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NobodyKnows

世界は広い、それは酷く使い古された言葉。
果てがないのではないかと思うほどに広大なこの星の全てを、見て聞いて知った人という存在が果たしてどれだけいるのだろうか。
今浜辺にて佇む亜人、リコ……本名リカルド・バンデラスはまさに今先のありふれた言葉の意味を痛感していた。
(静かだ……空気も美味い。)
『進路確認のために一度この辺りで停止しましょう。』
潜水・潜砂艦ユグドラシル副艦長の指示の通り、海流を切り裂いて目的地へと突き進んでいた鋼鉄の塊は近場の浜辺に落ち着いた。いくらレーダーなど優秀な探査・索敵機能を有していても気まぐれな天候と荒れる波、そして巨大なら艦隊がまるで砂粒に等しいほど広大な海では迷子になるなんて造作もない話。海で遭難なんて棺桶に詰められ死を待つと同義、慎重に進むことは何も悪いことではない。
こうして息抜きと称し間近で波音を聞き、踏みしめる靴裏から伝わる砂の感覚を味わえるのもその慎重さのおかげなのだから。
(デケェな…走行してる時は甲板出れねぇから実感薄かったが。)
遥か彼方、果てすら見えぬ水平線の先まで続く水面は陽光を反射しキラキラと輝きを放っては波を打つ。リコが人生の大半を過ごしたキスレブは蒸気により空気も視界も煤けていた上に、押し込められていたD区画はその中でもさらに劣悪な環境だった。こうして外に出てその広さを実感できるなんてまるで嘘のような話だが、紛れもない現実なのだ。
(気候次第じゃ泳げれるみたいだが……流石にな……)
「待て!こら!!!!」
(にしても砂漠もそうだが世界ってのは面白ぇ…)
「おい!!!!逃げるなって!!ちょこまかと!」
「…フェイ、お前何やってんだ。さっきから……」
静かに物思いに耽るには後ろの声が喧しい、小さくため息をついてリコが振り向けばそこには結んだ黒髪を靡かせ必死に何かを追いかける少年……リコが外に出る契機となった人物・フェイの姿があった。よくよく見れば進行方向の先には小さなカニが呑気に横歩きで浜辺を闊歩している。
まさかとは思うが必死に追いかけていたものはこれなのか?
リコがその鋭い目で見つめるとフェイは分からないのかという具合で目を瞬かせ先の問に答えた。
「え?カニだけど…。食うと美味いんだ、茹でると赤くなって面白い。」
リコはカニ食ったことないのか?と逆に質問され、橙の髪を二、三度掻いてから
「あ〜……ねぇな。あそこは新鮮な魚なんざなかなか手に入らねーから。」
とだけリコは答えた。
その言葉にフェイは納得したらしく、大きくうなづいた。
「ああ……確かに見なかったな、ステーキは美味かったけど……。」
「そういうことだ。 」
しかしあんな小さいの腹の足しにもならんだろ、と男は続けようとしたがそれを遮るように響いたのは「あ!向こうになんかある!」という青年の弾んだ声。そしてどうしたと声をかける間もなく地を駆け、時に立ち塞がる敵を蹴り飛ばす足は砂を踏みしめ軽やかに走りだした。
どうやらカニから走り出した先にある物に関心は移ったらしい。
「……あいつ目離した瞬間、視界から消えてそうだなおい。」
ただでさえ周りに心配かけたばっかだってのに……。刻まれた足跡を辿るように男は歩を進めた、亜人という特質を差し引いても体格に恵まれているリコの歩幅はそれに見合った大きさだ。それ故に既に目当ての物を見つけたらしい青年の背中に瞬く間に追いついた。
「…何してんだお前」
本日2度目の質問、フェイが答えはこれだと言わんばかりに視線の先の物を枝でツンツンと突っついた。多分枝は流れ着いた流木だろう。
「いや、なんか変なものがあると思って。見ろよこれ!ブルブルしてる!」
「……なんだこれ、デケェな」
そこに転がっていたのは何やらゼリー状の奇妙な物体、枝で触れる度砂に塗れたものがプルンプルンと小さく揺れなんというか不気味である。またおそらく身体だと思われる部位からとにかく長く細長いものが幾数本も伸びているのも不気味さに拍車をかけている。
知的好奇心は擽られても食欲は微塵も湧かない、そんな怪しいものを前にフェイは少し考えこんで口を開いた。
「……これ、食えるかな。」
「いや、やめとけよ。腹壊すぞ」
光の速さで放たれたリコの至極真っ当なツッコミも意に介さず青年は怪しい物体の傍にしゃがみまじまじと観察し始めた。
「茹でたら溶けるか?うーん……とりあえず生でもいけるんじゃ……」
今頃船内で休んでいる少女が聞いたら、卒倒しかねない発言を呟きながらとりあえず洗うかとプルプル揺れる物体にフェイの小麦色の指先が触れる、その寸前で。
「それに触ってはいけません!!!」
二人の遥か後方から走ってくる男の声が静かな浜辺に響き渡った。

