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21gの残骸

- be left behind -
「物騒だなぁ。」
その言葉が薄い壁や窓を通して聞こえるサイレンか。それとも四方形の中でニュースキャスターが深刻そうな顔で読み上げた文字の羅列に対してか、リコは数秒考えたあと鍋の中に刺さったままのレンゲに手を伸ばした。
「珍しくもねぇだろ、こういうの」
豚バラ肉とクタクタになった白菜を皿にとりつつ、声の主の分もついでによそいさっさと食えと押し付ければここ暫くで見慣れてしまった笑みを向けられた。
「ありがと。……やっぱ鍋は美味いなぁ。」
器を受け取り勢いよく食べ始めるその姿も随分見慣れた。濡れたままの黒髪から落ちる水滴も、100均特有の少し安っぽい食器類も、目の前で飯を食らう青年も三週間前までリコを構築する世界にはいなかった存在だ。
「…こんな土鍋よく見つけたな。」
「食器棚の奥にあったぞ、買って忘れてたんじゃないか?」
「まあ、鍋なんざ久しく作ってねぇからな。独り身だったら外で食ったほうが早い。」
青年に言われた通り、そんなものがあったことすら頭から抜けていた。しかし単身世帯の男なんてそんなものだろう、特に珍しい話ではない。
「…それよりフェイ、お前頭きちんと拭け。床が濡れる。」
「え?いや、いわれた通り拭いたんだけど…。」
青年・フェイはリコの呻きに目を瞬かせているが、長い毛先から雫がポタポタ落ちる現状を拭いたというのならそれは濡れた犬が身震いだけして乾きましたというようなものである。鍋の湯気越しに見える床の小さな水たまりに家主は大きく息を吐いて、後ろ手に棚からタオルを取り出した。
「絞っただけだろうが…。鍋の火止めろ。」
「飯食べてからじゃダメか?」
「俺が床拭いてる間に鍋が空になっちまうだろうが。」
投げつけられたバスタオルを受け取りながら髪を拭くフェイを横目で見たあと、リコは雑巾を取りにキッチンへと向かった。雑巾といっても傷んで使えなくなった衣服の切れ端だが、床の水滴を拭くにはちょうどいい。
(本当におかしな話だ。)
水道の蛇口を捻り溢れた水、それを見てリコは……家主たる音は思い出す。
(あの日も雨だったな。)
異邦人たる青年と出会ったあの日、月も星もない夜の話を。
♢♢
リコはその日、仕事道具であり相方でもあるトラックミキサを走らせていた。円筒形の容器に生コンクリートを収め撹拌しつつ輸送する、日を跨ぐ長距離の運転も珍しくはないがその分金払いはいい。2メートルを超える体躯を裏切らない腕力を誇る力自慢であり体力自慢にはピッタリな職ともいえた。
(煙草切れたか……。コンビニ……はこんな田舎じゃ期待できねぇな。)
咥えていた最後の一本を灰皿に押し付け、ため息と共に紫煙を吐く。嗜む程度ではあるがないとやはり口寂しい、気紛らわしにガムでも噛むか。たしかサイドボードにミントガムがあったはずだ。
(……まあ、コンビニか自販機見つけたら買うがな。)
取り出した黒い粒を口に放り投げ、そのまま噛み砕けば独特の粘り気と一気に広がる爽快感を通り越した辛さが鼻をつきぬける。しばらくはこれで慰めになるだろう。
『……では次のニュー……△△……昨夜……男……たお……死亡……。警察は……連続殺人……犯人を…』
田舎が過ぎるのか、ラジオの音声も途切れ途切れである。山に囲まれた地域だから仕方ないが砂嵐の音が鼓膜の奥に張り付き少しばかり不快だ。
(無音だと眠くなるからないよかマシだ……が……?!)
やれやれだとリコが肩を竦めたその時、前方を見つめていた鋭い瞳が見開かれた。街灯のない田舎道、唯一の光源であるヘッドライトが何かを捉えたのだ。
草原の影からひょこりと現れたそれをリコは最初獣かと思った。コンビニどころか民家ひとつ見当たらない、田んぼと畑と山の木々しかないのだからたぬきや兎だけでなく猿の類もいるだろうと踏んだのだ。しかしその考えは沸いた違和感により否定された。
(猿にしてはデカすぎる)
茂みから飛び出してきた影の高さは猿にしては高く、黒い何かがが肌にまとわりついていた。慌ててかけたブレーキにタイヤが悲鳴をあげるのも構わず、リコは窓を開けて愛車から身を乗り出してようやくその全貌を目に捉えた。

