ひと夏の経験

石一海が所属する桜花活動企画公司と専属の契約をしている、ドライバーの李さんと合流し、一海は三条氏の待つペニンシュラホテルに向かった。
〈今日は道が空いてるから、15分で着くよ〉
ベテランドライバーである李さんは、真面目で気のいいオジサンだ。新人の一海にも親切で、時間にも正確でオフィスのメンバーも信頼している。
〈良かった。李さんが言うなら間違い無いし〉
ニッコリして一海は、李さんに感謝するが、その笑顔がいつもと違うことに、ベテランの李さんは気付いた。
「吃飯嗎(飯は食ったかい)?」
この場合の「食事をしたか?」という中国語は、文字通りの意味ではない。日本語で言う「元気か?」「大丈夫か?」という、相手を気遣う言葉になる。中国の文化では、それだけ「食」が日常生活において重要視されるということだ。
〈どうしたんだい?元気が無いようだけど?〉
まるで父親のような優しさで、李さんは一海を気遣ってくれる。
〈ちょっと疲れてて…。寝不足なんです〉
見透かされた気がして、一海はちょっと照れたように答えた。
〈この仕事は大変だからね。時間も厳しいし、客に気は使うし。無理するんじゃないよ〉
親切な李さんの言葉を、一海は有難いと思った。
「謝、老李(ありがと、李さん)」
一海は、自分が運がいいと思っていた。学生時代から、目立つ存在で無かったせいか、イジメや意地悪な目に遭ったことも無いし、日本のアニメやマンガを好きになって、日本語を独学で勉強するほどになっても、すでに時代はそれを受け入れるようになっていて、不気味なオタク扱いされることも無くなっていた。
大学で優秀な成績を修めるようになっても、自分の周囲にはそれを妬んだり、意地悪をするような人間は無く、今でも友情は続いている。
就職も、希望していた日系企業にするりと入れたし、職場のみんなは優しいし、面白いし、学べることが多いので、毎日楽しかった。
そう、少なくとも昨日までは、こんな物思いに胸を痛めることなど無かった。
~この1分間を、私たちは共有した~
甘く、誘惑的な声で囁かれて、一海はドキドキした。あんな風に、息がかかるほど近くで、悩ましいことを言われて、平静でいられるわけがない。
~この1分間を、私は忘れない~
1分どころか、昨日は少なくとも半日はずっと一緒に居たし、今日は1日中一緒だ。1分どころかそれ以上を共有するはずなのに…。
きっと今日だけでなく、これからもずっと、あの三条氏との1分間を一海は忘れないだろう。
~夢で逢おう~
三条氏は、別れ際にそう言ったけれど、眠れない夜を過ごした一海は夢を見なかった。けれど、三条氏は?彼は、夢の中で一海の許へ訪れたのだろうか?2人は夢の中で会ったのだろうか?そして、夢の中で、どんな話をし、どんなことをしたのか…。
そこまで考えて、一海はポッと頬を赤らめた。
「到了(着いたよ)!」
李さんの言葉通り、車はきっちり15分で三条氏が待つペニンシュラホテルに到着した。
「請等一下(ちょっと待ってて下さい)」
赤面した一海は、李さんに気付かれないよう、急いで車を下りた。
そのままホテルのロビーに駆け込んで、曰くつきの腕時計で時間を確認した。お迎えは9時の約束だ。まだもう少し時間がある。
思い付いて、一海はロビーの隅でスマホを取り出した。


9時まであと5分というところで、一海はフロントから三条氏のリバービュースイートに電話を掛けた。
「部屋まで、迎えに来てくれないのかな?」
ロビーで待っていると告げた一海を、揶揄うように三条氏は言った。だが、それを無視するように、一海はもう一度ロビーで待っているとだけ言って電話を切った。
それからすぐに、三条氏はロビーへ降りてきた。
「おはよう」
昨日の事は忘れたような、屈託のない明るく爽やかな笑顔だった。
