんな想いを胸に秘めてても、
どんな願いをもってても寧々の気持ちはずっと変わらないッ!』
だって
だって
『だって寧々は知ってるから…ッ、
お兄ちゃんが誰よりも優しくて温かな人だって事は寧々が一番分かってる…ッ
お兄ちゃんは寧々から…大切なものを奪う人なんかじゃないッ
いつだって、たくさんのものをお兄ちゃんから寧々はもらっているんだよ!』
あの怖い飼い主さんの元で生まれ育った時も
二人で未知の外の世界で生きた時も
離れていた100年の月日の中でも
再会を果たせたあの日からも
『ずっと…、ずっとね
寧々の心…温かいの…。
どんなに悲しい事があってもずっと温かいの…ッ
…この温かさは全部、お兄ちゃんがくれたものなんだよ…
お兄ちゃんがたくさんの愛情を寧々にくれたから、どんな時だって寧々は幸せでいられたんだよ…ッ
お願い…ッ寧々の幸せを奪う存在だなんて…そんな風に思わないで…
自分の中にある優しさや温かさを否定しないで…ッ
寧々はお兄ちゃんの温かさが大好きなの…
愛してるの……ッ
………愛してるの…お兄ちゃん…ッッ』
私の悲痛な叫びがどこまでもその場へと響きわたり
天から地へと強く打ち付ける雨足はまるで私の涙のよう
霞む視界に貴方の姿は映らなくて
大きな闇だけがただひたすらにその場を覆い尽くす
ふと、雨の音にまざり石の転がるような音がした
涙で霞み消えてしまった貴方の姿が
ゆっくりと一歩
また一歩と
こちらへと歩みを進めてくるのが微かに見える
目前までその歩みがすすめられると
そこから伸ばされた腕に腰を力強く引き寄せられ
そのまま気付けば私の唇にはお兄ちゃんの唇が重ね合わせられていた
私の中の時が止まる
その腕は力強く私を抱きしめるのに
唇にはまるで壊れ物でも扱うかのように口づけられたから
その触れ方から優しい貴方を思い出し
私の頬からはまた雨に混ざり一筋の涙の雫がこぼれ落ちた
『………ああ、
俺も愛してるよ寧々』
目の前の瞳が愛おしげに細められ
その唇は私への愛を紡ぐ
『お…にいちゃ……ッ』
『だから…
大人しく俺に”喰われて”くれるよな?』
そしてその瞳はまた赤黒い捕食者の瞳へと変わり果ててしまった
僅かに出ていた陽の光が
雨雲に隠れ、世界に闇が落とされる
…………分かってた
こうなる事は、もう既に分かっていた
5年前のあの日
令月さんのご遺体をお屋敷に運ぶ際、お師匠様から聞いていたから
陰の気に蝕まれたものは”二度と自我を取り戻すことはない”と
私を射抜くように見つめる瞳をまっすぐ見つめ返す
どこまでも赤黒い血のような獲物を狙う瞳
あの優しさに溢れた
私の大好きだった美しい瑠璃色の温かな瞳は消えてしまった
目の前にあるのは獲物をどこまでも狙いさだめる捕食者であって、その瞳からはお兄ちゃんの温かな面影などもう少しも感じられない
なのに…、
不思議だね
貴方への想いが少しも色褪せないの
私を彩るすべてが
こんなにも目の前の貴方を愛おしいと叫び続けてる
…だから、迷わずこの道を行ける
『……ッ!?』
手に抱えていた書を目の前のお兄ちゃんの胸に叩きつけるように翳すと同時に
私の周りを風が吹き荒びはじめた
その風の勢いに私を抱きしめていたお兄ちゃんの身体も少し吹き飛ばされてしまう
その姿を目で捉えながら
少しずつ…少しずつ、書から体に伝わる力を開放していった
『……寧々…?』
額が熱い
体の奥底から何かがはい出てくるようなそんな錯覚が押し寄せる
深い深い闇が地の底から這い上がるように私の中からあふれ出すのが止まらない
お兄ちゃんも…こんな感じだったのかな
『………な…んだ?』
嵐のように私の周りを激しい風が舞い、お兄ちゃんは私に近寄る事も出来ない
あんなにも激しく降り注いでいた雨はいつのまにか止み、かわりに耳を劈くような雷鳴が鳴り響き
同時に私の中に溢れだす闇が外へ外へと溢れだし、目まぐるしく私の身体を変化させていった
『おい寧々…ッ!!』
私の想い
結局お兄ちゃんに届ける事
出来なかったな
『寧々…ッ!!』
…でも、それでもいい
もっと守りたい
大切なものが私にはあるから
『ッ!?』
私の身体を包み込んでいた闇が解き放たれ
突如辺りに静寂が訪れる
風がやみ
あたりを舞っていた砂ぼこりも落ち着きはじめ
私の姿がお兄ちゃんの瞳へと映し出されていく
『寧々…お前…、
そのすが……ッッ!!?!?!?!?!?』
お兄ちゃんが驚きの声をあげたのと同時に
私の牙がその肩を勢いよく貫いた
『ぐぅぁあああッッッッッッ!!!!!?!!?!!!!