……
「いいですかフェイ。あなたが触ろうとしていたものはカツオノエボシというクラゲの仲間です。これは強い神経毒を有していて刺された場合、激痛・炎症を引き起こします。それだけでも海中では溺死の危険性がありますが、最も怖いのは二回目刺された時の過剰なアレルギー反応……アナフィラキシーショックです。これに至るとショック死してしまう危険もあるんですよ。」
よく浜辺に打ち上げられてるのは見ますが……、ビリーくんからあなた達が浜に行ったと聞いて心配で見に来てみれば……。
長い服の裾を潮風にはためかせつつ、シタンはニコリと笑ったまま淡々と以下にフェイが触れようとしたものが危険かを説明していた。途中聞きなれない言葉の羅列にリコとフェイが2人揃って頭上にハテナを浮かべれば、察した賢人はやはり優美な笑みを崩さぬまま
「ようするにとにかく危ないものだと言うことです。」
と要点をまとめた。それを聞いてようやくことの次第を理解したらしい二人は同時に目を瞬かせた。
「……やべぇ奴じゃねーか」
「…え。危ないじゃないか……」
「そうです、だから食べるとか言語道断なんですよフェイ。」
不味い云々じゃなく死にますからね、シタンのその言葉にフェイはギクリと身体を強ばらせリコはそら見ろと肩を竦めた。

「さ、帰りますよ。直に出航するそうです。」
そういって先を歩き始めた賢人の背を追うように、待ってよ先生と青年は駆け出した。その後に刻まれたものに重ねるように己が足跡を砂に残しながら、男はもう一度遥か彼方水平線の先まで続く海を見つめた。
眩しいものを見るように鋭い目を細めて。

「…」
「どうしたリコ、早く行こう」
「お前に言われたくねぇな……」

青年の声に誘われるまま、男はゆっくりと歩み始めた。その後には大きな足跡が一つ、しかしすぐに風が吹いてその痕跡をかき消した。

……

大海原、果てしなく続く水面を切り裂き進む鋼鉄の塊が道無き道を往く。
既に日は西へ沈み、数時間前まで空の蒼に溶けていた海は紺碧に輝き丸い月を鏡面のように映している。
常ならば賑やかな艦内も夜更けとあらばシン…と静まり返り、響くのは乗組員たちの野太い鼾の輪唱とエンジンの駆動音だけ。しかし甲板を支配するのははそれとは別の音……ザーッザーッという波の響き交わしと硬質な床を蹴る靴音だ。
「……はぁ」
昼の姿とは全く違う静けさを纏う夜の海をボンヤリと見つめながらリコは息を吐いた、寝床を抜け出し甲板へと出た理由は強いて言うなら《なんとなく》。寝付けず少し気分転換に外に出た、それだけの話。
しかしまさか先客がいるとは思わなかった。
「……何してんだフェイ」
毛布すら持たず冷たい床の上で膝を抱える影は、男の呼びかけにハッと顔を上げた。
特徴的な前髪が風に靡く、かち合った瞳にはリコの巨躯と背負う月が映り込む。
「…リコ、そっちこそどうしたんだよ。こんな時間に。」
「俺は外の空気吸いに来ただけだ、お前は?」
二度目の質問を被せると、少しいいにくそうに力なく笑みを形作りフェイは口を開いた。
一つ結びの黒髪が揺れる様をリコは、ただ見つめていた。
「……寝れなくてさ。なんとなく、出てき……」
その言葉の終わりを待たずしなやかな腕を掴み引き寄せた理由はリコにはわからない、多分昼間の騒々しさと打って変わった雰囲気のせいだろう。触れた肌は冷え切っていて随分と長い間、海風に晒されていたのは明白だった。
フェイは驚きこそしたが抵抗はしなかった、否、驚いて固まっていただけかもしれない。
「何すんだよっ!」
「でかい声出すな、お前が風邪引いたら大勢心配すんだろうが。」
昼間の騒動を聴いたエリィの呆れっぷりを忘れたのか、そういいながらリコはドカりと腰を下ろし胡座の真ん中にフェイをボスンと置いた。大人と子供ほどの身長差があるため、すっぽりと収まったフェイは何やら呻いている。どうやらいい返せなくて悔しいらしい。
「……なんなんだよ……一体。」
「昔、心臓の音聴かせれば落ち着くって聴いたんだよ。」
亜人だ、亜人の子だ、そう蔑まれ悲しみにくれるリコを母はそういって抱き締めてくれた。なんとなく、なんとなくだが今のこいつにはこれが一番いいのではと思ったのだ。

リコの言葉を聴いて少し考えたあと、フェイは諦めたように胸元に身を寄せた。身を切る海風に晒された後の人肌の温もりには抗えなかったらしい。
「……知ってるか?海にも月があるんだって。」
先生が言ってたんだ、落とした呟きに返事は返さず黙っていればぽつりぽつりと言の葉が空気に溶ける。
「月に水はないから、隕石の跡とか言われるんだ。」
「月は俺たちが見る面にはそういう海がたくさんあるけど、裏側にはあんまないんだって。」

「で、裏側については分からないことが多いんだ。」
なんでだ、思わず出た言葉に答えはなかった。見れば胸元に身を寄せた青年は睡魔に負けたのか規則正しい寝息を立て、夢の世界へと旅立っていた。風に吹かれ顔についた黒髪を払いながらリコは肩を竦めため息を吐いた。
「……動けねぇ。」
しかし叩き起すのは躊躇われた、どうやら本日自分の寝床はこの甲板らしい。リコはもう一度深いため息を吐いて腕の中の温もりを囲いこんだ。

(温い)
人肌の温もりとはこうも心地よいものか、そう心中でぼやきながらリコは目を閉じた。


これは彼らが人知れず道を踏み外したきっかけの夜、誰も知らない昼と夜の話。
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