それは人だった、身に纏うTシャツは泥と土のせいで本来の色が分からないくらい汚れていたしジーンズも同様の有様。身体にまとわりついてた物はどうやら伸びすぎた髪の毛のようだがそちらにも泥がつき絡みついているうえに絡まっている、きっと数日は風呂に入っていないのだろう。山篭りをしていたのだと言われたら納得してしまうほどに、茂みを掻き分けリコの目の前に現れたそれは穢らしい風体をしていたが確かに人間だった。
「……何してんだお前」
「……あー、自分探しの旅の最中というか……」
問いかけに反応し伏せていた顔が上を向いた、ヘラりと笑みを浮かべたその面はやはり土に汚れ頬には乾いた黒い泥が張り付き酷い様である。よく見れば顔立ち自体は幼げでまだ十代後半くらいではないだろうかとリコは考えた、しかしひたりとリコを見つめる黒い瞳だけがまるでひどく深い水底のように一切の光がなく凄まじい違和感を覚えた。唸るような夜風の音と葉鳴りだけが数分ばかり二人の間を駆け抜ける。青年は変わらず沼底の瞳を向けたまま笑うばかり、不審者か家出少年か…自分探しの旅とかいう青春イベントの最中というには無理がありすぎる風体にリコは一度大きくため息をついた。
ここで置いて走り去り何食わぬ顔で帰路につけるほど、リカルド・バンデラスという男は非情ではない。故に彼は当たり前のように助手席の扉を開けた。
「……乗れ、どうせ行くとこねーんだろ。家出か何かは知らんが……。」
やれやれと息を吐く眼前の男の行動に驚いたのは他ならぬ泥だらけの青年である。丸い瞳を数度瞬かせ開かれたドアとリコを交互に見つめたあと、絞り出されたのは独り言ともとれるほど呆然とした声だった。
「……え、なんで?」
「そりゃお前……身ぐるみ剥がされたって言われた方がまだ信じれるぞ」
「……乗っていいのか?」
信じられない、というふうに眉をしかめる暫定家出青年の態度に男は本日何度目かのため息を吐いてもう一度「乗れ」とだけ吐いた。それを聞いて数秒顔を伏せたあと、泥だらけの顔を緩ませようやく青年はトラックミキサの助手席へと乗り込んだ。シートに土が付着するがこの際気にしてはいられない、あとで掃除すればいいだけの話である。
「ありがと、街で下ろしてくれればいいから……。」
その風体で言えることではない、笑う青年の言葉を敢えて無視しリコはハンドルを握り車を発進させた。唸るエンジンと共に動き出した車窓の風景にぼんやりと視線を向ける隣の存在を横目で見ながら、今更なことに気付き男は口を開いた。
「……そいやお前、名前は?」
こうして成り行きで拾ったはいいが、まだ名前を聞いていなかった。リコの問いに青年は目を瞬かせたあと、ゆるく笑みを浮かべ言葉を返す。優しげにすら見える表情だがその眼はやはり沼底のように暗く一切の光を映さない。
「……フェイ、俺はフェイだよ。あんたは?」
「リコだ。」
互いの名前を教えあったあと、リコの住むアパートに着くまで二人は何も話さなかった。リコからしてみれば聞きたいことは山のようにあったし、本来ならば自宅ではなく警察に届けるべきなのも理解はしていた。