あ…ァァア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!!!!!!!!!ぐっぅうぁア゛ッ!?!?』
お兄ちゃんの悲痛な断末魔がその場へと響き渡る
でも私はその牙を弱める事なく更に追い打ちをかけるようその肩に容赦なく噛り付き、お兄ちゃんは抵抗もむなしくなすすべ無く私にその身を捕食されていく
抵抗しようにも力がうまく入らないようだ
当然だろう
お兄ちゃんは、その身に埋め込まれた黒曜石によって身体だけでなく魂までもが極限まで弱りきっていた
そんな中、普段の私ならともかく
魂成鬼伝によって鬼と化してしまった私になど今のお兄ちゃんが敵うはずなどない
『ぅぁあ゛ァ゛アア゛゛ッッ!!!!!ぐぁ…ふぅア゛ッ!!!!!!!!!!!!』
お兄ちゃんの断末魔がただひたすらに響き続ける中
私は止まることなく
お兄ちゃんを咀嚼し続け
あたりには雨の匂いに混ざり血の匂いまで充満しはじめた
口の中も鉄さびの様な香りでいっぱいになる
それでも私はけして止まることはなかった
口の中に運び込まれるお兄ちゃんだった”物”をひたすらに咀嚼し飲み込んでいく
飲み込んでいく
いつのまにかあれだけ響き渡っていたお兄ちゃんの断末魔も止み
あたりには私の咀嚼音のみがしていた
白髪だった髪は貴方から流れる血のように赤く染まり
額から伸びるニ本の角はまさしく鬼の象徴
異様な光景
そこには大きな血だまりの中
涙を流し愛する人を咀嚼し続ける私の変わり果てた姿があった
思考を停止し、ただただ口元だけを動かし続ける
そうしていると
ふと視界の端に私の頬へと向かい伸ばされる手が映し出された
うまく働かない思考の中
その手を見つめ、そのまま手の先の顔の方へと視線を移していく
すると今にも息絶えそうなお兄ちゃんの瞳と目が合わさった
口の端から血を流し
その瞳にはもうほとんど生気を感じられない
あのギラついた捕食者の瞳ももうなりを潜めてしまっていた
目を合わせたまま少しの沈黙の流れた後
その口元の広角が僅かにあがっていく
『お…マエに……くわ…れ…………ル…のも…
わ………るク…ね…ェな………』
…その言葉を最後に
その瞳に宿っていた僅かな生気さえも消えてしまった
あたりを静寂が包み込む
私は…、
震える手でその頭をそっと胸へと抱き寄せ
声を押し殺し涙をこぼし続けたのだった
***
あれから─
どれくらいの時間が経ったのだろう
気付けば私は
深い深い山の奥深くの森の中に1人たたずんでいた
手には愛しさ故かいつのまにか持ち出した、お兄ちゃんの私物の入った風呂敷包みが握られている
余程山の奥深くまで来たのか小鳥のさえずりも獣の気配さえも感じない
『(…よかった)』
自分の居る場所を認識し
少し安堵する
だって…、何も存在しない場所でなら鬼としての破壊衝動を起こす事もない
…私は、はじめからこうするつもりだった
どんな理由があろうと他の誰かを傷つけていい理由にはならない
誰も…、傷つけたくなかったから
だから、鬼となった暁には誰も近寄る事のない山の奥深くで
残りの余生を1人過ごそうと思っていた
再び止まっていた歩みをすすめはじめる
どこへ向かおうとか特に考えなどない
何も存在しない場所ならどこだっていいの
そうして歩き続けていると
ふと洞窟らしきものを発見した
特に行く宛などなかった私は
なんとなくその洞窟の中へと歩みをすすめていく
