ひと夏の経験

九江路にある上海蟹専門のレストランは、一年中上海蟹が食べられることで知られているが、やはり9月の解禁日以降のシーズン中が一番人気だ。予約は必須で、いつでも日本人客がいっぱいだった。
それでも急な申し込みであるのに、なんとか2階の奥の小さな個室がキープで来た。これも、百瀬先輩はじめ、サクラ・イベントオフィスの面々がこの店の常連であるおかげだった。現地者駐在員でも、出張でも、大抵の日本人であれば、ここへ連れてくれば間違いは無かった。
これが、中国人アテンドだけであれば、恐らくはきっと、上海蟹の老舗の王宝和飯店を勧めるだろうが、味はともかく、慣れない日本人が自分で上海蟹を捌いて食べるのは難しいし、他の料理の選び方やちょっとしたことで中国語しか通じない不便さということを日本人は敬遠する。
日本語メニューがあり、各テーブルに1人以上の担当者がいて、清潔に見た目もよく蟹を捌いて並べてくれる。食事に際して、戸惑いやためらいを嫌う日本人にとっては、安心して食事ができるレストランは上海でも限られているのだ。
「素敵な外観だね」
九江路の正面は外灘に行き当たり、目の前にはライトアップされた東方明珠塔も見える。いかにも観光客が喜びそうな構図だ。その通り沿いの北側にレストランはある。田舎の古民家風というのか、レトロな感じの建物だ。もちろん、外観だけでなく内装も雰囲気がある。中に入るとすぐに中華風の装飾の一環として財神像があり、そこで予約の確認をすると、横の小さいドアから店内に入る。
「8時にナレバ、民族楽器ノ演奏がアリマス」
吹き抜けの1階には小さな舞台があり、ここで中国の箏や笛で日本人好みの演奏が行われる。日本人好み、というのは日本人だけでなく中国人もよく耳に慣れた「夜来香」や「北国の春」といった有名な曲ということだ。あまりにも日本人に寄り過ぎて、こそばゆい気もするのだが、食事が始まれば、そんな「ベタ」なサービスも気にならない。それほどに料理にハズレが無く、美味しいのだ。
三条氏と一海は、二階の小さい個室に案内された。舞台から見て右上の、吹き抜けを見下ろす、日本でいう桟敷席のような個室だ。
「オ飲物は?」
初めての三条氏との食事に、一海は緊張する。クライアントとの距離を詰め、信頼を勝ち取るのに食事は有効だ。だが、失敗もまた食事中に起きることも多い。
「オススメは?」
まるで三条氏は一海を試すように聞き返す。その心の中まで見透かすような深い眼差しに、一海は妙にドキドキした。
「オ客様に人気なのハ、青島ビールの金ラベルですネ。日本ニハ無いそうデスヨ。後ハ、上海蟹ニ合うノハ、紹興酒デスガ、コノ店ノハ、クセが無クテ、日本人にモ飲みヤスイそうデス」
百瀬先輩に叩きこまれた日本人クライアント向きの説明を、必死になって三条氏に語った。
「君は?イーハイ?」
その熱心な説明を聞いていたのか、意に介する風でもなく、ただ優しく、穏やかに三条氏は質問した。
「君なら、何を飲むんだい?」
「あ、…アノ…」
にっこりと、でも逆らえないものがある笑顔で、三条氏はさらに追い打ちをかける。
「約束したよね、夕食は一緒にテーブルに付いてくれるって」
確かに、滞在中のアテンドを任されてすぐに、そんな風な会話をした覚えがある。本来は、こんな高級店でクライアントと席を並べるなど、上司の許可がなければ不可能だ。だが、厳密には三条氏は額田社長のゲストであり、会社のクライアントではない。
「エエっと…」
不慣れな一海の戸惑いを察して、すぐその場で三条氏は額田社長に電話を掛けた。
驚いたのは一海だ。三条氏の強引なまでの行動力に、ここまで何度となく驚かされてはいたが、まさかここで社長を引っ張り出してくるとは。
「…じゃあ、いいですね。え?明日の夜?…はい、はい。分かりました」
楽しそうに笑いながら話す三条氏の横顔を見詰めながら、石一海はぼんやりと考えていた。
(キレイな人だなあ…。顔立ちが整ってるというだけでなくて…、清潔感があって、知的で隙が無くて、…お金持ちだし)
「仕方ないよ。昔から貴女には逆らえない」
