白と黒 ~モノクローム~
第四話、走光性と水面下
1.
土曜日。夏花は誠二の部屋にて、広げていた課題の手を止めた。もう何度めの事か、スマホの待受画面をチェックすると二十一時五十七分が五十八分に丁度、切り変わった所だった。一つ溜め息を吐き出し、そのままホームを開きアプリを起動させると誠二の名前をタップした。
○{なつ、話したい事がある)
○{できたら帰らないで待っててくれ)
“話したい事がある”───頬杖を突き、暫し画面を見つめた。母親には帰りが遅くなるかも知れない事を伝えてある。
そこへ、玄関の鍵を開ける音がして夏花はスマホを閉じると急いで立ち上がった。
「誠二くん…?」
「──ナツ!」
玄関先へと夏花が誠二を出迎えに行くと「よかった! もう、帰ってるかと思った!」と被っていた帽子を取り、声を弾ませる。
「どうしたの? 何かあ──…」
「あった?」と訊ねようとした所を腕を引かれて強く抱き締められた。
「─────、」
「なになに? 何があったの、ねぇ。誠二くん?」
「…ナツ、俺───」
「うん?」
怖い、嬉しい、悲しい、つらい──。彼が夏花にこんな風に抱きついてくるのは昔から、そういった時……必ずいつも、二人きりの時だけだった。玄関先にて、普段より頭一つ分くらい低い位置にある彼の頭を夏花はそっと小さい子供らにするように、よしよしと撫でた。
「えらく、ご機嫌ですなぁ? 何かいい事でもあった?」
「──俺、blackoutのローディーする事になったんだ! これからずっと、あの人達の側に居られるんだよ…!!」
「blackout…、ローディー………。!、ホント?! やったじゃん、誠二くんっ! おめでとう!!」
「うん─!」
夏花の前──二人きりのこんな時には、誠二の口調はいつもより若干幼くなる。
「…俺、誰より一番最初にナツにこの事教えたくって」
「えへへ。何でかな? 私も嬉しい──」
「ナツ…、ありがと───」
腕に込められる力がまた、少しだけ強くなった。
*
二次会、打ち上げ会場──。
「どうしたの、士郎くん。ボーッとしちゃって。悪酔いでもした?」
もう何杯めかのそれを片手に颯丞が士郎の隣へ腰を下ろした。
「…俺さ。アイツの事、知ってるかも」
「え? アイツって?」
「───誠二、」
「天音くん?? マジで?」
「うん。多分、間違いない気がする…。さっき話してて、そう思った」
「へぇ?」
「──五年くらい前かな。モノクロでライブした時、居たんだよ。…最前列で、滅茶苦茶こっちガン見してきて俺から目を離さないガキがさ」
「ふーん?」
「ウチ、女の客が多いだろ? それに。大抵の奴らは、お前かあっつんばっか見てる客が多いし…。あそこは狭いから。最前列だったし、すぐ目の前だったし。客の顔も近くて、はっきり覚えてんだよ」
士郎は酒のグラスを見つめた。
「──ああ、コイツ。俺に憧れてんだなって。すっげ、伝わってきてさ。…追い掛けてこいって、そう思ったんだ。あの時、俺が投げたピック、今でも持ってんだってさ。アイツ………」
誠二は、手の平の上の一枚のピックに目を落とす。
初めて目の当たりにした士郎のギターに目を奪われていた誠二に、彼は。その時、今の今まで使用していた自らのピックを誠二へと放った。
“──追い掛けてこい…、”
そう言われた気がした。
一瞬の投げ掛けられた彼からの視線。その瞬間が、まるでライブの爆音も時の流れすらを一時は停止させたかのように。あの日の出来事を誠二は今でも、はっきりと覚えている。
2.
