白と黒 ~モノクローム~

 
   第一話、出会いと邂逅



     1.

 その年の梅雨は、例年より少し長引いていた──。



     ◇

 ザザ降りの雨、目をチカチカとさせる行き交う車のライトと街のネオン。遠く聞こえるクラクションの音は、激しい雨音に飲まれていった。足下に落ちた“ソレ”は、既に“無機物”で。体の奥、内側の底の方へと冷たい痛みが蓄積されていくのをまた感じた。
「それ、手伝わせてくれませんか」
「………」
 耳鳴りのようだった雨音が、ボツボツと籠った音(ね)に音を変えて。遮られた街灯の明かりと雨に、静かに相手を向いた。睨んでいるつもりは全くなかったが今の心痛な面持ちからきっと、自分の目つきは最悪だっただろう。しかし、相手の言葉は声色を変えることもなく、ただ静かに続いた。
「その猫(こ)。どうするか、もう決めてる? 何か手伝わせて。どこかに連絡とかする? 何かして欲しい事とかある?」
「……、もう死んでるんで…」
「…そっか。じゃあ、そっちの荷物とか持とうか──」
「……お願いします。」



     ◆

 世の中には、雨の匂いを好む人らもよく居る事を知っている。でも、自分は実際の所、雨の匂いをあまり好きにはなれない。何故かは、今は割愛するとして。その日、その場所で出逢ったその背中は。憂いを十二分に感じさせるものだったから、どうしても言葉を掛けずには居られなくって。“彼”に向かって踏み出す事への迷いは一切、何も感じさせなかった。

「……、もう死んでるんで…」

 こちらを鋭く見上げる眼差し、男子らしい体躯、立ち上がった際に僅かに自分より大きかった背丈にも。別段、自分が尻込みするなんて事はなかった。…彼を包み込むモノ達が、それらの必要性が無い事を指し記していたから。



     ◇

「──君、誤解されやすいでしょ?」
 車に撥(は)ねられていた子猫を弔(とむら)い、手を合せ顔を上げた時だった。
「そんな顔してるな、って」
相手は少しだけ目を細めて、差し掛けていた傘を自分へと握らせると、自身も猫の即席の墓の前へとしゃがみ込み手を合せた。
「……。何すか、それ…」
立ち上がった相手と、一度は合った視線を故意に外して自分の傘を広げてから、差していた傘を相手へと返した。
「ありがとう」
「いえ、こちらこそ」

 別れ際になって、名前を聞かれた。そんな必要もないだろうとは心の中では思いつつも、当たり障りを考えて少し悩んだ挙げ句に苗字だけを名乗った。
「─天音くん、」
ハイ、とばかりに気不味げに適当に頷いて。黙った相手へ、自分は名乗らない気かよと視線を戻し「あの…」と言い掛けたところへ。
「僕は、陣内っていいます」
そう言って陣内はどこか照れくさそうに笑ってみせた。
 改めて見るに、年格好的には自分とそう変わらないくらいに見えるが。人種的に? 自分とは、あまり合わないタイプの人間に見えた。

「天音くんは、この辺に住んでるの?」
「…世間話とか。勘弁してくださいよ。こっち、雨濡れてんすから。七月の末って言っても風邪引きますよ、これじゃあ俺」
「うん、そうだね。ごめん。いやさ──…」


「はぁあっ!? 終電、逃がした──?!!」
 夜の公園に素っ頓狂な俺の声だけが、こだました。…雨は、いつの間にやら晴れていた。





     2.

 終電を逃した。その事に関して、嘘は無い。…だからといって、彼の善意──或いは、自分に声を掛けてしまったが為に優人が終電を逃したという罪悪感からだったのかも知れないが──に付け込んでまでも、優人にはどうしても誠二について確かめたい事があったのだ。

 天音誠二(あまねせいじ)に連れられ、陣内優人(じんないゆうと)は誠二の住むアパートを訪れていた───。



     *

「お邪魔します」
「散らかってっからなぁ~、ホントに…」
「お構いなく」
「お~…」

「──わぁあああっ!!」

 突然、優人から上がった大きな声に誠二はビクリとし、驚いた様子で優人の方を振り返った。
「…お前っ──、」
誠二は、信じられないといった眼差しで優人を凝視する。
「まさか…、もしかして………」
誠二の喉がゴクリと上下して、息を飲んだらしい事が見て取れた。

