小さな名も無き世界 ~リトルノーネーム~
小さな名も無き世界
* * *
((──嫌だ…、まだ消えたくない……))
斑雪(はだれゆき)のよう消え行く世界で、“お前”が“俺”を呼んだんだ。何度も、何度も。…今にも、消え入りそうな声で──…。
「…
((消えたくない…。“アイツら”の世界を、どうか忘れ(けさ)ないで──…))
“創造主(かみ)”に忘れ去られる事、即ち、そこに生きた者達にとっての“死”だ。例外に漏れる事なく、アイツは消え掛けていた。──何故? お前には、これからも生きるべき世界がそこにあるというのに……。
((──ここから、離れたくない………))
「……、陣内…」
((……
「…………、」
(…心残りは、“友(とも)”…達か……)
残された時間は極僅か…。世界の片隅、既に闇へとこの場所は儚(はかな)くも散り始めている。
「…陣内」
「………」
「陣内」
「…………」
「陣内
「……聞こえてますよ。先生…」
「…だったら、ちゃんと返事くらいしろ」
「………はい。…ごめんなさい」
((──お前らを、こんな場所に置いて行くくらいなら……いっそ、オレも…この場所で………))
──ベシッ
「?!、??、???」
「何が“いっそ”だ、馬鹿野郎──…」
「──いってぇ…、何でいきなり殴ったりなんか………てか、え? センセ、何でそれ……」
「丸聞こえなんだよ、さっきから──」
「へ…??! 先生ってエスパー?? 先生って、そんな事も出来んの???」
「……内緒。」
「?」
「さて。お前は、この場所にまだ未練があるようだが」
「………、先生は…? 先生には無いの? 未練…。アイツらと過ごして来た、この世界に。全然? 全く? 本当に??」
「さあ? お前には、どう見える…?」
「……………」
「付いて来い。俺は、お前達の先生だ。お前らの進むべき道をいつでも何処でも照らしてやるよ───」
立ち寄った世界で“一匹の猫”を拾った。…そのくらいの感覚だった。甘ったれで、世間知らずで、泣き虫で──。それが、いつの日かの自分自身にも重なって。
アイツの事をどうにも放っては置けなかったのは、俺の方だったのかも知れないが………。
1.
蒸し暑い残暑の夜から扉一枚を隔てた先は、紅葉(こうよう)舞い散る別世界──。落葉達を踏みつけ、降り立つ二人の背後にて。巨大な扉は、吹き抜けた秋風にその姿を散らせた。
「あ。綺麗…」
ぽつりと吐き出された感嘆の言葉へ「そうだな」と返し、共に秋晴れの高い空を見上げた。
時幻党(じげんとう)──。時の狭間に位置するそこは、師である大魔導師の庭。彼女率いる少数組織によって編成されるその面々は、どいつもこいつも皆が揃って難癖のある偏屈な者達の巣窟だ。
「
「はい?」
ふわりと靡(なび)く黒髪に、白黒のそれらを従えて。
「そろそろ行くぞ」
「はい」
優人は落ち葉を踏み締め、師を追った。
時幻党の門を潜(くぐ)り、ホールに着くとパタパタと忙しない足音がロビーの階段を駆け下りてきた。
「優人! 先生!」
「──
駆け寄ってきて直ぐ、彼はそのまま優人の腰へと抱きつく。
「おかえりなさい! 二人の姿が窓から見えたから。オレ、嬉しくって──!」
抱き止めた、まだまだ幼さ残す彼に優人は目を細めるとその頭を撫で「ただいま」と呟いた。
「恭くん。何か変わった事は?」
祟場を振り仰いで、恭は何から話そうかと「あのね、あのね」と声を弾ませる。
「──やあ。帰ったか、二人共…」
ロビー、エントランスへと上から響いたその声に気付き、祟場と優人は声の主に対しその身を正すと一礼した。
「
「只今、戻りました」
ゆっくりと階段を降りてきた彼女は、穏やかに二人へ笑みを浮かべる。
「おかえり。ご苦労だったな。どうだった、優人。初仕事の手応えは?」
「ええ。まだ、どうにかこうにかって感じでして。日々、毎日が勉強といった具合です」
「そうか。──さあ、疲れただろう。暫く、ゆっくり休みなさい」
「……ありがとうございます」
何処となく年齢不詳なオーラを放つ、時幻党の女主へと。優人は再び頭を垂れた。
*