──日没の早くなった繁華街、その路地裏にて。
「助けてくれ…! こ、殺さないでくれっ……!!」
恐怖に喚く一人の男。その足下には彼の所持していた筈の刃物が転がっている。
二頭の大きな虎のような獣達へ押さえ込まれ、半狂乱に男は言葉にならない声で喚き散らかす。
「──縛、───離…」
二本の指先にて空を切ると男は口を噤(つぐ)んだ。否、声を出せなくなった様子だった。
目を見開き、固まった男の元に伸びた指先がその額へと触れる──と、ズルリッと引き抜かれた植物とも何ともとれないドス黒い色をした“ソレ”へと相手は静かに続ける。
「…滅──、」
途端、メラリと燃え上がったソレは奇声を発しながら姿を灰へと散らしていった。
「───帰るよ。クロ、ロア」
二頭へと笑んで、優人は。路地裏を後にする。駆けつけてきた警官と途中、擦れ違った。パトカーの側で婦人警官に付き添われた一人の女性が優人に気付いて「あっ…」と声を漏らしたが、彼女に軽く手をヒラヒラと振ってから優人は行き交う人々の群れの中へとその姿を消した。
*
「──只今、戻りました」
リビングにて夕刊を広げる祟場はそう呟いた優人の顔を見るや否や、軽く顔を顰(しか)めた。
「頬から血が出てるぞ──」
「あ。本当ですか?」
優人は大して気にする素振りも見せずに、テーブル上のファイルを開くとその名簿を確認し、その一つにペンを走らせ名前を消した。
「……感染者と接触してきたのか」
「ええ、まあ」
「それで…、か──」
祟場は咥えていた煙草から灰皿へと灰を落とした。
「先生」
「ん?」
「俺、少し仮眠とってきます。夕飯には起こさなくて構いませんので」
「…ああ、」
「それじゃ───」
*
パタリとドアを閉めて襟元を緩めた。身の回りを軽く整えベッドへと疲れた体を投げ出すと、そのまま静かに瞼を閉じる───。
『──ねぇ、イノセさん』
『あ?』
『一つ、訊いてもいいですか?』
隣の彼へと優人は僅かに上向いた。
『…あんま気乗りはしねぇけど。何だよ? 聞くだけは聞いてやる』
『ありがとうございます』
──怖くて強くて。なのに時々、少しだけ優しい。彼は、そんな人だ…。
『───そうゆうのは。センセェに訊くべきじゃねぇーのか、優人くんよ』
『んー。これは飽く迄、俺の興味からのそれであって。今の俺の勉強とか仕事とか、それらとはまた別に。一個人として知りたいなって、ちょっと思ったからで………そんな理由でこんな事訊いちゃ駄目ですか?』
イノセント・ロア──、煉獄の王で支配者だった。彼は、一つ大きく溜め息を吐き出した。
『──白羅(あの野郎)のばら蒔いた種、通称・バグと呼ばれる“ウイルス(呪い)”っていうのは。感染したからといって必ずしも、その場で“発症(芽を出す)”とは限らねぇんだ』
それらを例えるのであれば、それは“植物の種子”のように。蒔かれた種は“絶望”という名の渇きを待ちわび眠りにつく。やがて、時がきて種子に亀裂が入り“根”は宿主の中、暗く奥深い部分へと音もなく根を張り巡らせてゆくのだという。
『──確かに短期間で花をつけ実を結び、新たな種をばら蒔く奴らがその大半を占めるが。それより、何十倍も何百倍も厄介な奴らが稀に存在する。…長い期間を経て咲き誇り、より感染力の強い力を兼ね備えた、そんな花を咲かせる奴らがいる』
芽生えた“悪意”の種達の中でそれは他とは異なり、一度は芽吹いた後に枯れる。枯れる条件は様々で、幾度となくそれを繰り返した“宿根草(しゅっこんそう)”は、根へと蓄えた“強い毒性”を孕んだ不穏の蕾をつける──。
長い眠りの中にて宿主の心の闇へと奥深くにまで根を張ったそれは。やがて、誰をも魅了する大きく美しい大輪の毒花を花開く。
その魅力によって、花へと集まる“働き蜂”を多くより寄せ集め、更なる悪意の種子を広範囲へと撒き散らす。そんな力を“彼ら”は持っているのだという──。
『精神破壊を齎(もたら)す“精神寄生体(バグ)”に対する“免疫の無い奴”がどういう奴らか、お前は判るか?』
『………愛に飢えてる人、とか?』
『それも一つ。だが、もっと面倒なのが───』
突然、イノセントに組み敷かれ。優人は、ぱちくりと瞬いた。
『…オメェーみたいなよ。散々、周りから愛されて生きてきたような奴が。一番、危なっかしいんだ──』
『それって、どうゆう……』
『与えられる“愛情”に咲くことも侭(まま)ならず、根深く膨らみ続けてきた絶望や悪意は。時として、どの花よりも毒性の強い美しく大きな大輪を咲かせる───』
『……でも、それって。愛情が精神寄生体へ勝るって事は、絶対に有り得ないんですか? バグへの感染は。必ずしも、避けられない??』
『………、まあ。ソイツの器量次第ってとこだろうな。はたまた、それを上回り与えられる“無償の愛”とでもいう所か──』
「教えてやったんだから、対価を寄越せ」そう言って覆い被さってきた彼の頭を抱いて、小さく優人は呟いた。
『───彼らを“絶望”から救えるのは、“無償の愛”……』
3.
