8月 Somersault ーとんぼ返りー

ある日の夕方。標的の建物の警備の行き届かない場所から、マンホールの下を通って逃げてきた、その帰り。川の向こうにビルが見える土手の上を、一人で歩いてたときのこと。

ここは木が多い。土手の上に林ができてる。ほとんど、土手のフチにある川沿いの道にしか日光が当たらない。
この広い林は、狂った奴が夜中に死体遺棄をしに来るとか、時々ろくでもない集団が溜まるとか、もっぱらの噂だった。俺はそういう奴らとは関わりたくもないから、普段…特に夜は、滅多に川辺に来たことはない。そもそもこの町全体がろくでもない奴らの溜まり場みたいなもんだが、この林はその中でも群を抜いて…。

ただ幸いにも今はまだ日の差す時間だった。日のある間なら、頭のある奴は、目立って溜まることはまず無い。
ここへ来たのはもちろん、仮に向こうにバレて追われてたとしても身を隠せるようにするため…のはずだった。それにしたって、バレてる気配も、追っ手が来るような気配も、ありはしない。要するに、向こうの痛いところを突いたわけだ。もうその建物は十分遠い。今何かに気付かれたとしても追いつけないだろう。
さすがにずっと林に入ったところに居続けるのも、噂を思うと落ち着かない。そこで、ひとまず林を出て日の当たる道に戻ろうとして、一瞬、黒いものが目に入った。

林と日の当たる道の境を、それは真っ黒い…だがとても害虫には見えない虫が、飛んでる。どう見ても、その形はトンボだ。

一目でトンボだとわかる見た目をしているのに、胴体から羽まで、全身が黒い。
…そこまで見て、ふとあいつの話を思い出した。

この…今俺の前に何匹もいるのは、おそらくハグロトンボだろう。
あいつが子供の頃によく見てたという話を聞いたことがあった。数が減ったか何かで、大人になったら滅多に見なくなったと…。そういやその時も、近くをそれらしいのが飛んでた気がする。だからその話になった。
寝てるときの夢にその光景が出たこともあるらしい。

偶然にもこの街にはこのトンボが多く残っていた…そういうことだ。
あの時はただたまたま飛んでただけだと思ったが、この川辺の景色を見るに、そういうわけでもないように思う。

当然、秋から冬にかけては虫であるトンボの数は減るだろうから、見るなら今がいい。今を逃すと、きっと次に出てくるまでは見られない。

これだけこの街にいるはずなのに、なんで今まで…。
そうだ。ここには滅多に来たことがないからだ。
…というよりも、どの道、俺はあいつに会うまで余計な道草をするようなことがなかった…。最近まで知らなくて当たり前だ。


木の下の植物にとまってまだ残る暑さをしのぐトンボ。ゆっくり境をうろうろと飛ぶトンボ。
その道を歩きながら、早いうちにあいつを連れてこようと思った。そうしないと、こいつらがみんな、いなくなっちまうから。
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