時幻党(じげんとう)…。この世に散らばった“物語(ストーリー)”という名の世界を調停する者達の拠点地で──。また、それと同時に全世界の敵、“絶望”と呼ばれる悪意の生まれ故郷でもある。
その昔、絶望を拾った一人の魔女は。彼を救おうと惜しみない愛情を注ぎ、懸命に育ててきたが。──遂に、それは彼に届く事はなく。絶望は全世界の敵に成り果てた。
「優人。お前、髪が──…」
自室へと向かう途中、祟場は優人の緩く癖のある髪が肩を越えているのに気が付いた。
「…ええ。まあ、やっぱり…とでも言うのか──、ここの空気は相変わらずですね」
その昔。ここ、時幻党にて巻き起こった数々の事件の中のその一つにより。優人の髪は、自身の中の魔力的要素のバロメーターになりつつあった。普段から抑え込んでいる霊的な力に魔力が加算されると、それを外へと排出し平衡を保つ為に優人の髪はその媒体となり、それに応じて僅かに伸びてくる。
元より祖母に似た小綺麗な顔つきにより、こうなると元々の線の細い体つきなのも加わって、時に女に間違われる事も少なくはない。溜め息を一つ吐いた祟場に、うっすらと笑って見せる。
「慣れてますけど、久々だと少し邪魔くさいのが難点ですね」
クシャリと顔に掛かる髪を祟場が軽く掻き上げてやると、瑠璃色をした大きな目を細めて妖艶に微笑む。
「…熱は。具合は悪くないか?」
「平気です。大丈夫ですよ?」
「そうか。なら、いいんだが……」
祟場は自室の前にて足を止めた。
「それじゃ、また後程──」
祟場の部屋の少し奥に位置する自室へと、優人は消えていく。祟場は、また一つ溜め息を吐き出した。
2.
今まで幾度となく繰り返してきた出逢いと別れ──。古傷の残る両手の平。優人は、カーテンを開け、窓から見える中庭を見下ろした。
「…懐かしいな」
ほんの僅か留守にしていた間に、外の景色は一変していた。抜けるような青空の下(もと)、秋津(あきつ)の群れがその羽根を煌めかせている。
揺れる花壇の花は秋桜(コスモス)の花に変わっていた。感傷に何処となく浸り、急に人恋しさが胸を締めつけた。
繰り返される、出逢い、別れ、別れ──。そうゆう運命に身を置く身なのだと何度となく自身に言い聞かせるが、理解とは別にこれは心情の問題であり。自室に一人きりで居るのが嫌で、ふらりと部屋を出た。
午後の時幻党の廊下の空気はだいぶ、ひんやりとしており。中庭、食堂、四階ベランダとあちこち回ったが、誰とも出会す事もなく。当てもなく人恋しさを胸に時幻党内を彷徨(さまよ)う内に、いつもの場所へと出た──…。
(──結界(カギ)掛けとくなら、ちゃんと掛けといてくれないと駄目じゃないですか………)
引くと容易く開いた扉に、そう心の中で呟いて。小さく部屋の主の名を呼び掛けてみるが返答はなく、シンと静まり返っている。──もう、歩き疲れた。部屋の中へと足を踏み入れ、優人はソファーへと身体を投げ出す。
「……………誰も、居ない──」
暫し、ぼんやりと室内を眺めてから目を閉じた。祟場も愁水も、優人を労い「たまには好きに過ごせばいい」と早々に報告を切り上げさせられ部屋を追いやられた。
恭はというと、一人で夕飯の支度に早くも取り掛かり始めていたから「手伝おうか?」と声を掛けた所、今日は自分だけで作りたい気分だからと──優人達の為にと張り切る彼に、やはり追い出されてしまった。…とは、いえ──。
「………………」
一人の時間が、今はやけに寂しくて。誰かと居ないと孤独感に押し潰されそうだった。
(やっぱり、恭に頼んで一緒に夕飯支度させて貰おう───)
それが駄目なら。先日、向こうで買って以来、手付かずだった彼らのCDでも一人で部屋で聴こう──…。
ゆっくりと身体を起こし、キャンドルの灯りに揺らめく薄暗い部屋を後にしようとした。
「──もう、帰っちゃうんですか?」
ドキリとして振り返った。
「イノセさっ───??!」
振り返った先で笑む彼に、しかし。ゾクリとしたものが背を這う。
「ダメですよ、いつでも気を抜いちゃ。そんな無防備にしてると、“彼”でなくとも襲いたくなる」
「…誰──、」
よく知る顔だった。でも、彼は“彼”じゃない──。
「初めまして? 僕の名前は、イノセント・ミラ。ここ、虚像の間に棲む“魔物”です───」
──ダンッ、……!!