音楽スタジオ~CASCADE(カスケード)~───。
「どう? 天音くん。仕事の方にはだいぶ慣れてきた?」
「あ、はいっ! 境田さんのご指導もあって、何とか」
「そう。なら、よかった」
機材車のハッチを閉じ、汗を拭った誠二に境田(さかいだ)はやんわりと笑んで冷たい缶コーヒーを放った。不意を衝かれ慌てて受け取った後で「ありがとうございます」と畏まった様子の誠二に、境田はフフッと笑って「堅いなぁ~」と呟き、更に笑みを溢す。
「境田さん、いつ頃までいられるんですか?」
「んー。まあ、ぼちぼち…」
「そんな」
「天音くん、仕事覚えるの早いから」
あっけらかんと笑ってみせる境田に誠二は何となく項垂れる。
境田はblackoutのローディーとして数年を勤めてきたが、自身の休止していたバンドが再開する事となりblackoutは彼の後任を探していたらしい。
「──でも。境田さんのバンドの事思うと、喜ばしい事だし。境田さんにも頑張って貰いたいって思うし」
「…ありがとう」
「境田さんって? パートとか何して──…」
メンバーがスタジオから出てきて会話は一度、そこで途切れる。
「お疲れさまです」
「お疲れ様です」
境田から今しがた貰ったばかりの缶コーヒーをカーゴパンツのポケットへと滑り込ませ、直ぐさまハッチを開けると士郎のギターを受け取り、丁重に誠二は機材車へと積み込む。
「休憩の邪魔した?」
「いえ。大丈夫っすよ」
黒のマスク越しに誠二は目元で笑ってみせる。
「皆さんにも何か買ってきましょうか」
「お。悪いね」
「何がいいです?」
「……俺、コーヒー。ブラック」
「はい。──颯丞さんと敦さんは…」
「俺もブラック」
「俺、何でもいいよ~」
「了解でっす。ちょっと自販機まで行ってきます」
「いてら~」
小走りに駆けていった誠二を見やって、場の空気が一瞬にして緩んだ。
「士郎くんさ。彼の前だと少しかっこつけだよね」
「士郎さん、コーヒーブラック飲まないですもんね」
「ハイ、ナンノコトヤラ~」
そう、しらばっくれて。士郎は何処か逃げるように、三人へとヒラヒラと手を振ると誠二の後を追った。
「シロくん、ファンの子は大事にするからなぁ~」
場を和やかな笑い声が満たす。藍に滲む朱色が静かに宵闇へと融けていった。
*
自販機を前に誠二は立ち尽くしていた。冷たいブラックの缶コーヒーのボタンには“売り切れ”の文字が表示されている。
暫し悩み、他の自販機を当たろうとお釣りのレバーへと手を伸ばした時だった──。
──バンッ、ピッ……ガシャン…
「あ」
「え」
突然の出来事に誠二は身動きできずに瞬いた。
「金入ってたんだな、まだ。ごめん、間違って押しちまったわ」
誠二のすぐ隣へと座り込み、白い乳酸飲料の入ったペットボトルを士郎は取り出す。
「あ。すみません…」
「いーって、いーって。あっつんに飲ませるから。まだ金入ってる?」
「あ、はい…。できたら岡崎さんと工さんのも買いたかったんですけど、売り切れで………」
辛うじて買えた一本と、ポケットには境田から差し入れされた一本もまだ手付かずで残ってはいるが──。
「んっとー。ザッキーはこれ、タクがこれ。あっつんのと俺のがそれとして。──颯丞、これ」
手際よくボタンをタッチし、「覚えた?」と誠二へと軽く前髪を指先で少しだけ払って笑う。一瞬の何でもない仕草に見惚れつつ、ハッとして誠二はコクコクと頷いた。
「暑くないか? マスク取れよ、ライブ中でもあるまいし」
ひょいと指先にてマスクを下げられ、慌てふためいて危うくコーヒー缶らを落としそうになった。
「大丈夫?」
「──すみま、せ…。俺、コレ無いとまだ緊張するっていうか、何か落ち着かなくって………特に、士郎さんの前だと……」
「くくくっ、…何で?」
「……何でって─、」
