ひと夏の経験

最上の美味を味わい、紹興酒も飲んで、すっかりご機嫌になった三条氏は、来た時と同じように、石一海と共に対岸のイルミネーションを楽しみながら外灘遊歩道を歩き、ペニンシュラホテルまで戻った。
「明日の予定の打ち合わせをしよう」
そう言って、三条氏はもう一度一海を自分の部屋に誘い込んだ。
「ご希望ノ場所はアリマスカ?」
かつて上海に来たという三条氏に、観光案内をするのは、一海でなくても難しいところだ。10年前の上海は、今と全く違うところもあれば、何も変わらないことも多い。三条氏が今回の上海訪問で望むのは何か、それをしっかり理解しなければアテンドは成功しないのだ。
「そうだね、例の上海一高いビルに行ってみたいのと…、やはり小籠包は食べたいかな。夜は額田さんと食事の約束をしているから、夕方まで、何かイーハイくんのオススメがあれば、そこへ行こう」
どこまでも紳士的で、ゲストだからと我儘を押し付ける様子もない三条氏に、一海は好感しかない。だが難点が1つだけある。一海の胸を不安になるほどドキドキさせることだ。
「デハ、午前中は上海タワーの展望台へ行ッテ、ソノ後、豫園に行ッテ昼食ハ有名ナ南翔小籠包店デ…」
「豫園は、前に行ったな…」
明らかに気が進まない様子で三条氏が行った。上海観光の定番である豫園商場だが、あの人混みと猥雑さが上海らしさで面白いところである一方、一度で十分と感じる人がいるのも確かだ。
「デハ、南翔へ行きマショウカ?」
「南翔?」
以前、百瀬先輩と日本の中小の食品メーカーのクライアントと郊外の農家の見学に行った帰りに、休憩がてらに途中の南翔という街に寄って観光をしたことがあった。その時のクライアントが随分喜んでくれたことを、一海はふと思い出したのだ。
「小籠包の本場デス。大きな中国庭園モありマス。小さいデスが、昔風ノ水郷モ楽しめマス」
南翔で有名な古猗園は、明代の名園で知られる。もちろん蘇州の有名な庭園に比べると見どころは少ないと言えるが、初めての観光客には十分に人気がある。上海の街から近く、それでいてコンパクトに庭園や水郷など上海郊外の江南風の観光ができる上に、発祥地と言われる老舗で食べる小籠包は趣深いし話題性もある。
「都会的な高層ビルから、水郷の庭園か…それも面白そうだ」
一海の提案は三条氏のお気に召したようなので、午前中の予定と昼食は決まった。問題はこの先だ。一海は三条氏のようなクライアントには、どんな観光が相応しいのかピンとこないのだ。
「昼食ハ小籠包を食べテ、ソノ後は…。ディズニーランドとカ?」
人気の観光地を口にしてみるが、違和感は拭えない。
「私と、イーハイ君の2人で?」
三条氏も同意見のようだ。
「……。違いマスネ」
バカなことを言ったと自覚しているが、代替案が出てこない。
「…う~ん、博物館とか?」
一海を助けるように三条氏が提案するが、上海博物館は人気の観光地とは言えない。
「三条サマが見ルようなモノはアリませんヨ」
何故なら上海博物館の展示物は、ほとんどがレプリカなのだ。上海博物館を見て育った上海人は、西安などの本物の史跡のある地方の博物館に行くと「本物」が展示してあり驚いたという話があるほどだ。
「現代美術ナラ、新シイ美術館ガ幾つかアリマスが…」
「現代的な物より、伝統的な物の方が興味あるんだけどね」
独り言のように言った三条氏の言葉に、一海が閃いた。
「ア!ソレなら、工芸美術博物館ガありマス。作品モ展示してイマスガ、実際にソコで職人が作ッタ物ガ見られマス」
上海工芸美術博物館というのは、外国人観光客にはあまり知られていないものの、一級の職人技術で作った作品の展示はもちろん、観内には実際に職人がいて、間近にそれら匠の技術を見ることが出来る。そう言った職人芸が好きな通には貴重な機会だろう。そして、三条氏はそう言った本物が好きなタイプだ。
