哀と愛

「ホラ、あんた。早く用意しないと!もう遅刻する時間だよ?」
そう軽く怒って立ち上がる…お母さん?

懐かしい木造の床。私はテーブルの前の椅子に座ってた。
テーブルの上、たぶん私が食べるまで目玉焼きが乗っていたんだと思う、目の前の平べったいお皿を見る。

───  …あれ?
お母さんがさっき座っていた長椅子の奥には、アップライトピアノ。
そしてその上に時計。
左に顔を向けたら、離れた位置にある液晶テレビから感じる、何か懐かしいもの…。

───  なんで…?
どう見ても、それは昔の風景だったんだ。
でも、もしかしたらこれが現実なのかもしれない、と思って。今まで現実だと思って見てきたものが長い長い夢だったのかもしれない、と思って。
…時計がある方に顔を戻しながら、椅子から立ち上がろうとした、その時。

景色がじわ…って、変な色になって。
濃い緑のような。その中にちょっと赤が混じったような。黒いような…。あの、フラついたときに見る、ひどいノイズが入ってるみたいな色で、景色が染まった。

ぼんやり認識した時計の針。
8時か…。


──────


我に返る。布団の中だった。隣でクールが一緒に寝てる。
やっぱり今までのは夢だったんだ。

昔を思い出す、変な夢。たまに見るタイプの、やけにリアルな夢。
あれはたぶん、まだ中学生の時。
高校は、引っ越す前も遠距離通学してて、出る時間がかなり早かったから。

そんなことをただ考えて認識しながら、そ…っと、寝返りを打って、背中を向ける。

現実みたいな感覚がしてたから、一瞬これがホントなのかなって思ったけど、今考えたらあれは間違いなく現実じゃないってすぐわかるよ。
そもそも、遅刻したことないしね。ギリギリになることはあったけどさ。
いつも出てた時間より30分くらい遅れてたよね。8時って。もうあと15分もすれば、"朝の会"、始まる時間だったじゃん…。
それに、朝なのか夜なのかわかんなかった。
夢の中で見てたあの懐かしいリビングは、電気がついてなかったけど、暗くて、夜みたいで。
でも、あれは学校に行く前のことだから。
現実だったら、朝じゃないとおかしいんだよね…。

言葉じゃ言えないような複雑な気持ちが込み上げてきて、苦しくなった。
縮こまって息を吸いながら口を結ぶと。

後ろの布団が動いて、伸びてきた腕にゆっくりくるまれる。
その瞬間、涙が溢れてきた。
泣きたくなくて耐えてたのに。気付かないように後ろ向いてたのに。これじゃ意味ないよ。
荒れてきた息で、泣いてるのがバレバレだ。

「そうやってすぐ隠す…。」
大きい手でトントンってしながら、静かにそう言われる。
「…こっち向きな…。おいで。」
なんで…なんで優しいんだ…。
言葉をかけられて、またそっちの方に寝返りで向き直る。抱きしめられて、泣きながら頭を押し付けた。

家族のことを話すのは、まだちょっと先になりそうだけど。
「…寂しくなった?」
そう言われながら背中を撫でられて、小さく頷いたとき、こう思った。
助けられて帰ってきた、"あの時"みたいだって。
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