「…意外ですかね? そんなに簡単にバレちゃうとは。流石ですね、成り代わりのネコくん?」
扉を背に追いやられ、見下ろしてきた相手にしかし。優人は、少しだけ笑ってみせた──。
「よかった。話し相手が見つかって……」
「おや。突き飛ばして逃げるかとでも思ったら」
「…奇遇にも。今、僕、ちょうど暇してまして──。ミラさん…? 少々、お話相手でもして頂けます?」
「───、いいでしょう…」
虚像(きょぞう)の間。そこには、昔から大きな一つの姿見があって。…ミラは、その鏡の化身なのだとそう自ら名乗った。
「──イノセさんとは、左右反転してたから。すぐに分かりましたよ」
「痛いとこを突かれちゃいましたね」
「ミラさん本来の姿は、見せてはくれないんですか? それとも、それが本来の姿なんですか?」
「まさか。ちょっとした、サプライズ感覚のつもりだったんですがね。君、あんまり寂しそうにしてたから」
「……。ミラさん、優しいんですね」
「魔物のみせる優しさを、そう簡単に信用してはダメですよ」
「…ほら。やっぱり、優しい───」
にっこりと笑んだ優人に対し。ミラは、何処かムッとした様子をみせた。ミラは不意に優人の腕を引く。
「──ミラさん…?」
「───ここから、よく君達の事を見てました。彼には何度か傷つけられ、割られた事すらありましたから。…あまり、彼の事は好きではないんですが。彼は僕の主でもありますから」
ミラは鏡の前に優人を連れてくると、肩を掴んで優人の耳元へと低い声にて囁いた。
「………。ミラさん、鏡には映らないんですね。反転の反転したら、って思ってたんですが……」
「言ったでしょ? これは、僕。僕自身。僕が今、ここに出てきてるんですから鏡の中は空ですよ。当然」
「よく分からないですけど…、そういう事なんですね。──鏡の中って、どんな感じなんですか? 冷たくはありませんか?」
「どうでしょう? 覗いてみます──??」
グッと、優人の肩を握るミラの力が強くなった。
「───その辺にしとけ。あんま調子こいてると、粗大ごみとして廃棄処分するぞ。ミラ」
「…!」
「!、イノセさん──!!」
音も気配もなくその場に立ち尽くしていたイノセントにミラは優人の肩を抱いたまま、その主を向いた。
「あーあ、これだから。あなた方は嫌いなんです。──その生温い“熱”、堪え難いんですよ。僕には………」
肩から手が離れ、そう最後に言葉を残して消えたミラに優人は振り返った。
「──あのっ、ミラさん。ありがとうございました、話し相手なってくれて」
スルリと水面(みなも)のような水紋を立て、ミラの手が伸びてきて優人の頬へとひんやりと触れる。
「いえ。僕も少しだけ楽しかったので、お互い様です。──よかったら、彼に。あまり、気安く僕を傷つけないよう、そう伝えてやってください。そんな頻繁に割られてたんじゃ、こっちの身が持ちませんから」
「あはは。分かりました、了解です」
「ミラ─!!」
「それでは。寂しがりやのネコくん、さようなら」
頬を撫で離れるミラの手を引き止めようと、優人は手を伸ばしたが。指先を僅かに掠めてミラの手は完全に鏡の中へと消え失せていった。
「さよなら、ミラさん……」
心の内を見透かされ、主に代わって持て成しを受けた優人は無機物と化したミラにそう言って微笑んだ。無言の返答に冷たい彼を一つ撫で、彼の主へと優人は振り向きそっと踏み出した。
3.