薄暗い穴の中
奥へ奥へと進むたび
視界から徐々に光が失われていき
まるで…眠りにつく際の夢に落ちる瞬間のようだと思った
でも口の中に広がる鉄さびのような香りが
この思考を夢へと誘ってはくれない
ふと
力なく私はその場へとへたり込んでしまった
手に握られたお兄ちゃんの私物の入った風呂敷も冷たい地面へと落ちていく
その風呂敷包みが地面へと触れ合う瞬間
中からカラーンという音が鳴り響き
その音が洞窟内に大きくこだました
呆然とする意識の中
響く音に思考を奪われる
なぜそのような音がしたのか気になり
私は風呂敷包みの結び目に手をかけた
中にはお兄ちゃんの着物が数着と手ぬぐいなどが入っており、妙に細長い形をした小さな風呂敷包みも一緒に出てきた
音の出処はどうやらこれのようだ
なにやら長方形の形をした何かを小さな風呂敷で包んでいるようで
視界が暗くあまりよく手元が見えない事から、風呂敷の中にあったろうそくに火を灯し、そばにおく
そうして小さな風呂敷包みの結び目にも手をかけ結び目をゆっくり解いていった
すると、中から出てきたのは上質な白樺の木で出来た長方形の箱だった
『……ね…ね…』
かすれた声を発っしながら震える手でその滑らかな箱の表面に指先でそっと触れていく
そこには慣れ親しんだお兄ちゃんの字で私の名前が彫られていた
『(どうして……寧々の名前…が)』
ぼんやりとした思考が動き出し
心臓が脈打つ
震えだすその手の指先をどうにか抑えながら
静かに箱の蓋を開けてみた
するとそこには
美しい造詣の施された銀色のかんざしが箱の中に収まっていて
またもや震えだしてしまう指先でそっとかんざしを手にする
『……アン…グ…レ………カム……?』
銀色に光り輝くかんざしの飾り部分には美しい造詣の銀細工の花が施されていた
アングレカムの花
この花には見覚えがある
かんざし職人だったお兄ちゃんは
自分の手がけるかんざしには一切の妥協を許さない人だった
飾りに施す花にも縁起の悪い花は使いたくないと
部屋に花言葉の本が置かれていて、前にその本を読ませてもらった事がある
アングレカムの花はその時に本の中で見かけたもの
花言葉がまるで
私の…お兄ちゃんへの想いのようで印象に強く残っていた花
その時の想いが呼び起こされ
瞳の端から涙が再びこぼれ落ち
箱の中を濡らしていく
『…ッ…………?』
そのこぼれ落ちた雫を追うように、
箱の中へと視線を向ければかんざしが入れられていた底に、箱の大きさには合わない紙が入っている事に気がついた
箱からそっと紙を取り出してみる
するとそれは1枚だけでなく、何枚も何枚も同じ紙が入れられているのだと気がついた
私は───その紙に見覚えがあった
『……短冊?』
お兄ちゃんと暮らし始めてから想い出作りの為にたくさんの行事を共に過ごしていた私達
七夕も…その中の一つ
一緒に短冊に願い事を書き
願いを星空に共にかかげた日々が脳裏をよぎる
お兄ちゃんが短冊に何を願ったのかは分からない
『恥ずかしいから内緒ってやつだ!』
と照れ笑いを浮かべたお兄ちゃんの顔を思い出す
いけないとは、分かっていても
私はどうしても何が書かれているのか気になってしまい
その紙をそっと表へと捲ってしまった
するとそこには
…すべての紙に同じ文字が綴られていた
”寧々と夫婦(めおと)となり
生涯大切に愛し続けたい”
『……………ッ…』