冗談めかしてそう言った三条氏は、ちらりと一海を見て悪戯っ子のような笑みを浮かべ、共犯者だとでも言いたげに、ウィンクを送ってよこした。大人っぽい魅力の中に見せる三条氏の茶目っ気に、少年のようなギャップを感じて、ドキリとした一海だった。
三条氏といると、心臓に悪いことが多い、と一海は妙な不安に襲われるほどだった。
「さあ、君の上司は許可したよ。後は、君に許可をもらうだけだ」
意地悪い笑い方をして、一海に返事を迫った。
「ゴ注文ハ?」
三条氏が電話を切ったことに気付いて、店員が注文を聞きに来た。
「イーハイ君に任せるよ」
こうまでされては、2人分の料理を頼むしかなかった。一海は、ちょっと恥ずかしそうに笑って、三条氏の向かいの席に座った。
「清蒸太閘蟹、酔蟹、蟹粉豆腐…」
一海は、百瀬先輩がいつも注文するメニューを思い出していた。日本人が好きな味で、量も多すぎず、少なすぎず、ハズレはないが、ちょっと珍しいものも入れて…。
「付き合ってくれて、ありがとう」
誠意のこもった様子で、三条氏が一海に言った。
「せっかくの上海蟹だからね、1人で食べるなんて惨めすぎる」
三条氏はそう言うが、これほど魅力的なお金持ちの男性がその気になれば、食事の相手くらいすぐに見つかりそうなものだ。
「ボクで良カッタのデスカ?」
一海の言い方が、拗ねているように聞こえ、三条氏はふと気になった。
ちょうどそのタイミングで、燗された紹興酒が急須のような酒壺に入って運ばれてきた。
その後ろから、普通のバケツに入った生きた上海蟹が2匹現れる。これから調理する蟹の吟味を客にさせるのだ。
「OK!」
店員にそう言いながら、三条氏は笑いを堪えていた。
「ドウシマシタ?」
笑いを噛み殺す三条氏が不思議で、一海は思わず訊ねた。
「いや、何が『OK』なのか、全然分からないんだけどね」
何もかも知り尽くして、、まるでワインを選ぶ時のように、余裕をもって返事をしたと思っていたのに、そんな風に言われて、一海はきょとんとした。
「君の前だから、格好をつけてしまったんだ」
「エ?」
まるで、デート中の相手を口説くような言い方だと、一海の頬が薄っすら熱を帯びる。
「エ、…エッと…、解禁サレタばかりナノデ、メスの蟹ガ美味しいデス」
なんとか自分を落ち着かせようと、ビジネスモードで対応するが、明らかに不自然で、またもや三条氏は破顔する。
「さっきの蟹、オスかメスか、私には分からなかったけど、どうしようか?」
顔を覗き込まれながらそう言われて、いっそう一海の心音が早まる。
「ボク…、メスで注文しましたカラ…」
しどろもどろの一海が可愛くて、もう一歩踏み込みたい三条氏だったが、無垢な心の一海が可哀想な気もして、これ以上は我慢した。
そのご褒美のように、前菜の酔蟹が来た。紹興酒ベースの独特の調味料に漬け込んだ小ぶりの蟹で、酒好きはもちろん、酒を飲まない女性でもこの酔蟹は人気がある。もちろん、一海も大好きだ。
甘みのあるタレがしみ込んだ、とろりとした食感の身がたまらなく美味しくて、クセになる。老若男女、日本人だけでなく誰を連れてきても、この味の虜になる。上海蟹解禁中のこの時期、各所で上海蟹は食べられるし、この酔蟹も供される店は多いが、一海はこの店の酔蟹が一番美味しいと思っている。
「イカガデスカ?」
手づかみで、むしゃぶりつくと、余計に美味しく感じる。上品に箸でせせっていては、この醍醐味は味わえないのだ。今は一海だけでなく、三条氏もワイルドな食べ方をしていた。
「これは初めて食べたな。こんなにうまいとは思わなかったよ」
美味しくて、楽しくて、三条氏は心から嬉しそうに食べていた。
「食べ終わっテモ、指マデ美味しいデス」
思わず一海がそう言った。
「じゃあ、後でイーハイの指を食べたいな」
「!」
一海の顔を見るでもなく、酔蟹のミソをチュっと音を立てて吸い上げ、さらりと三条氏は言ってのけた。その一言と、官能的な音に、またしても一海の心臓がバクバクと音を立てる。
(死んじゃう…。ボク、きっと、三条さまと一緒にいたら、心臓発作で死んでしまうよ…)
そのまま、三条氏は楽しそうに旬の蟹尽くしを堪能し、一海は気まずい思いでお相伴したのだった。
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