冷静と情熱の効果
夢小説設定
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曹操の父親である曹崇の横死の知らせは、ようやく勢力として纏まりを持ち始めた曹操軍に大きな衝撃を与えた。
曹崇は元は夏侯氏の産まれであり、夏侯惇にとって叔父にあたる人物である。
曹操の祖父にあたる、曹騰が宦官であったため養子として曹家に迎えられ、官僚として司隷校尉・大司農・大鴻臚を経て大尉まで務めた人物であり、慎ましやかで忠孝を重んじる性格であった。
黄布の乱の始まる前に、徐州東北部のロウ邪郡に家族を連れて避難していたのを、この度、曹操が兗州で地盤を安定させる事に成功したので、呼び寄せた道中で起きた惨劇である。
曹崇を殺害したのは、道中警備を申し出た徐州牧の陶謙の配下だというのだから穏やかではない。
知らせが齎されると同時に、事の仔細を説明するよう求められた陶謙の返答は要領を得ない内容であったため、一気に曹操の仇敵討つべしとの気運が高まった。
軍議の席で曹騰の死を発表した曹操は既に徐州へ軍を向ける事を決めている。
父親の仇敵を討つための私情もあるのだろうが、これが勢力を拡大するのに絶好の好機と見たためだ。
軍議の場では、私情を持って軍を動かす事について幾分か疑問視をする声はあったものの、曹操の決意は揺らぐ事無く徐州侵攻をする前提で終わった。
大義名分無く私情で軍を動かす事については、天下に大きく曹操の名を汚す事になるのだろう。
勿論、曹操とてそれを理解している。
それでも徐州を得るという実利をとるのが曹操という男なのだ。
恐ろしい方だ。
親の死すら己の理想を達成するために利用しようというのだから、荀攸はそう思う以外ない。
だが、一方で軍師として徹底して軍事的実利を優先する曹操は実に仕える甲斐のある人間でもあった。
「やっぱり、やるんですかねぇ?徐州侵攻。」
「正式には発表されていませんが、近いうちにやるでしょうね。」
徐州侵攻が行われるかもしれない。
また戦が起きるかもしれない。
そんな不安と緊張感が今の城には漂っている。
執務室の前を慌ただしく往来する文官達を眺めながら、ぼんやりと尋ねる千代に荀攸は淡々と教えてやった。
「まぁ、徐州は豊かな土地だって言いますしねぇ。」
戦が起きる事について不安な事など何一つとして無いという調子で千代はのんびりと茶を淹れ始める。
千代の言うとおり、徐州は豊かな土地だ。
世が乱れて勃発する戦から逃れるために徐州を選んだのは、何も曹崇に限った話ではない。
この当時の徐州は豊かであり、戦を避けた流民も多く身を寄せている。
その豊かな土地を曹操が得る事が出来た場合。
荀攸はそれを考えると人知れず身震いする。
許昌を本拠地とし、兗州と徐州に勢力を持つ事が出来れば、天下に覇を唱えるのもあながち夢物語ではなくなってくるのだ。
今、天下に近いと目されている袁紹・袁術だが、この二人は同族でありながら不仲である。
実際に、先だっては代理戦争のような事も起きており、この先この両袁家が手を組む事はよほどの事でもない限り難しいだろう。
で、あれば、曹操が兗州と徐州を収めた後に、片方ずつ潰す事が出来れば、十二分に曹操が天下に覇を唱える事も夢ではない。
「でも、簡単にいきますかねぇ。」
「簡単にはいかないでしょうね。
陶謙が頭角を現したのは武官としてです。
学問にもけっして暗くない上に、涼州へ派兵された後は、徐州で黄布賊の討伐に当たっていますし。
何より徐州には青洲兵が居ますからね。」
書き終わった竹簡を脇に避けながら荀攸は淡々と見解を述べる。
確かに曹操軍は精強だ。
今の天下に曹操軍ほどに統率がとれた軍は無い。
だが、それでも易々と勝ちを収められるほどに乱世は甘くない。
陶謙と青洲黄布賊が手を結んだら・・・・それはそれで厄介しかない話になる。
「黄布賊の残党でしたっけ?