真っ暗な闇の中、ぽっかりと浮かぶイノセントのその背中を優人は追う。虚像の間の扉が重い音を立て、ゆっくりと二人の背後にて閉じられた。静かに闇が歪み、渦巻いて。やがて、音も無く晴れてゆく。気が付くとそこは、よくよく見慣れた時幻党の廊下だった。色と音を取り戻した世界は、再び、優しく時を刻み出す───。
「今、帰りですか? さっき、部屋にいらっしゃらなかったから」
「まあな。これでも、早く切り上げてきたつもりだったが」
「そうなんですか?」
小さく問い掛けて、優人はイノセントの隣へ並んだ。
「お前が戻ってくるって聞いたから。──初仕事の成功とやらを心から祝ってやろうと思ってな」
態とらしく笑んで、イノセントは優人の肩へと腕を回し引き寄せる。
「……、そんな事言って…。あの時の対価、さっさと俺から取り上げようってんでしょ?」
「そんな余裕ない男に俺が見えるかよ」
「見えます」
「心外~」
イノセントと優人は互いに笑い合った。
「あ、の。フリージアは…。元気してましたか?」
「あー。部屋で待たせてある。──アイツ、うるせぇんだよ。常日頃。お前からも何とか言ってくれ」
「ははは。元気そうで何よりです」
「そういう問題じゃねぇんだよな…。毎日が騒がしいったらありゃしない……」
顔を顰めるイノセントに優人はクスクスと笑う。
「ご愁傷さまです」
「他人事だと思いやがって…」
「毎日が賑やかなのは悪い事じゃないでしょ?」
「限度ってもんがあんだろうがよ、何事も………」
「──よかった、」
「聞いちゃいねぇな? テメェ…」
一人勝手に安堵の笑みを浮かべる優人の様子へ、イノセントは不服そうに頭の後ろで手を組んだ。
「…あの。」
「ナニ」
横目に見ると、つい先程までの笑みを消した少し深刻そうな顔つきにて。足を止めた優人が真っ直ぐにイノセントの方を見つめていた。
「部屋に着く前に──。イノセさんの事、呼び出して。前回、力になって頂いた事に対する対価…って、何になりますか?」
「……………」
ジロリ、と。イノセントは優人を視線だけで威圧する。
「あまり、容赦ないような事は……仰らないでくださいよ?」
目を伏せ逸らした優人の様子にイノセントは小さく失笑を洩らした。
「───“泣かす”っつったの、マジにしてビビってんのか? かわいいねぇ~」
イノセントの伸ばされた右手が視界に入り、優人はビクッとイノセントの方を見上げた。
「逆に。──どんなの、期待した? 教えてみろよ、なあ…」
頬に触れ、髪を梳いて。相手を嘲るように笑ってみせる。コクリッ、と優人の喉元が上下したのを見届け。イノセントは殊更、口角を引き上げ大きく口を裂いた。
「バーカ、冗談。……今回は、まだ決めてねぇんだよ」
「…え?」
パチクリとした優人を軽く壁際へ追いやって。その呆けた様子に一人、クツクツと笑う。
「違うか。決め兼ねてんだ、今回は──…」
「……。め、珍しいですね。何か…」
「だろ?」
小さく身を引いていた優人のその片手を取って引き寄せ、上目遣ってくる優人に目許で笑ってみせる。
「お前が最ッ高に嫌がって、身悶えるような破廉恥な事とか。どお…??」
「………イノセさんが言うと、冗談に聞こえませんっ…」
「まあ。後のお愉しみな──、ネコくん?」
「…久し振りに、血の気が引いた気がします───」
無理矢理にも笑おうとする優人の様子へ、イノセントの心底愉快そうな笑い声だけが廊下へと響いた。
4.