マスクを必要以上に引き上げて「オーラに、死ぬ…」そう小さくぼやいた誠二の声にまたクツクツと笑って。士郎は誠二からもう一本、飲み物の缶を取り上げた。
「持ったげる。腕、冷たいだろ」
「あ、いや…。平気です───ってか、それ…」
“ズッキーニポタージュ。新発売! 今だけの美味しさ!!”、しかもホット──。
「あのね。颯丞って新しい物とか珍しいの好きだから、こうゆうの買ってってあげると喜ぶよ?」
「!、覚えておきます──!!」
「うん」
「まあ、嘘なんだけど…」と誠二を背にクツクツと肩を揺らしてから何の気なしに振り返れば、メンバー全員分の飲み物の嗜好を復唱し「よし、覚えた」と一人頷く誠二の様子に妙に愛おしくすら感じてしまい……。
士郎が自身を待って足を止め、こちらを振り向いている様に誠二は慌てた様子で直ぐに駆け寄ってくる。片手に飲料を纏め持つと追いついてきた誠二の首に腕を回し、彼の頭の立てた髪を士郎は無遠慮に撫で回した。
「し、士郎さんっ…!」
士郎としては他人にこうも懐かれたのも久々で何だか妙に照れくさくて、そうせずにはいられなかった───。
4.
「煮込みハンバーグ、うめぇ──。おばさんの味…」
空腹の中、帰宅して。飯ができてるとか、最高だと思う。ありがたくって、美味くって笑いが止まらない。
「そりゃね? お母さん直伝のレシピだから」
ご飯を掻き込み、誠二は。自慢げにしている夏花を余所に「おばさん、嫁にしてぇ」とあらぬ事を呟いた。
「何でそうなるのよ! それに、誠二くんにウチのお母さんはあげられませんっ!」
「くっくっ、冗談だって」
「当たり前でしょ!」
八つ当る夏花の様子がおかしくて、あんまり笑ったら米粒が鼻へと回った。──地味に痛い。
「ざまぁないわね。自業自得よ」
「──誠二くん。それじゃあ私、帰るからね」
「…あ、」
エプロンを外し帰り支度を始めた夏花に誠二はそう溢し、チラリと枕元の戸棚を振り返った。
「ご飯、もう冷凍庫に殆んど無いからね。あと、ラップも切れてたからちゃんと買っといてよ?」
「…夏花──、」
「──あと、近所のスーパーのお米の割引券。お母さんから誠二くんに、って。今度の水曜日だからね。忘れず買うように───冷蔵庫にメモ貼って置いたから、大丈夫よね?」
「……………」
口早にあれこれ告げられ、誠二は口を挟む切っ掛けを失って沈黙を守るしかない。
「はい。この印、入ってるやつを買ってね。間違ったら、券、使えないからね」
「……ハイ」
情けなくなってきて「また、今度でいいか…」と思っていた所へ──。
「ところで、さっき何か言い掛けた?」
大きな目をぱちくりさせて小首を傾けた夏花に白文鳥の姿が重なる──。「はぁ…」と一つ溜め息を吐いて、誠二は右手の中の小さな箱を握り締めた。…なかなか踏ん切りがつかない。
「…たまには飯、食ってけよ。作った本人に言うのもあれだけど………」
「ん~…。今から食べて、お皿片して一時間弱? 少し、ゆっくりなんかしちゃって『もう、夜も遅いし泊まってけよ──フッ、』」
キメ顔でふざけてみせた夏花に思わず噴き出した。
「似てねぇーよ、誰だよ。残念ながら、そういう展開にはなりません」
女を前にこんなに素の自分で居られる奴は、他にはいない。空気みたいで、酸素に限りなく近い。
以前に「もし、好きな奴ができたら俺に構うな」と憂鬱任せに言った事があったが、ぶん殴られた。──その後、何故か姉貴にまでぶん殴られて蹴飛ばされて、あの時は散々だったな…。
腑抜けてるんじゃねぇ。アイツが幸せになれるなら、それでもいいんじゃねぇかと実際あの時期は思ってた訳で──。
「あら、残念! ではでは、夏花ちゃんは一人寂しく家路に就こうかと思います。およよよ~」
鞄に保育士免許の試験だか何だかのテキストを詰め込み、足早に玄関へと駆けた。
「送ってくって。そこまで──。つか、結局もう帰んのかよ」
