五章
早く逃げなければと焦った彼女は、そのゆるく掴まれた手を振りほどいて後ろへと向き直り、路地を出ようとした。
だが、数歩ほど速足で歩いた末に、路地の入口にもまた、別の男が立っていることに気が付く。
一瞬、何事かと、気が動転しうまく思考が回らなかったが、その男もゆっくりこっちへ向かってきたところで、合点がいく。
見事なまでに、挟み撃ちを喰らってしまっていたのである。
「大丈夫だから。早く。ついてきてよ。」
もともと自分を連れてきた男が、また後ろから追い打ちをかけるように声をかけて、こちらに近づいてくる。
足が地面に張り付いてしまいそうだったが…彼女がひとつ、ひらめいたものは。
…平手打ち。
「…いっ!」
バチンと音がして、路地の入口から来ていた男が顔を抑えて身を屈め、その横を一か八かで走り抜ける。
目のすぐ下あたりを思い切り叩かれたその男は、痛みに耐えながら遅れて追いかけようとするが、もう一人に、返り討ちにあったらまずいと止められ、追わずに失敗に終わったことへの舌打ちをした。
逃げた彼女は、あまりに怖くて、後ろを振り返る余裕もなく、出せる力を出し切って走っていた。
幸いにも道を間違えることなく、近くの路地まで帰ってきたが、周囲に誰もいないことを確認することすらも、怖くてなかなかできない。
そこまで来て走るのを止めると、今度こそ、地面に足が引っ付いて動けなくなってしまった。
子供の頃から運動が大の苦手分野だった彼女が全速力で走ったので、脚は疲れて筋肉が痛みを発し、呼吸もひどく荒れている。
静かな路地の中、また誰かに声をかけられるんじゃないか、誰かに攫われるんじゃないかと、ひたすら恐怖心だけを募らせていると。
「…お、おい、帰ってきたのか。」
その声は、つい数時間前まで一緒にいた友達…。タロウだった。
「…あ、うん。」
安心感に一気に力が抜け、引きつった体も、地面に張り付いた足も、ようやく動かすことができる、と思っていると。
「どうしたんだ?」
少し様子が変だと気づかれたのだろう、彼が質問を飛ばす。
しかし、彼女は素直に答えることができず、「…なんでもない。大丈夫。」と…平静を装って、そう答えてしまった…。
その日あった出来事は、結局、結蓮と結蘭の双子にも、言うことができずに終わってしまう。
夜は、布団を被ってもなかなか眠れず、もし誰かがまた自分を探しに来たらどうしようかと、そんなことを考えては、怖くなって思考が止まる…その循環から抜け出せない。
無事に逃げてこられたのだからそれでいいだろう、と、必死に心をなだめて深呼吸を繰り返し、数時間経ってやっと、眠りについた。
そのまた数日後のこと。
「あの子、あんまり外出てないみたいなのよ…。」
結蓮が受話器を握っている。
「…聞いたけど教えてくれないの…。でもあなたも違うのね…。前はよく近くで猫撫でに行ってたんだけど…もう何日か外に出てなくて…。」
その内容はもちろん、彼女が引き籠って外に出ようとしないだ。
異変を感じつつ、なかなか聞きだすことができない、そんな結蓮が頼る人物は、一人だけである。
「…もし外でなんかあったとしたら、もうあなたしかいないでしょ?それに…。」
…その数時間後には、彼女の前にクールがいた。
「…一人でどこに行ってた?」
彼に聞かれて、ようやく、誰かに攫われそうになったと、そう口に出した彼女の前に…。