煉獄の支配者、イノセント・ロア。彼の部屋は時幻党一階、離れに位置している──。
「あ…?」
「どうしたんですか? イノセさん」
自室のドアを開け言葉を途切れさせたイノセントを不思議に思い、優人はイノセントの横顔を見つめたのち、彼越しに部屋の中を覗き込んだ。そこには、小さくお茶会の準備が整えられていたが。肝心のそれを準備していたであろう彼女の姿が何処にも見当たらなかったのだ。
「何処行きやがったんだ、アイツ…。まあ、察しはつくが──」
「入れ違い……ですか?」
「ったく。だから、ジッとしてろっつったのに。───まあ、いい。好都合だ」
「え?」
イノセントは優人を部屋の中へ入るよう促す。言葉の意味は取り兼ねながらも優人は“プンスカ”を呼び出した。
「ロア、フリージアを探して呼んできてあげて」
優人は自身の式神…使い魔へ、そう指示をした。
「………。お前な、人の名前を勝手にそんな“肉まん”に付けんじゃねぇよ」
「別にいいじゃないですか。それくらい…」
相手に笑って返して、優人はイノセントの部屋の中へと足を踏み入れた。
「…座れ」
「あ、はい。お邪魔します」
「──ん。」
「え。あの…、これは?」
ソファーへ腰掛けていた優人の元へ、イノセントが素っ気ない素振りにて小さな箱を手渡してきた。
「…初仕事の祝いの品」
「えっ、そんな! 貰っちゃっていいんですか…!?」
「いいけどー?」
隣に腰掛け、軽く取り乱した様子の優人をおかしそうにイノセントは眺める。
「開けてみ?」
「───あっ、え…?! これって……」
真新しく輝くシルバーのイヤーカフ。それに優人はとてもよく見覚えがあった。
「これ、イノセさんがいつもしてるやつと同じ物……ですか??」
「そー」
「……俺に?」
「ぶ、はっ! だから、そうだっつってんだろ」
面食らったように。しかし、嬉しさを噛みしめる優人の様子にイノセントはケタケタとその隣で笑い転げた。優人は両手でイヤーカフの入った箱を握り締めたまま、身動き一つしない。それにまた、イノセントは噴き出した。
「つけてやろうか? ──ほら、早くしろ。アイツが戻ってくる」
以前、イノセントから貰った“契約の指輪”。それは、優人にとってとても大切な物だったが───彼女…フリージアと身体を分かちた際、何も無い彼女に対し彼女にとっての“唯一の私物”として、優人はフリージアにそれを譲ってしまっていた。
「?、どうした?」
イヤーカフを手にしたイノセントをジッと見上げ、優人は「…あの、」と少し躊躇いがちに口にした。
「………コレって。イノセさんの物と、全く同じ物……なんですよね??」
イノセントはゆっくりと一つ、瞬いた。
「ああ」
「あの、」
「ん?」
「…俺、ソレを貰う訳にはいかないでしょうか……?」
優人の視線が向けられていたのは、イノセントの左耳に光る全く同じデザインのイノセントのイヤーカフだった。
「…………。ナニ? お前…」
無茶を言ってるのは自分でも分かってる。こんな事を言って……彼は自分の我儘に対し呆れ、困ってしまっているだろう。
「やっぱり、何でもありませ……」
「お前。新品より、俺の“私物”が欲しいって?」
彼の言葉に。ボッ、と顔が一気に熱くなったのを感じた。──恥ずかしくて死にそうだ。
「すみません…。何でもありません、忘れてください。お願いします………」
耐えきれず視線を逸らした所を彼の冷えた手に捕まった。いや、そう感じるのも自分の方が熱を帯びてしまっているからか……。
──カチャリッ、……
「こっちは俺が貰うからな」
髪を耳に掛けられ。若干、彼の体温がこもったソレが左耳へと添えられた。見つめた先で真新しい方のカフが彼の空いた左耳を新たに飾る。
詫びと礼をごちゃ混ぜにした視線を向ける優人を一つ笑って、またイノセントの手が優人の頬と耳に触れた。イノセントの顔が静かに降りてきて、優人は静かに瞼を閉じる──…。
穏やかな時間の流れる、午後のひと時。──しかし。その直後、戻ってきたフリージアの気配へ、優人は全身全霊によりイノセントを突き飛ばしていた。
5.