言葉が…失われた
『………ァ…………ッ』
私の喉からは声にならない声が幾度も
出ようとしては消え 出ようとしては消えていき
雨粒のような雫が頬を伝い何度も何度も地に落ちていく
”寧々の事
まだ嫁にもらってねぇもんな”
今朝のやりとりの言葉が脳裏へと響きわたり
ふれた唇の温かなぬくもりも
力強く抱きしめられた優しいぬくもりもすべてが呼び起こされる
『お…………に……い……………ッ……』
一体どれだけの想いを込めて
このかんざしを作ってくれたのだろう
一体どれだけの祈りを込めて
この短冊に願いを綴り続けてくれていたのだろう
私を包み込む温かさがまた強まるのを感じる
『おにい…………ちゃ………ッ』
『随分と暗い所に居るのう』
『!!!?』
突如背後から聞こえてきた声に私の思考は…遮断された
涼やかで凛とし、それでいて圧倒的な存在感を醸し出すその声を聞き間違えるはずがない
背を向けたまま動かぬ私とは対象的にいつもどおりの軽やかな声でお師匠様は語りだす
『ほぉ…、それは薙翔の簪ではないか?』
『……ッ』
慌てて胸元で簪を握りしめる
『ふふ…、なにも隠さんでも良いだろう。
その簪なら余も見た事があるのだぞ。
少し前に薙翔が見せてくれたのよ。
確か……、
そなたへの求婚の証に渡すと言っておったのぅ。』
『…………………』
『随分と嬉しそうに話しておったのを覚えておる
ふふ…、そうか
無事そなたの手へと渡ったのか。
薙翔もきっと喜んでおるだろう』
『……………………
………………何をしにいらっしゃったのですか?』
酷く…冷たい声が出たと思う
今の私には目の前の相手を敬える程の心の余裕はない
でもあくまでお師匠様はお師匠様のままだ
私のぞんざいな態度など特に気にするでもなく
変わらぬ口調でいつだってこちらの予想を容易に超える発言をなされるのだ
『余を喰ろうてみる気はないか?』
『…ッ!?』
こうしていとも簡単に
『先程のそなたと薙翔のやりとりを見ていて思ったのじゃよ、そなたの中にも薙翔と同じ”変わらぬ想い”があるのではないのかと。
そなたが余を喰らえば余の望むものが変わらずに手に入るのではないかとな』
やめて
『どうじゃ?余を喰ろうてみる気はないか?』
やめて
『ここでこのまま1人孤独に生きるより──ッ!』
お師匠様が言葉を言い終えるか言い終えないかの瞬間
洞窟内には突如大量の血飛沫が舞い散った
それで止むことなどはなく、血飛沫はどんどんと舞い、洞窟内の壁を赤黒い血がどこまでも濡らしていく
『………何をしておるのじゃ?』
その言葉には一切耳を傾けず
私はひたすらに血を飛び散らせる
洞窟内に舞散った血は私の血だった
私が私自身の身体を引き裂いていった際に飛び散った鮮血
くぐもった声で痛みを堪えながらも私は自身の身体を引き裂くのをやめはしない
『……もしや、余を喰らわぬよう破壊衝動を抑える為か?』
投げかけられる疑問には耳を貸さず
私は私の身体を尚も引き裂いていく
『だとすれば…、なんと意味のない事を。
知っておろう、そなたの身体は既に鬼の身。
鬼には元来再生能力がある。どんなに身体を引き裂こうとその身に受けた傷はすべて…』
『なら何度でも引き裂くまでですッッ!!!』
私の叫びが洞窟内に響き渡った
『私のお兄ちゃんへの想いは…私だけの物よッッッ!!!
誰にも渡したりなんかしない…ッッ
帰ってください………ッ!!!