まぁ、手を組む先としては妥当ですね。
董卓連合にも参加せず徐州に引きこもってた分、兵力もまるっと温存できてるわけですし。
遠征では無く迎撃・撃退という点では地の利もありますしねぇ。」
盆の上に茶器を用意しながら千代は「うぅん」と唸る。
「まぁ、青洲兵と陶謙が手を組むのは難しいでしょう。」
散々に自分達を弾圧してきた陶謙に対して、青洲兵が手を貸す事があるとすれば、徐州で黄布教を庇護してやるくらいの優遇措置を講じねばならないだろう。
かつて天下を乱した宗教を庇護するという決断を陶謙が下す可能性は低い。
だが、だったとしても陶謙が温存している兵数は無視できる数では無かった。
「確固撃破すれば良いって事ですかね?」
「そうなりますね。」
煩わしいが、青洲兵と陶謙が手を組む前に青洲兵を優先的に潰すのが妥当なところだ。
千代が盆に茶器をのせて荀攸の執務机の上に置く。
ふわりと品の良い茶の香りが荀攸の鼻を擽る。
とりあえず一時は執務から離れて気分転換をするために、荀攸は茶器に指を伸ばした。
「時に、貴方は戦の経験はありますか?」
今回の徐州侵攻は荀攸にとっても想定外の出来事だ。
有能である付き人を将来的には戦場にも伴うつもりであった荀攸だが、こうも早くその機会が訪れるとなると心中は複雑である。
色々と問題はあっても、千代は女。それも年若い。
戦場という悲惨な場に連れ出すには、聊か荀攸も気が引けた。
「戦は無いですね。
精々が、盗賊を成敗した事があるくらいです。
姉上ならあると思うんですけど・・・・。」
「・・・そうですか。」
毎度の事ながら、千代の姉とは何者だろう?と荀攸は思いつつ、茶を口に運んだ。
物騒すぎる逸話の持ち主は、荀攸の中で呂布が女装をした姿で毎度再生されている事は、流石に千代には言えない。
千代の盗賊を成敗した話については、興味はあるので今度聞いてみても良いだろう。
自分の身を守れる程度の武芸があるならば、やはり千代を連れていきたいと荀攸は考えているのだが。
その思考回路をぴたりと止めたのは、口に含んだ茶だった。
苦い。
香りは良いのに、苦い。
兎に角苦い。
頭の中をただひたすらに「苦い」という感想が駆け回る。
びしりと固まった荀攸は、口の中の苦い液体をどうするか酷く悩んだ。
これが外であれば即座に吐き出しただろう。
そして水を求めたはずだ。
だが、ここは室内でしかも執務室。
吐き出そうにも吐き出す場所が無い。
どうすべきか逡巡した揚句、荀攸はいつまでも口の中にこの苦い事この上ない液体をとどめておきたくない一心で飲み込む事にした。
ごくり。と荀攸の喉仏が上下する。
「な、何のつもりですか?」
苦い茶を飲み下した荀攸がいつになく感情を込めて千代に尋ねる。
こんなに不味い茶を飲んだのは生まれて初めてだ。
千代のイタズラだとすれば、流石にこれはいただけない。
拳骨を一つ落として、はいおしまい、とはいかないと荀攸はようやくふつふつと怒りが湧いてくる。
対する千代はきょとんとした顔。
まるで自分が、苦いしか感想が出ないような茶を入れた自覚など無いかのようだ。
まさか、千代では無い?
だとすれば、飲み込んだのは間違いだったか?
荀攸は額に僅かに脂汗を浮かべる。
「苦いんでしょう?」
「・・・・貴方の仕業ですか。」
「え?苦いだけじゃないですか。
荀攸様、お疲れだから疲労回復の特効薬を煎じたんですよ。
お口直しでしたら、月餅があります。」
さらっと言う千代の言葉通りに、盆の上の皿には月餅がある事に荀攸は今更のように気がついた。
甘いものをあまり好まない荀攸のお茶受けといえば干無花果等が多い。
いつまでも口の中が苦いのが嫌で、荀攸は普段は口にしない月餅を指でつまんで一口齧る。
けっして高価なものではなく、市井で誰でも手に入れられるような品質の月餅だったが、口の中の苦みを打ち消すには丁度良かった。
「荀攸様、お疲れ気味じゃないですか。
疲れた時には、休息するのが一番なんですけどねぇ。
ご自分では気がついて無いかもしれませんけど、肌凄い荒れてますよ。」
もう、ガッサガッサと千代が両手で自分の血色の良い頬を摩る。
無意識に荀攸は己の頬を片手で一つ撫でてみるものの、千代が言うほどに酷いとは思わない。
「・・・・イタズラでは無いのですか?」
じとっと千代に視線を向ける荀攸に千代が盛大に眉を顰めて見せる。
「こんな時にまでイタズラしかけませんよぅ。」
ぷくっと膨らんだ頬は白い餅のようだ。
思わずその頬を摘まんでみたい衝動に駆られた荀攸は、内心で激しく動揺した。
若く瑞々しい肌は白く滑らかで白磁のように触り心地が良いだろう。
だが、だからといって触れてみたいという発想に繋がる事が荀攸にとって驚くべき事だった。
「だいたい荀攸様はご自分の事に、無頓着過ぎます。
荀彧様や郭嘉様のように、とは言いませんけど、もっと自分に手をかければ、荀攸様だってモッテモテになりますよ。」
本当は男前なんだから、と千代がぼそっと付け加えた。
男前?俺が?と、荀攸はまたも動揺する。
顔にこそ出さないが、千代の言葉はそれなりの衝撃を荀攸に与えた。
今まで己が優れた容姿の持ち主だと思った事など一度も無い。
鏡を見れば、そこに居るのは、無愛想で野暮ったい男が一人。
どれだけ自分に手をかけたところで、荀攸はきっと荀彧のようにはなれはしないのだ。
それは蛾が蝶になれないのと同じ事。
「荀攸様!聞いてます?」
ずいっと眼前に千代の顔が唐突に表れた。
椅子に腰をおろしている荀攸に対して、執務机を挟んで千代が身を乗り出したらしい。
いつになく近い距離にある千代の顔は、あどけないが整っている。
「私はね、荀攸様が何にも知らない女官達からヒソヒソ馬鹿にされるのが嫌なんです!