「コイツらの事、見えてんのかっ…?!」



     *

 誠二は、俄(にわか)に信じられなかった。誰も今まで“コイツら”の存在に気付いた人間なんか、ただの一人も居なかったから。

《ごしゅじん~、お客さん~??》

 一言で説明するならば、鯉。そして、金魚。まぁ、一括りするに“魚”。──但し、世間一般が想像している鯉や金魚よりは些か大きいのかも知れない。
 しかも、更に言うと。それらが、室内をまるで水中にでも居るかの如く泳ぎ回っていたのだから……。


 誠二にすり寄る一匹の白い鯉が、上目遣うように誠二を仰ぎ見る。それに笑んで鯉を撫でてやった誠二に、ポンヨッと巨大な黒出目金がその肩へと乗って頬擦りをした。まるで犬猫のようだと、優人はほのぼのした気持ちになって笑い、目を細める。
「僕の事なら、お気になさらず。天音くん、お風呂にでも入ってきて? 僕、この子らと遊んでてもいいかな…?」



     *

「───ん~と。コイツが“しらたま”で、こっちが“あんこ”」
「この子らは、いつからこうして──?」
 風呂から上がった誠二は髪をタオルにて拭きながら、ベッドへと腰掛けた。
「…コイツら、が。死んだ日かな……」


 幼き日、錦鯉の“ハネモノ”として安価にて販売されていた“しらたま”を誠二はお小遣いを握り締め、購入した。“あんこ”も似たような経緯にて、街のホームセンターにて購入した極一般的な魚達だった。
 しかし、魚類の世話というものは犬猫に比べると子供だった誠二には、なかなかの苦難の連続で。遂には所謂(いわゆる)、“お星さま”となってしまった。

…その筈だった。



     *

「仮にも、錦鯉のハネモノなしらたまを水槽で…ってのが無茶だったんだろうな。小さかったからさ、いけると思っちまったんだよな……」
 ある朝、誠二が起きるとしらたまは水槽の蓋も撥ね飛ばし、水槽の下、床の上にて動かなくなっていた。


「ごめん、て。謝ったんだよ、俺。しらたまにさ。ちゃんとした世話してやれなくて悪かった、って。何年かだけど、大事にしてたんだぜ? …そしたら。気付いたらしらたまがその辺、泳いでたんだよ。俺、自分のアッタマ、おかしくなったかと思ったよ。最初は、ホントさ──…」

「───そうだったんだね。」





     3.

「何か食うか?」
「え?」
 髪を粗方乾かし終え、シラタマ達と戯(たわむ)れる優人にそう声を掛けると、誠二は腰を浮かせダイニングへと向かった。
「いいよ、天音くん。僕には気を遣わなくて。一晩泊めて貰うだけで充分、有り難いから」
「…お? 素麺があるぞ?」
「……………」
 その言い回しに、ふと優人は疑問を抱いた。「素麺がある」、まるで何処か他人事のようなその口振りに、つまりは彼には誰か。食事を作ってくれるような、そんな人物が居る事を窺わせる。
 誠二のアパートの部屋は、彼の言っていた「散らかっている」には不相応なくらいには綺麗に片付いていたが。確かにそう思えば、他人に管理されている的な何処か違和感のある気もしなくはなかった。元よりあまり物は無い方に見えるが、彼の私物は部屋の隅でごちゃついている割に、部屋事態の印象は清潔感があった。
 そんな事を思いつつ、優人が部屋の中を軽く見渡していた所へ誠二が戻ってきた。
「ワサビとか入れる派?」
「あ。ありがとう」
 一つずつ綺麗に玉となった素麺が、皿の上に並んでいた。小皿に刻んだ薬味のネギも、しゃんとした様子で添えられている。
「彼女さん?」
「──ぶはっ!?」
一緒に持ってきた麦茶を啜っていた誠二が盛大に噴き出した。
「ち、ちげぇ、ちげぇ…!!」
口元を拭いながら何処か焦った様子でこちらを見た誠二に、優人はクスクスと笑った。
「図星じゃなくて?」
「た、ただの幼馴染みだ…!」
「へぇ?」
にこにことした笑みを優人から向けられ。暫しの沈黙の後、漸く観念したかのように誠二は下ろした頭を掻いた。
「…昔っから、世話焼きな奴で」
「そうなんだ。羨まし──…」
 “世話焼き”、その言葉を耳にしてハッと優人が慌てた様子でスマホを取り出した。
「…うーわっ、忘れてた……」
「?、どうした??」
「…いや、大丈夫──」
未読履歴でも溜まっていたのか、スマホ片手にスワイプ操作をしつつ固まった優人。
「ごめん。ちょっと電話してきていい? 食べてて全然、構わないから」
「ん? おー」
通話ボタンを押してから、焦った様子で優人は玄関先まで小走りに部屋を出ていった。