玄関先まで後を追って右手はポケットへ突っ込んで。片手にてドアを押さえつけると往生際悪く待ったを掛ける。
「──明日、実習だから。ごめんね? 何か」
「仕方ねぇから、別にいいけど…。なぁ、ナツ……」
「うん?」
「………………これ、」
突然、突きつけられた“ソレ”に夏花は目を丸くした。
「えっ?! なになに!? 誠二くんから愛の告白──??!、…なんてねー♪」
「バカ! ちげぇからっ──!!」
クスクス笑う夏花に誠二は顔を逸らせる。
「──いつも貰ってばっかで悪いから。あと、飯もいつも、ありがとう」
「え? 私、明日、死んじゃうのかなぁ~。誠二くんが私に“ありがとう”って! こりゃあ、次回、最終話ですな!?」
「何の話してんだよ、お前は!」
つっけんどんな彼のその言葉が、照れからくるものだと知っている。夏花自身も憎まれ口を吐くにしても、溢れ出る嬉しさから笑みを押し殺す事は難題だった。
「お前、誕生日も近いだろ…? 渡しそびれる前に渡しとく」
「誠二くんもね──」
──二人の誕生日は二日違いで、夏花は手の平の上の箱を改めて眺めてフフフッと嬉しそうに笑った。
「言っとくけど、安もんだからな───」
「ねね。開けちゃダメかな?」
「お好きにどーぞ」
無邪気な笑顔で、帰る気満々だった筈の彼女は玄関先に座り込んで鞄も置き、そっとその箱を開けた。…何処か気不味くって、誠二は顔を逸らせる。
「きゃー! カワイイ~!! わぁ~、ありがとうね。誠二くんっ!」
ファーストキスなら赤ん坊の時、既に夏花に奪われている。あれは不慮の事故だったが、親達にも兄姉達にも「責任、責任」の連呼の中で育ってきた。
「ピンキーリングっつーらしいから…。右手の小指につけろよ? お守りって意味合いらし………」
「ちょっと大きい」
「はぁ?! …マジか──」
その一言に、誠二は一気に青褪める。
「いいよ、いいよ。全然。別の指につけるから───あ。ほら、ピッタリ♪」
右手の薬指に光る指輪に、誠二は複雑そうな気不味そうな顔をした。
「……左手にはつけるなよ。それ」
「えー? どっしよっかなぁ~??」
「……………」
「嘘。つけないよ。ちゃんと、空けとくから。──ありがとね、誠二くんっ!」
“ちゃんと空けとく”、その意味に顔が熱くなったのを感じた───。
5.
「誠二。今夜は付き合わないか? お前、いつも早く帰んじゃん───」
誠二がそう士郎に誘われたのは打ち上げ二次会での事だった。
「?、別段、断る理由も無いですけど。何処行くんですか?」
「バー」
「ははは。俺、絶対、似合わね」
「いーじゃん。たまには付き合えよ」
「バーって飲むしかする事ないイメージ。俺、ぎり未成年者に含まれるんで。そこんとこ、よろしくお願いしまっす。こんな事で皆さんにご迷惑なんて掛けられませんから」
「うん、知ってる。でも、ホワイトサワーもカルピスソーダも隣で飲んでりゃ同じでしょ」
「何ですか、その理論───」
ニヘラと何処か幼い表情で笑った士郎に「飲み過ぎじゃないっすか?」とその傍らに寄り添う。「ちょっとね」と返事が返ってきて介抱しようとした士郎に捕まり、誠二は苦笑を溢した──。
*
バー~strada(ストラーダ)~───。
「──なぁ、誠二」
「何すか?」
「お前、髪下ろすとまんまガキだなぁ~」
「お陰様で──…」
半分近くは崩れ掛かった誠二の前髪を引っ張って笑う士郎へ笑い含みに誠二は皮肉を吐く。──二次会で揉みくちゃにされ、普段のそれとは雲泥の差状態だった。
「早くアイツら来ねぇーと俺、お前の事誑かして連れ込んでるみたいじゃんか~」
「大差ないっすけどねー。ホワイトサワーとカルピスソーダくらい似たり寄ったりですよ」
「お前、髪下ろしてる(こっちの)方がいいって。威圧感的なの無くてさ。ゲイバーだったら今頃、絶対凄かったのに」