「それはいいなあ。興味がある」
やはり、三条氏の興味をそそった。一海の提案が功を奏したようだ。
「日本へお土産ヲ買われるナラ、新天地ヤ田子坊ナドもオススメです。南京東路ノ散策モ…」
「骨董品は、豫園に行くんだったかな」
以前のことを思い出しように、三条氏が言った。
「骨董品デスカ…。ア、デハ多倫路ハどうデショウ?レトロな街並みヲ見るダケでもイイし、骨董品ノ店もアリマス。作家ノ魯迅ガ住んでいたトコロに近いデス」
「ああ、それは面白そうだ。」
三条氏の関心は主に欧州方面だが、さすがに近代中国文学を代表する魯迅は知っている。もともと芸術や文学、歴史が好きな文系の三条氏だった。
「デハ、時間ガ余れバ、魯迅記念館ニ行きマスカ?魯迅公園モありマス」
一海が熱心に、そしてとても丁寧にメモを取って確認する様子を、三条氏は慈しむような優しい眼差しで見守っていた。
メモを書き終わって、顔を上げた一海は、じっと見つめる三条氏の視線の深さに、またも心臓がドキドキする。
「ああ、明日が楽しみだね」
三条氏は気が付いて、慌ててにっこりして、一海の緊張を解こうとするが、効果は無かった。
「…出発時間ハ…、何時ガいいデスカ?…」
なんとかプロに徹しようと努力する石一海だったが、その顔は紅潮していて、澄んだキレイな瞳も潤んでいて、動揺は明白で純真すぎて三条氏もふざけすぎてはいけないな、と警戒するほどだった。
「では、9時にここへ迎えに来てくれるかい?」
「承知シマシタ」
三条氏はキビキビとした態度で時間を告げ、一海もビジネスライクな対応で席を立ち、深々と日本式に頭を下げて今日の仕事の終了を示した。
「今日は、本当にありがとう。明日も楽しみにしているよ」
「イイエ、コチラこそ、コンナに高価ナ時計マデいただいテ…。本当ニ、アリガトウございマシタ!」
帰ろうとする石一海を、三条氏は部屋のドアの前までエスコートしてくれた。
ドアまで開けてくれるのか、先にノブを掴んだかと思うと、三条氏は何故だか急に振り返って、一海に声を掛けた。
「イーハイ君、今の時間は…?」
訊ねられて、一海は慌ててプレゼントされた時計で時間を確認しようとした。
「今の時間は…、午後9時38分です」
三条氏にそう答えて、顔を見ようとした時だった。
「!」
三条氏は一海の、時計をはめた左手を強い力で掴んだ。振り払うことのできない強さだった。
「時計を見て」
驚く一海に、静かな声で、ただ、抗えない強さを込めて、三条氏は言った。
「?」
「…」
「…」
「1分経った」
気が付くと、2人は黙ったまま、一海の時計の針を1分間見詰めていた。
「…?」
意味が分からず、一海は恐る恐る三条氏の端正な顔を見上げる。そこには、一海が見たことも無いほど真剣な表情をした三条氏がいた。
「この1分間を、私たちは共有した」
まるでキスでも迫るように、ゆっくりと三条氏の美貌が一海のすぐ目の前に近付いた。
「この1分間を、私は忘れない」
三条氏は、身を固くする一海をするりと躱し、耳元で熱い息と共に囁くと、何事も無かったかのようにドアを開いた。
「……」
突然の事への驚きと混乱に、一海は言葉も出ず、黙ってドアから廊下に出ると、何かを確かめようとするように、三条氏を振り返った。
三条氏はありったけの魅力を振りまくような、最上の笑顔を浮かべて一海を見送った。
「では、イーハイ、おやすみ。夢で逢おう」
それだけを言うと、一海を独り廊下に残し、ドアは静かに閉じられた。
それはまるで一瞬の出来事で、一海は何が自分の身に起きたのか理解できず、収まることの無い胸の動悸を抱えたまま、逃げるように帰って行った。
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