「優人!」
勢いよく部屋のドアが開いて、一人の少女が飛び込んできた。部屋の奥に優人の姿を見つけ、顔を綻ばせる。
「フリージア」
彼女との久し振りの再会に優人もまた自然と笑みを零す。立ち上がった優人を押し倒さんばかりの勢いで、駆け寄ってきたフリージアはその首へと縋った。
「わぁ~ん、会いたかったよぉ~! 優人~!」
「僕も。よかった、元気そうで──」
熱烈な程に抱き付いてくるフリージアを受け止める。それから彼女の肩へそっと触れ、顔を覗き込んだ。
「身体は…? 平気?」
「大丈夫! 元気だよ!?」
そこへ、低く小さな呻き声が割って入った。
「…くっそ、痛ってぇな───」
フリージアは、優人の肩越しに見えたイノセントにパチクリと瞬いた。
「あ。イノセさん」
「あ、イノセさん……じゃねぇ」
至極、不機嫌そうな様子でイノセントは二人の方を見た。
「イノセさん、ごめんなさい。つい…」
イノセントを振り向く優人のその左耳にフリージアはふと目を止める。
「あー、優人! もしかして、それ、イノセさんから貰った?」
「え? あ、うん。ついさっき」
「そっかぁ。似合ってるよ、優人」
「…ありがと」
「よかったねぇ~」
フリージアと優人。その姿を傍らから眺め、溜め息を一つ吐き出すとイノセントはソファーを立った。
──ドカッ…
優人とフリージアのその間を割って、イノセントは無言でソファーへと腰掛ける。それに、フリージアは……。
「やだっ、割り込むなんて酷い…! 私だって、それならここがいいもん!」
その直後。更にイノセントと優人の間に無理矢理割り込んで、二人の間にストンッと座り込んだ。
「お前なぁ……」
「フリージア──」
笑い声が部屋を満たす。優人とイノセントのその両方に、彼女は自身の腕を絡めた。
*
「───ねぇ、フリージア」
肩に凭れるフリージアと頭を寄せ合って。優人は小さく呟いた。
「なーに?」
「うん。あのね? フリージアは何か欲しいものとか、ある?」
フリージアはそれに僅かに顔を上げた。優人を上目に見上げ、瞬く。
「優人がくれる物なら私、何でも嬉しい」
「そう…? うーん。何か、身に着けられるような物がいいかな?」
「優人がくれるなら、私、ピアスだって何だって開けるよ?」
「…お前。痛いのは嫌なんじゃなかったのか?」
イノセントに覗き込まれて、逆さにフリージアはイノセントの顔を見上げた。
「頑張って開けるもん」
「あー、そ~」
ガシガシと手荒に頭を撫でられ、フリージアは「ホントだよー?」とイノセントを振り仰いだ。
「じゃあ、あまり期待しないで待ってて」
「うん、待ってる──」
少し笑って、優人はフリージアの乱れた髪をそっと手で梳いた。
転章
「──フリージアは自分の事のように喜んでくれたし。
曇天の夜空から、温度のない小雪が舞い散る。それでも、吐き出される言葉たちは白く。優人は古びた小さな墓石(ぼせき)を撫でた。朝の来ない、欠落だらけの世界に目を瞑る。砂嵐に画質の荒れた、まるで亡霊のような人影達の行き交う街中から、遠く離れた境内の裏側。色褪せ、セピア掛かった擦り切れたフィルムは、ぎこちなく画像を乱しながらも幾千、幾万回目かの“今日”という日を再生させていた。
「…そろそろ行くね。伝えて置きたかったんだ、お前達に──。また、抜け出してきちゃってるからさ。先生にぼやかれる前に帰んなきゃ………」