しかし、出来なかった。
気づいてしまったのだ。
泥に汚れたジーンズ、その中に明らかに土ではない暗褐色の染みがこびりついていることに。
暗闇では分からなかったそれはまだ明かりがある車内ではハッキリと分かってしまう。
(これは厄介なもん拾ったな……。)
明らかにやばい、これは予想以上に面倒なことになるかもしれない。リコはブラックミントガムを口に放り投げ苛立ちと共に噛み砕いた。目に見える事故案件でありながら何故リカルド・バンデラスがフェイと名乗る青年を自宅に拾いあげたか、理由なんてものはひどく単純だった。

《放置していたら死にそうだったから》

ただ、それだけ。それだけの理由で彼らの奇妙な共同生活は幕を開けた。504時間に及ぶ、彼らのみ知る歪で穏やかな日々の幕開けはこんな田舎道での偶然の出会いだったのだ。

♢♢
(あれからもう三週間か。)
フェイと名乗る青年は、名前以外何一つとして持っていなかった。財布やスマートフォン、免許証や保険証……彼の身元を証明するものは何も有しておらず、そもそもフェイという名前すら自称に過ぎず偽名の可能性がリコの頭をよぎった。だが深く追求することはせず、家に帰って最初に行なったのは泥だらけの異邦人を狭いユニットバスへと放り込む事だった。
「服は適当に投げとけ。」
「本当にいいのか?あんたにとって何の利益もないだろ?」
「うるせぇ、いいからさっさと風呂入ってこい。」
歩く度に土の欠片を落としながら眉をしかめ分かりきった事を問いかける、そんな青年を半ば強引に風呂場に押し込んでリコは脱ぎ捨てられた衣服と向かいあった。
(改めて見ると…ひでぇな。)
様々なもので汚れているのもあるが、生地自体が傷んでおりほつれやよく分からない穴が開いていて洗濯を回せば更にひどい状態になることは明白だった。一応流水で泥を落とそうと試してみたが、擦っても絞っても湧き出てくる汚れは尽きることなく力を入れすぎて案の定脇下が裂けてしまった。これではもはや衣服として役には立たない、力自慢も困りものだ。
「やっちまった……、仕方ねぇ。」
明日にでも買いに行けばいいか、そう切り替えリコは衣装箪笥から目についたスウェットの上下を取り出した。サイズは違うがないよりはマシだろう。そして衣服の次は飯だと棚からカップ麺を二つ取り出し、湯を沸かしてる間に半端に残った冷食の炒飯を電子レンジに放り込んだ。
(とりあえずこれで腹は膨れるだろう)
フェイが出てきたのはそれから数分後、ちょうど炒飯が温め終えた頃だった。
「……風呂ありがとう。」
「ああ……って下はどうした下は!」
「いや、デカすぎてズボン落ちちゃって無理だった。」
フェイも決して小さくはないのだが、身長2メートル越えで体格もいいリコの服はあまりに大きすぎた。現に灰色のスウェットも袖が余り指先すらみえず半ば肩からずり落ちそうな有様、上でこれなら下は紐で止めてもストンと落ちてしまうだろう。男の生脚に興奮するような性癖はリコにはないが、夏場ならいざ知らず少し肌寒いこの季節にこの格好は身体に良くない。それに下着なども買いに行かねばならないだろう。
「……はぁ、後で適当に買ってくる。とりあえず飯にするぞ。」
息を吐きながらそう促せば、髪から水を滴らせつつフェイはテーブルの前に腰を下ろした。潰れたクッションにポタポタと水滴が落ちてシミを作っているが、注意する間もなく卓上に置かれた炒飯とカップ麺に食らいついた。余程腹が空いていたのだろう、リコが食べ終わる前に綺麗にそれらを平らげフェイはようやくフゥと息をついた。
「ご馳走様……、あのさ。」
「なんだ」
「リコってあんま料理とかしないのか?」
食べ終えた空のカップと皿を見つめながら放たれた言葉、リコは茶を啜りながら男の一人暮しなんてそんなだろうと答えを返した。最初の頃は自炊を頑張ろうと意気込む者も少なくはないが、リコの場合職業柄家を空けることも多く朝帰りも珍しくない。目と身体を酷使した後に食事の支度をするのは億劫で大体今日のようにインスタントで済ませるか近場の定食屋に足を運ぶかのどちらかだ。リコの答えにフェイは少し考えたあと、提案を口にした。
「…俺、作ろうか?」
「は?」
「家に置いてもらってる訳だし…。簡単なやつしか作れないけど。」
まさかの発言に掴んでいた湯呑みが手から滑り落ちそうになった、フェイとしてはお礼あるいは家賃の代わりなのだろう。しかし身元不明の人間に台所を任せていいものか、沸いた懸念をリコは胸中で笑い飛ばした。
(今更な話だ)
そもそも身元どころか本当の名前すら知らない訳あり男を犬猫のように拾い、こうして家にあげている時点でお手上げである。
「……最低限の道具しかねーぞ。」
「包丁とかお玉くらいはあるだろ。」
片付けついでに見てみると空の器を抱えフェイはシンクへと消えた、足跡代わりに床に落ちる水滴を横目で見つつリコは大きなため息を吐いた。テレビでは一方的に見慣れたコメンテーター気取りの芸人が感情任せの論議を繰り広げている。内容は政治と金問題らしいがリコはこれっぽちも興味が無い、いや皆無といえば嘘になるが同じ政治の話ならもっと他に議論すべき議題があるはずだと思ってしまう。
チャンネル変えるか、そう考えリモコンに手を伸ばしたのとシンクから己の名を呼ぶ声がしたのはほぼ同時だった。