     *

 数分後、げんなりとした様子にて戻ってきた優人を誠二は仰ぎ見た。
「何だ?」
「いや。身内に終電逃した事、連絡入れるの忘れてて……どやされてきた…」
「身内?」
「んー、兄貴?みたいな人。心配性でさ、普段から」
だいぶ、くたびれた様子にて、優人はどっかりと座り込む。
「いただきます…」
「大変そうだな~、陣内も」
「まーね。有り難いんだけどね」
一気に疲れた様子の優人だったが、誠二が汁なしの素麺をシラタマとアンコに啜らせていたのを見やり、フフッと思わず笑った。
「その子ら、素麺食べるの? 上手だね、啜るの」
「大概の物なら何でも食うぜ?」
「へー、そうなんだ? あはは」
 自分達を見て笑みを溢す優人の元へと、黒い出目金なアンコがいそいそと空(くう)を泳いで優人の隣へとプッカリと浮かんだ。
「え? 食べたいの?」
「あんこ。お前、もう食っただろ。陣内、気にしなくていいから」
「え…、でも……。あの、かなり食べずらいんだけど………」
出っ張った離れ目をウルウルとさせて膝の上に乗っかってきたアンコに、優人は心半ばで折れて。箸を置くとアンコの頭を撫でてヒレの下に手を掛け抱き上げてから、ムギュリと抱き締めた。
「そんな顔されたら、食べられないよ。あんこちゃん……」
 ぷるぷる、ぽよぽよ。ウロコの感触は犬猫の毛並みとは違って、とても艶やかだった。ヒラヒラの尾ビレがアンコを抱き上げる優人の膝を擽(くすぐ)る。



「──え。つか、あんこってメスだった…?」
「え。女の子でしょ? こんな、かわいいし…」
 どうやら、金魚も人の言葉を理解できるらしい。“女の子”、“かわいい”のワードに尾ビレのフリフリは速度を増してプヨプヨの鼻先をアンコは優人へと押しつける。
「女の子だよ。天音くん、今まで知らなかったの?」
「…いや。オスメスの概念すら、無かった───」





     4.

 鯉のシラタマと出目金のアンコ、それとは他に更に幾匹かの魚達が寝床の確保を始めていた。彼らの中で一番体の大きいシラタマは誠二のベッドの上が所定の位置らしく早々にベッドの上へと陣取り、大きく立派な尾ビレをユラユラとゆっくり揺らめかせている。
 ──彼らには、どうやら“重さ”という概念は無く。縦横無尽に誠二を中心とし、緩やかに空(くう)を切り回遊する幾匹かの魚達を優人は見上げる。初見の身としては、不思議な感覚にどうにも捕らわれずにはいられない。また、彼らには“体温”というものも無いらしい。現実世界に存在する数々の生き物達のような熱はどの魚達にも全く感じられず、かといって魚類特有のヒンヤリとした冷たさも、特に彼らには存在しなかった。只々、びっしりと敷き詰められた綺麗な鱗らは艶々としていて。その表面を撫でれば手の平全体に一つ一つの鱗が触れ、ポロポロと心地よく当たる。これは、なかなか癖になりそうだと優人は静かに思いを馳せていた──…。