名残惜しげにそう笑い掛けて、立ち上がる。「また来るよ」と、優人が口にしようとしたその時だった。
「───別れの挨拶は済みましたか?」
ビクリッと、優人は驚いて背後を振り向いた。…こんな場所に、他人が居る筈もなくて。何より、嫌な胸騒ぎを覚えるその声は確かに聞き覚えがあったから──…。
「感傷に浸っておられたようなので。最後の挨拶くらいは、と思ったんですよ」
眼鏡のレンズ越しに相手は笑みをつくる。周りの廃れた画質からは不自然なまでに浮いていて、こちらを冷え冷えとした眼差しにて見つめていた。
「……白羅さん─、」
「初任務の成功、おめでとうございます。心から」
「…………っ、」
ジリッ、と凍った地面を踏み締める。張り詰めた緊張感から、指先がピクリと無意識にも振れた。
「動かないでください。抗うだけ無駄です」
「…………………、」
「──お察しのようですが。アナタを始末しに参りました。君はどうやら残念な事に有能な方のようなので。悪い芽は早々に摘んで───抹消して置きませんと。ね…?」
──ザンッ……!!!
「…逃げられましたか──、」
白羅は眼鏡のズレを直した。
「手傷は負わせました。さて、無事に逃げ切れますか? ──陣内優人…」
* * *
──ドオッ…!!
咄嗟に発動させた結界をも掻い潜って、どす黒い斬撃が翳した右腕に走った。足下からザラリと崩れ、引き摺り込まれるように。噴き出し、舞い上がった荒く乱れた画質の微粒子たちの波に身を任せ、飲まれるようにして転移してきたが───そこが何処なのかもハッキリとしない。傷の浅さに比較し、重く動かなくなった右腕に焦りを覚えた。傷口から真っ黒い血が滴る。熱を伴い脈打つ痛みに、毒のようなものがそこへ入り込んだのだと察した。
──ギチギチギチギチ………
強張ってゆく身体の前に暗闇に巨大な影が立ち塞がった。幾つもの赤く不気味に光り輝く眼。危機的状況はまだ終わってなどいない。右腕の傷の痛みに触れ、意識を引き戻す。荒いだ呼吸にほどけた髪が僅かに揺れた。
「時空がこの一帯だけ歪んだ形跡が確かにあるな。蟲共がやたら騒がしいと思ってきてみれば───」
手際よく小型の銃へと残りの弾を補充し、ガチャリと弾倉を閉じる。足下には既に無数の死骸が転がっていた。
「──銃撃か、爆撃か…。しかし、そんなものは一切聞こえなかった筈だ………」
地へと片膝をつき、蟲の死因を冷静に解析する。辺りには火薬の臭いすらない。その一方で頭や体を的確に貫かれて横たわる蟲達に、ありと汎ゆる可能性について静かに思考を巡らせた。
「おい、シュバルツ。こっちきてみろよ」
「何だ! ラグ=ソレスタ!! ──くだらない事だったら怒るぞ?!」
シュバルツが寧ろいつものようにカリカリとした態度でラグの元へと向かうと、彼もまたその場へとしゃがみ込み、何かを覗き込んでいる様子だった。
「…なっ?! これは……!?」
「どうだ? くだらなくはなかったろ??」
蟲達の残骸と黒い染みを辿ってきた二人は、そこへ身を預けた一人の人物の姿を目の当たりに息を飲んだ。
『猫の戦艦~キャットバトルシップ~』へ、続く
※この小説は、七峰雪夜氏(原案)との共同創作です。
原作:七峰 雪夜
著者:くろぽん
協力:組織MOSA
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