「リコー、フライ返し見当たらないんだけど……」
自分の部屋で誰かに名を呼ばれるのは随分と久しぶりだ、奇妙な感覚だが悪い気はしない。伸ばした手を下ろす代わりにのそりと立ち上がりリコは異邦人が待つキッチンへと消えた。
「買った記憶がないから多分ないぞ。」
「……え、大分不便じゃないか?あとゴミの分別はした方がいいと思うぞ。自治体に怒られるだろ。」
「……あー、大家によく言われんだが……」
誰かとこうしてくだらない話をしながら過ごすのが久しくて、多分楽しかったのだ。だからこの時のリカルド・バンデラスは全てに目を伏せた。

そうしてズルズルと三週間、暫定家出青年と奇妙な同居生活をしているわけである。
(なんつーか、慣れたな。)
他人がいる生活にすっかり適応してしまった、料理を作るのはフェイの役目・洗い物をするのはリコの役目という具合に役割分担まで出来上がっている、一緒にいて気になる所はあるが苦ではない。布を絞りぼんやりとこのまま暮らすのも悪くないな、 そんなふうに思いつつリ濡れた床を拭くべくリコは同居人が待つ自室兼リビングへと足を運んだ。

「おい、ひとりで食うなって言っただろ。しかも肉ばっか拾いやがって。」
「食ってない、食ってない!」
「明らかに減ってんだよ……。」

この翌朝、リカルド・バンデラスの前からフェイは姿を消す。そして一人の青年が早朝に警察の扉を叩き、世間に嵐を巻き起こす。

『赤い悪魔、凶悪連続殺人犯、まさかの自首か』
対峙した警察官は後にこう語る。
『穏やかに笑っているくせに目だけが穴が開いたように暗かった、話しているだけでこちらの全てを見透かされそうな恐怖を感じた。』

と。

これは青年と男の奇妙な同居生活、その軌跡であり同時に化け物として語り継がれる青年がただの人間として過ごしたただ一人の中にしか残らない泡沫の残骸である。
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