旧詩
彼は言った。
その死神に。
恐怖を忘れる事の恐ろしさを、体の芯に焼き付けながら。
そして今日。死神の手をした自分に驚き、彼の中の彼を間違う様に消し去った。
最初はただの間違いだった。
それに気付いて修正しようとしたとき、修正液が溢れだした。
真っ白になった紙の上。
何があったのかを忘れてしまった。
もう元には戻れない。"戻る"ボタンが無い事を思いだした彼は落胆し、絶望した。
「嗚呼、君は僕を殺すのかい?」
ただ訊いただけ。
悪魔の様な笑顔さえ、彼にはきっと意味が無い。
忘れる事の恐ろしさよ。
つまらなそうな死神は深い闇の中で消えてしまった。
静まりかえる世界、街灯に群がる蛾の羽音、月さえ見えない夜空。
そんなものしか見えない道端で、彼は人殺しになった。
殺した人とは、彼自身の事なのだけれど。
詳細を言うと、彼の中の彼を殺した。
地上に自分しかいない気がして、ふと立ち上がる。闇が自分と同じものに見えていく。
何故、あの時修正液が溢れだしたのか。
多分、恐怖で手に力がこもっていたのだろう。
忘れる事の悲しさよ。
あったものが無くなって。
無くなった事も忘れてしまう。
沢山のものが消えた筈なのに彼は気付かない。
消える前の事を忘れてしまったから。
ただ、自分が空っぽに見えた。
何も無い。
最初から無かったのだろうか。
何か変。
完成しそうな積み木の前で、彼は何処かへ行ってしまった。
積み木はもう、完成しない。
忘れる事の儚さよ。