あの人達ったら、荀攸様の何処見てるんでしょうかね?
ほんと、節穴も良いところですよ!!」
憤懣やる瀬ないとばかりに千代は訴える。
静かな動揺が鎮まらぬまま、荀攸はぼんやりと千代の唇に視線を走らせた。
血色がよく瑞々しい唇。
それが濡れたらどうなるのだろう?
またしても己の思考の暴走に荀攸は愕然とする。
何故、そう思ったかは荀攸にも分からない。
ただ、唐突にその頬に触れてその唇をどうにかしたいという欲求がこみ上げたのだ。
「そりゃぁ、郭嘉様は色男ですし、荀彧様も爽やかで礼儀正しくて端正なお顔立ちしてますけど・・・むぐっ!」
反射的に荀攸は皿の上で半分に割られている月餅を摘まみあげると目の前で何やら主張する千代の口に押し込んだ。
「お喋りはそこまでです。
半分差し上げますから、これを記録室に返却してきて下さい。」
むぐむぐと口の中の月餅を咀嚼する千代に、荀攸は竹簡を指さした。
別に今すぐに返却しなければならない理由は何処にも無い。
ただ単に、荀攸が暴走気味の思考回路を宥めるのに、千代が近くに居ると困るというだけの話だ。
他に急ぎで運ばなければならない竹簡は、いずれも郭嘉か荀彧の所が行き先で。
やはりどういうわけだか分からないが、荀攸は千代を今そこに向かわせたくなかった。
口をむぐむぐと動かしながらも千代は荀攸が示した竹簡を手に取る。
普通の女官であれば嫌がるであろう力仕事も当たり前のようにこなしてくれるのが、この残念娘の良い所だ。
ごくんと白い喉が上下した。
「御馳走様でした。」
「お粗末さまです。」
竹簡を抱えた千代が律儀にぺこりと頭を下げる。
「それじゃあ、急いで行ってきますけど、荀攸様はそれを飲んで少し休んでて下さいよ。
吃驚するくらい苦いですけど、効果抜群なんで!
口直しが足りなくなったら、そこの棚に乾菓子がありますから特別に食べて良いですよ。
本当は私のオヤツなんですけど!」
ぱっと執務机から離れつつ、千代は竹簡を抱えたまま矢継ぎ早に荀攸に告げると、あっという間に執務室を出て行ってしまった。
千代が出て荀攸一人になった執務室は、静寂に包まれる。
あの娘が居ると居ないとでは、執務室の温度が少し違うように感じられて、荀攸は溜息をついた。
自分の心身に齎された先ほどの衝動をどう逃がすか。
まずは冷静になる事が先決だ。
千代に妙な衝動を抱いたのは、単純に長らく女という存在に触れていなかったせいだろう。
そうでもなければ、劣情にも似た衝動を千代のような年若い娘に抱くなどありえない出来事だ。
こういう時は、色街で女でも買って一晩過ごすのが最善だが・・・・生憎と今の荀攸には女を買っている暇は無い。
気を紛らわすために、荀攸は勢い良く茶器を煽った。
本来であれば品の無い行為であるが、どうせここには今は荀攸しかいないのだ行儀が悪くても問題は無いだろう。
気が遠くなりそうな苦味が今はありがたかった。