「オハヨウございマス。今日モ宜しくオ願いシマス」
石一海も、無難に挨拶を済ませ、三条氏を李さんの待つ専用車へ案内した。
「オハヨウ、ゴザイマス」
日本人の客に慣れた李さんも、カタコトながら日本語で挨拶をした。それを気品溢れる笑顔で受けて、三条氏は一海が開けたドアから、セダンの後部座席に乗り込んだ。三条氏が乗ったのを確かめ、一海は素早くドアを閉め、自分は李さんの右の助手席に乗る。
中国は、日本と違い右側通行なので運転席は左、助手席は右なのだ。
「石(シー)君。私の隣には乗ってくれないのかな」
まだ冗談めかす余裕をもって、三条氏は早速聞いてきた。
「ボクたちは、オ客様の隣ニハ座らナイ決まりデス。イツモ助手席ニ座りマス」
なるべく落ち着いて聞こえるように努力して、一海は答えた。
「そうなの?残念だな」
それだけを言って、三条氏は余計なことを言わずに車窓を眺めていた。
本来ならお客様を飽きさせないように、これから行く先の説明や、途中の街並みの解説など話を続けるべきだが、一海は何を言うべきか分からず、黙り込んでいた。
「着きマシタ」
来た時よりも少し時間を掛けて、専用車は再び浦東地区に戻って来た。
今の上海で一番高い「上海中心大廈(上海タワー)」の足元に停車した車から、一海と三条氏は下りた。慣れた様子の李さんは、一海から連絡があるまで駐車料金の掛からない場所で時間を潰すはずだ。
超高層ビルの立ち並ぶ中、それらの足元で圧倒されながら三条氏は空を見上げた。
それを見ながら、一海は三条氏のスタイルの良さに改めて感心していた。
すらりとした高身長に、スーツ映えするがっちりした肩幅。それでいてゴツい印象では無く、腰の位置が高く、足が長くてスマートだ。
今日はスーツでは無く、Vネックの白無地カットソーに黒いスリムパンツというシンプルなスタイルだが、さりげなく着ているカットソーもスリムパンツも、イタリアの有名ブランドの物だ。ホテルを出る時は、昨夜も着ていたデニムのテーラードジャケットを手にしていたはずだが、今日は天気が良く、気温も上がって来たので不要だと思い、車内に置いてきたのだろう。
かっちりとした貴族的な雰囲気のあるイギリス製のスーツ姿も、三条氏らしいと一海は思うが、こんな風な伸びやかな若々しいスタイルも、型に嵌らない自由な気風のある三条氏には似つかわしいと、一海は羨まし気に見ていた。
「地下ニ入り口ガありマス」
一海はそう言って、地下へ降りるエスカレーターを先導した。地下に降りるとチケット売り場がある。そこから118階にある展望フロアへ向かうエレベーター乗り場へ移動する。
エレベーターは日本製で、乗ってしまえば展望フロアまでもあっという間だった。
「良カッタ!晴れマシタね!」
上海市内を一望する展望フロアは、高層階にあるだけに雲やモヤのせいで視界が悪いことも多い。だが今朝は運がよく、雲は晴れ、太陽も顔を出した。
「確かに高いね。前回は、あのビルの展望フロアに行ったのかな」
三条氏はそう言って、眼下に見る「上海環球金融中心(上海ワールドフィナンシャルセンター)」を指さした。
「10年前ニお越しナラ、そうデショウ」
「あの時も相当高いと思ったけど、今はそれをこんなに下に見てるんだね」
三条氏は感慨深げに窓際に近付き、下界を見下ろした。
実は高い所が苦手な一海は、少し離れて三条氏を見ていた。
ゆっくりフロアを回り、土産物を見たり、空港の方向やディズニーランドの方向を見ては、何か見えないかと三条氏は楽しそうに話しかけるが、一海の方はあくまでもビジネスライクで、失礼の無い程度に丁寧に対応はするが、少しもこの「デート」を楽しんでいるようには見えなかった。
「もう行こうか」
展望フロアを一周し、気が済んだのか三条氏がそう言った。
「ハイ」
言葉少なく一海は答え、下降用のエレベーター乗り場へ案内した。