「勘弁してくださいよ。ゲイバーとかオカマだとか俺、トラウマなんですから──」
「えー? なになに聞きた~い」
「教えません。それに…」
「それに?」
誠二の前髪を撫でて呟く士郎に「士郎さんだから触らせてんです」と溜め息を一つ吐き出し、誠二はグラスを置く。
「士郎さんって彼女さん、いらっしゃるんでしたっけ?」
「ん?」
カロン、とグラスの氷を鳴らし士郎は誠二を見やった。
「何で? 興味ある?」
「…不味いっすかね? こんな事聞いちゃうの」
「別にだけどー」
グラスを呷(あお)りながら士郎は笑う。
「お前さ。今日のあっつんとの時、見てたろ」
不意に顔を近づけてきた士郎とすぐ目と鼻の先にて視線が絡む…。
──ペチッ
「…飲み過ぎです。当たり前でしょ、裾居たんですから」
誠二に笑って押し退けられて、ケタケタと愉快そうに士郎も笑う。
「誠二くん、ノリわっるー」
「俺、素面(シラフ)なんでそこは流されませんよ」
「つまんねー」
「何とでも」
周りの目すら気にもせずじゃれ合う。いつしか、互いに一緒に居られる事が嬉しくなっていった───。
「──なぁ、誠二」
「何ですか?」
「お前。ずっと、blackout(うち)のローディーやってくつもりはないか?」
「………、それは…」
士郎のその言葉はとても嬉しかった。でも、自分には仲間達と交わした約束があったから──…。
*
(…遅い、……)
誠二は時計へ目をやった。
((……、すぐ戻るよ──…))
士郎が席を立ち、十五分余りが経過していた。
「すみません。トイレは……」
「突き当たり、左の奥です」
「ありがとうございます」
手を止めたバーテンに指差され、誠二はカウンターの席を立った。
「─────、──…、」
「士郎さん…!?」
誠二は、瞬時に青褪めた。洗面台へと突っ伏して苦しそうに呼吸を乱す士郎の様子に、単に酔っ払っての嘔吐ではない事を察したから──。
痙攣、強ばり。蒼白な顔──。
「俺、店の人呼んできます!」
「いい…! やめろっ──」
「………でも─、」
口元を拭い、顔を上げた士郎に睨まれ。誠二は僅かに狼狽えた様子をみせてから、士郎に駆け寄ってきて体を支えようとする。
「──触んな…!」
背を擦(さす)られ掛けて、士郎は誠二をいきなり突き飛ばすとヨロヨロと立ち上がった。
「……触んなよ…、そんな風にっ………」
クシャリと片手で前髪を掻きむしる。ゆっくりと誠二を見た士郎は泣いているように見えて、誠二は言葉に詰まり立ち尽くす。
「…………お前も、…俺を、捨てるんだろ──??」
洗面台へと背を預け、両手で顔を覆う士郎から吐き出された言葉の意味を取り兼ねて誠二は士郎を見た。
「………愛してるって、……一人にしないって、言ったのに…………」
──チャプンッ、……
「士郎さん──?」
水面に雫でも落ちたような音がして、二人の足元から闇が湧く───…。
「───違う。誠二は関係ない。──駄目だ。逃げてくれ、誠二…!」
辺りから闇が染み出てきて、バーのトイレであった場所を底無しの闇が忽ち覆い尽くした──。
「……ごめん。ごめんな、誠二…。お前を、こんな事に巻き込むのは間違ってる────」
足が竦み身動きの取れなかった誠二の元へ、よろりと士郎は歩み寄ってきた。
「───好きだって、言ってくれたよな? それだけで充分、嬉しかった……」
「……士郎さん、」
誠二に触れようとして、誠二の声に自制心を僅かに取り戻しその手を押し止める。
「突き放して…、早く逃げろ。俺から──…」
「できません」
「何で…」
「ほっとけません、だって───」
「──誠二…!!」
「───大好きです! 今も昔も、これからだって」
一瞬の間の後、肩を弱く突き飛ばされた。…拒絶ではなかった。最後の最後の、彼からの「逃げてくれ」という誠二への誠心誠意な愛の現れからだった。
第五話へと、続く