かえってッッッッッッッ!!!!!!!!!!!』
悲痛な叫びが洞窟内にどこまでもこだまする
渡したりなんかしない
私の心はすべてお兄ちゃんだけのもの
この心を包み込む温かさはすべて私だけのもの
誰にも渡したりなんかしない
絶対に…
絶対に…ッッ
『………やれやれ、どうやらそなたは余が思ってる以上に頑固者のようじゃのう。
仕方ない。
気が変わったら余を訪ねてくるがよい。
いつでも待っておるぞ』
そう告げるとお師匠様は
その場をさっさっと立ち去ってしまった
あとに残った洞窟内には私の涙混じりの声だけが小さく響くのみ
『………分かっているのですか、お師匠様
私の心を支配するということは、愛する想いを知ると共に
失う哀しみも知る事になるのですよ……ッ』
***
それから幾日も月日が過ぎていった
あれからお師匠様は一度も訪ねては来られなかった
お陰で私はこの山奥で静かに1人過ごせている
洞窟のそばにはお兄ちゃんのお墓を作ったんだ
…中身はないんだけどね
お師匠様に少しも触れて欲しくなくて
私が全部…、食べてしまったから
中身がないなんてお墓の役割を果たせていないような気もするけど、それでも何もないのは悲しいから石を積み上げて作ったの
毎日毎日、私はそこでお兄ちゃんに話しかけてる
今日は何をしたのかとか
何を見たのかとか
特にする事もないから
このあたりの周辺を散策した時の話
『今日はね、すごかったんだよ。
たんぽぽの綿毛を見つけたの、もう春なんだね。
まさかこの辺りまで綿毛が飛んでくるなんて思わなかったから、びっくりしちゃった』
そう言いながら私は自身の後ろから別の花を取り出してみせた
『うふふ、見てみて!
今日はね、お花だってあるんだよ。
たまにはお兄ちゃんだってお花見たいかなと思って。
勿忘草…綺麗だよね。
令月さんのお墓のお世話の為に式神を送ったんだけど、その帰りに持ってきてもらったんだ』
手にした花をお墓のそばにそっと埋めていく
『積んだら可哀想だから土ごと持ってきてもらったんだよ。これならお兄ちゃんも長い間お花を見てられるね』
少し前に降って溜めていた雨水をほんの少しお花へと垂らす
心なしかお花が元気になったような気がして頬に笑みが溢れた
『ねぇ、お兄ちゃん』
優しい風が頬を温かく掠めていく
『”…本当はあの時、
自我を取り戻していたんでしょ?”』
涙を流しお兄ちゃんを咀嚼し続けていた私の頬に
お兄ちゃんの手が伸ばされたあの時
視線が合わさったあの瞬間
お兄ちゃんの瞳にいつもの温かさが一瞬宿っていたのを私は見逃さなかった
『寧々が後悔しないように
…演技してくれてたんでしょ?』
お兄ちゃんはあの時には既にもう、虫の息だった
あの瞬間に自我を取り戻してしまって
そうして…、それをもし私が知ったら
もっと他に方法があったんじゃないかってきっと私が後悔してしまうと思ったんだと思う
お兄ちゃんは…そういう人だから
いつもいつも私の心の事ばかり
『お兄ちゃんの想い
全部ちゃんと、寧々に届いてるんだよ
見逃さないよ…だって、大好きなお兄ちゃんの想いだもの
だから寧々、後悔なんてしないよ
お兄ちゃんが必死に守ろうとしてくれたんだもの
後悔なんて絶対しない…
ありがとう…っ
ありがとう…お兄ちゃん…ッ』
頬を温かな涙が伝っていく
胸の中にも温かな想いが広がっていく
私を彩るすべてがまだ
こんなにもお兄ちゃんの優しさで包まれてる
『お兄ちゃん、
お願いがあるの』
涙を拭い私は再度愛しい貴方へと言葉を投げかける
『寧々、きっと…地獄に落ちると思うんだ
どんな理由があろうと鬼になってしまったし、
それにお兄ちゃんの事…食べちゃったから。
でも、大丈夫。
覚悟は出来てるから』
ふと空を仰ぎ見て
遠い記憶の彼方の出来事を思い出す
”どんな理由があれけして許されない行為だ。
僕は地獄に落ちるだろう。
そこで罪を償わなければならない。
心構えは出来ている”
一時、まだ普通の猫だった時に
共に過ごした家族のような間柄だった創一さんが残した言葉
創一さんも…、同じような気持ちだったのかな
『…覚悟は出来てる』
再度自分の気持ちを認識するように言葉を呟く
『だから……、
だからね
寧々頑張るから
一生懸命頑張るから…