エレベーターを降りると、そこにはスーベニアストアが待ち構えていた。
その時、急に三条氏が立ち止った。
欲しいお土産でもあるのかと、振り返った一海だったが、三条氏は黒いパンツのポケットからスマホを取り出すと、画面を確かめてから一海に少し待つように頼んだ。
三条氏は少し離れて相手と通話を始める。直感的に一海は、それが国際電話だと思った。
仕事の話なら聞いてはいけないと思った一海は、興味も無いのにお土産を見て回った。
捻りのある変わった形のこの上海タワーを模した置物や、ミネラルウォーターなど、ここでしか買えないものも多い。だが毎日見慣れたビルの形に、同じものを身近に置きたいとは一海は思わなかった。タワーがデザインされた扇子や団扇、スカーフやハンカチ、女性向きのコスメはそれぞれの容器に上海タワーがデザインされている。
(何でもアリだなあ)
と、妙に感心して一海はふと目を止めた。
よほど人気なのか、それとも自信作なのか、それともうっかり作りすぎたのか、山のように積まれた丸缶があった。
よく見るとそれは、雪花膏という昔ながらの保湿クリームだが、上海タワーがデザインされた缶に入っていて、随分とモダンに見えた。その缶に見覚えがある一海は、試供品を手に取り蓋を取って香りを確かめた。
(あ、コレ、百瀬先輩がいい匂いだって気に入ってたやつだ)
気になって、そっと指先で少し救い上げ、左手の甲に塗り込めた。ジャスミンの爽やかな香りが気持ちいい。クリームそのものは昔からあるものだが、この新しい香りが珍しかった。
自分の手の匂いを何度も嗅いで、一海はお土産に買うかどうか迷っていた。百瀬先輩へのお土産というより、自分自身がこの香りを気に入ってしまったのだが、これまで保湿クリームなど必要に感じたことが無かった。
確かに、湿度の高い日本に比べると大陸の上海は乾燥がひどいと言われるが、上海生まれの石一海にとっては、これが普通で特に困ったことも無い。
(う~ん、どうしよう)
ボンヤリしていた一海は、三条氏がすでに通話を終えていたことに気が付かなかった。
「いい匂いだ」「!!」
いきなり左手を取られ、一海は心臓が止まるほど驚いた。電話を終えた三条氏はしばらく一海の様子を観察していたらしく、まるで貴婦人の手にキスをする時のように、一海の手を取ると自分の顔の前まで運んだ。
「本当に、いい香りだね」
一海の手を握ったまま、三条氏は囁く。その声と雰囲気に、一海はうっとりとしてしまう。だがすぐに気が付いて、慌てて左手を引っ込めた。
「欲しいのかい?」
そんな一海の動揺にも気が付かないのか、三条氏は悪びれる様子もなく、遠慮なく一海の耳元に、どこか淫猥な感じのする言い方で訊ねた。
「ナ、何がデスカ?」
三条氏の魅力に抵抗できない自分を、自覚し始めた一海は、必死になって抵抗した。
「待っててくれ」
三条氏はそう言うと、ジャスミンの雪花膏を2缶手にすると、真っ直ぐレジに向かった。現金の流通が今やほとんど無い上海では、スマホ決済が当たり前になっている。だが旅行者の三条氏が中国国内で使える決済アプリを持っているとは思えず、心配した一海は慌ててレジへ追いかけたが、三条氏はすでにゴールドカードで決済を済ませていた。
有料の包装袋も2枚購入し、2缶の雪花膏をそれぞれ入れると、1つは一海へと差し出した。
「あ、アリガトウございマス…」
思わず受け取っていた。いつもの優等生の一海なら断っていただろう。けれど、三条氏から手渡しされたものを断ることが、もう出来なかった。
「次は、郊外の庭園と昼食の小籠包だね」
屈託ない様子で微笑みかける三条氏に、ホッとしたような、どこか寂しいような複雑な感情を抱く石一海だった


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