「…あの、天音くん。あんこちゃん、大丈夫かな……??」
 部屋の隅にて、ヒューヒューと。ポッコリ膨れた腹部を上向きに、真ん丸黒出目金のアンコは今にも息絶えそうな様子で体全体にて呼吸をしている。
「──だから、言っただろ。何度目だよ、お前。…ったく。そんな、食い意地ばっか張りやがって。普段、俺がお前に何も食わせてねぇみたいだろ。まーた、消化不良でも起こして、今度こそ完全にくたばっても知んねぇーからなぁ」
優人に自身のベッドから布団の一枚を運んできた誠二が、足下へ転がるアンコへと深い溜め息と共に、呆れた風に「阿呆め…」と小さく溢した。
 優人がそっとアンコを拾い上げ、彼女を心配そうに優しく撫でてやっていると。
「ヘーキ、ヘーキ。こいつ、食べても食べなくても死なないからよ。別に逆に食い過ぎてもこれ以上、死にようがないんだろ」
そう言って誠二は、クククッと笑ってみせた。
「……なら、いいけど」
 アンコは徐(おもむろ)にフラフラ、ヨロヨロと宙へと浮かび上がり。妙な泳ぎ方をしている彼女を、他の魚達がその体を頻(しき)りに突いて誠二の方へと運んでいった。



     *

 明かりを消して、それぞれ床(とこ)へと横になった。暫しの沈黙の後、規則正しい寝息の音が聞こえてきて、優人は静かにベッドにて眠りに就く誠二へと視線だけを向けた。

((……、もう死んでるんで…))

 そう言って、誠二はこちらを真っ直ぐに見据えた。あの時、今にも泣き出しそうだった彼をまるで慰めるかのように。あの時、“彼ら”は誠二の元、既に存在していたのだ──。ぼんやりとした光の玉へと姿を模して、彼らは“主(あるじ)”を何者かからでも守護(まも)るかのように取り囲んでいた。
 誠二の気配で満ちる室内では、こうして姿形を成す“彼ら”が“普段も自身の身の周りに存在していた事”に、誠二は恐らく気付いていないようだと優人は確信していた───。





     5.

“始発で帰ります、ありがとう──”

 翌朝、誠二が目を覚ますと短い書き置きがテーブルの上に置いてあった。書き置きの最後には、小綺麗な文字にて“陣内優人”と添えられていて。“もし、何かあったら”、と連絡先も簡単に添えられていた。
「───何もねぇーよ、別に…」
居もしない相手に呟いて、何となく笑った。欠伸(あくび)と伸びを一つすると窓辺に向かいカーテンを僅かに開ける。射し込んだ眩しい朝の夏の日差し。その日、気象庁から梅雨明けが発表された──。



     *

 その日の昼過ぎ──。


●{天音くん! よかった(笑))
●{連絡、くれないかと思ってたから(笑))

○{いや、そのつもりだったんだけど)
○{ちょっと聞きたいことがあって)

●{ん? どうしたの?)
●{本当に、何かあった?)


 そこで一度、暫しの間が空いた──。


●{実は、僕の方も天音くんに連絡したい事があったから)
●{えっとね? 実は、今、あんこちゃんが僕のとこ居て)
●{ごめん。ついてきちゃってたの、僕、気がつかなかったみたいで)


──既読は付くもの、一行に誠二からの返信はストップしたままだった。


●{天音くん、今日、何か予定ある?)
●{時間空いてたら、あんこちゃん、連れて送っていきたいんだけど…)

○{御意)
○{忝ない)


──今度は優人側が一瞬、間が空いた。


●{…えっと? 何て??)

○{かたじけない)
○{迎えにいく)

●{ありがとう)

○{待ち合わせ場所、駅でいいか?)

●{うん。えっと、じゃあ時間は───…





   * * *

「彼とは、連絡取れたのか?」
「あ、はい。駅で待ち合わせしたんで、今夜また行ってきます」
「……あまり遅くならないようにしろよ?」
「分かってますって、先生」
「ん。なら、いい」
 優人は、背後に佇(たたず)んでいた師を仰いだ。
「そんなに心配しないでください。俺だって、最善を尽くしますから」
「──お前一人での初仕事だ。上手くやれよ」
「はい」





第二話へ、続く
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