だから…また生まれ変わってもう一度巡り会えたら、今度こそお兄ちゃんのお嫁さんにしてほしいの…ッ』
私の髪を結うアングレカムの簪が陽の光で優しく光り輝いた
『約束だよ……お兄ちゃん…』
そうしてまた幾度となく月日が過ぎていった
春が来て
夏が来て
秋が来て
冬が来て
目まぐるしい月日が移ろい行く季節と共にどんどん過ぎ去っていく
変わらない同じ日々を過ごし続ける事
およそ100年
とうとうその時はやって来た
空には金色の美しい満月が輝いており
地面に転がる私はその月の光を見つめながら
自分の終わりが少しずつ近付いてくるのを感じとる
その口元には目の前で輝く月の光を見て笑みが溢れている
だって
温かな優しい光がまるで貴方のようで
こんな時でも貴方の温かさを感じる事が出来て
嬉しくて幸せだから
愛おしさから指先をそっと月へと伸ばす
『あ………い…して…………る……』
その言葉と共に1陣の風が空へと舞い上がる
まるで彼女の言葉を愛しい彼の元へと届けるように
『…逝ったか』
木々の奥深く
大木の枝に腰をおろし、左右非対称の瞳が少女の亡骸を色無く見つめ続けていた
『愚かな娘よ…
これほどまでに恋い慕うなら
なぜ喰らったあの日に魂(薙翔)をあの世へと強制的に送り届けたのか
分からぬ…、わからぬのう』
その謎をまるで問うように非対称の瞳は空に輝く月を見上げるが
しかしすぐ様その口元には笑みが彩られ
言葉が再び紡がれる
『知っておるか寧々、世の名は中国語で
”さようなら、また会いましょう”
という意味なのだよ
そなたにとっては、実に皮肉な偶然よのう
いや、むしろ喜ばしいのか
…ふふ、どちらでも良い
そなたと余の願いは向かうところが同じなのだからな
その想い余が叶えてやろう
時よ───戻れ』
神がそう口にすると同時に
世界が色を無くし崩壊を始めた
緑美しい木々も
美しく輝く月も
少女と青年の流した涙の日々も
すべて遥かなる悠久の時の中へと無に帰していく
移ろいゆく世の幻かのように
***
ぐつぐつと鍋の煮えたぎる音と共に
辺りをいい匂いが立ち込めていた
大きなお屋敷の中にある
台所の中で
仲睦まじい男女が肩を並べ
共に朝食づくりに勤しむ中
ふと
互いの視線が交わる
『……ッ!!!?!?』
日常のほんの一瞬
目があわさる事なんてよくある事
いつもなら少し照れながらも共に笑顔を向け合うその温かな一瞬に
何故か二人して息をのむ
震えだす身体
手に握られた調理器具は床へと落ち
気付けば
互いの身体をこれでもかと強く抱きしめあっていた
瞳から涙がとめどなく溢れだす
分からない
先程まで
いつも通り共に朝食を作っていた
いつも通りおはようの挨拶をして
いつも通り共に階段を降り、ここで朝食を作り出したはずなのに
今目の前に居る存在をなぜだか信じられなくて
確かめるようにその身体に縋るようにその手を大きな背中へと回し着物をぎゅっと握りしめる
そうして触れ合った身体からはいつもの温かな温もりが伝わってきて
それが嬉しくて余計に涙があふれ出して止まらない
『お…にい…ちゃ……ッ』
『…寧々…ッッ』
涙が止まらないのはお兄ちゃんも同じようで涙混じりの声で必死に私の名を呼ぶ声が耳元から何度も聞こえてくる
触れ合う身体も力強く抱きしめられ
その大好きな温もりを感じる度に
大好きな声を聞くたびに
会いたかったと私のすべてが叫んでいるのを止められない
どうしてこんな風に思うのか分からない
どうしてこんなにも胸が張り裂けそうな想いに包まれるのかが分からない
胸に宿る様々な感情を抑えることが出来なくて
私達はただただ
涙を流し、互いを力強く抱きしめ合う事しか出来なかった
窓の外からは温かな優しい風が舞い込んでくる
その先の向こう
木々の覆い茂る森の奥深くから左右非対称の瞳が私達を静かに見つめ続けていたのだった
<寧々鬼化ifエンド真実の章 完> ↓
↓続きあり
↓↓
次ページこのお話の続き小説あり
●寧々に強制的に”あの世”へと魂を送られた薙翔が行きついた先は、
閻魔大王が死者の生前の行いを審判する審理の門であった
冥府の王と呼ばれる閻魔の元下される判決に薙翔が選ぶ決断とは───
寧々鬼化IFエンド真実の章番外編【あの世の薙翔】次ページ記載