ひと夏の経験

「わ~!」
三条氏の後に着いて、そのスイートルームのリビングに入った瞬間、思わず石一海は声を上げた。
大きな窓一面に広がる景色は、まるで絵ハガキのような外灘の高層ビル群だった。すぐ目の前に、上海を象徴するランドマークタワー・東方明珠塔が見える。昼の近未来的な姿も圧倒的だが、これが夜景となると、さらに迫力のある美しさだろうと、容易に想像がつく。
不便な立地だと思っていたが、この光景のためだと分かれば、このホテルを選んだ理由が分かった。
一海が窓の外の景色に心を奪われているうちに、三条氏は荷物を運んできたドアマンにチップを渡し、部屋から出て行かせた。
この素晴らしい窓からの眺めを有する、デラックスリバースイートルームに残ったのは、濃密な大人のフェロモンを発する紳士と、いろいろな点で経験不足の初心な青年の2人きりとなった。
「気に入ったかい、石(シー)くん?」
笑いを含んだ三条氏の声に、石一海は我に返った。慌てて振り返ると、思いのほかすぐ近くに三条氏が立っていた。
「夕食前に、少し街を歩きたいな。夕食は、7時くらいでどうだろう?」
優しい微笑みと、甘すぎる声で囁かれ、一海の心臓は病気ではないかと危ぶむほど、大きく激しく鼓動する。
「あ、ハ、ハイ!スグに手配しマス」
とにかく心臓を落ち着けたくて、一海は急いで窓際から離れ、スマホを取り出すと、その場で電話を掛けようとしたが、獲物をいたぶるような楽し気な三条氏の視線に気づき、驚いて手を止めた。
「あの、えっと、その…、外で電話を…」
「いや、ここからで構わないよ」
逃げ出そうとした一海に、三条氏は意地悪く妨害してくる。
「デモ…ソノ…」
あからさまに落ち着かない一海を、これ以上追い詰めるのは可哀想だと思った三条氏は、自嘲的に口元だけで笑い、逃げ道を与えた。
「私は、出掛ける前にシャワーを浴びて、着替えてくるよ。ここで待っていてくれたまえ」
そう言って三条氏はリビングを後にして、寝室へと姿を消した。
そんな後姿を見送って、変なプレッシャーから解放された一海は、ホッと大きく息を付いた。
その時だった。
「!」
一海は三条氏の残り香に気付いた。
大人の男っぽい、洗練された香りだった。落ち着いたウッディ・ノートで、英国紳士を感じさせるスマートさを持つ三条氏に相応しい、エレガントな印象だった。
「……」
思わずスーッと深呼吸をして、一海はその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
満足感と背徳感が一海の中でせめぎ合う。結局、正直な自分が勝ち、一海の表情には幸せそうな笑顔が浮かんでいた。

ビジネスマンっぽいスーツ姿だった三条氏は、カジュアルな服装に着替えていた。清涼感のある黒のオックスフォードシャツに、足の長さを強調するようなベージュのスリムパンツ。その上に、明るめのネイビーのジャケットを着ていた。さすがにプライベートでも大人はジャケットを着るものなのだな、と感心した石一海だったが、近くでよく見ると、形はきちんとしたテーラードジャケットだったが素材がストレッチデニムだった。形ではなく素材でカジュアルな感じを出すのが大人のファッションの「遊び」なのだと一海は教えられた気がした。
(三条さまって、オシャレだし、センスいいな~)
すでに憧れが過ぎて、崇拝するような眼差しで一海は三条氏の私服を観察していた。
そんな一海のスタイルは、パーティー会場からそのまま来たため、ネイビーの安っぽいスーツに、ピンク系シャドウストライプのボタンダウンのシャツを着ていた。これと言って取り立てるほどのオシャレポイントは無い。
三条氏はヘアスタイルも、きっちりと整えられていた前髪も下ろして、元々若々しいのにさらに若く見え、一海にはより親近感を感じられた。なんとなく、三条氏が自分に合わせてきてくれたような気がして、一海はますます嬉しくなる。
もちろん、三条氏も若くて可愛らしい石一海と並んで歩くのに恥ずかしくないよう、多少なりとも気を使ったつもりだ。見た目だけでも若々しくして、父親のような保護者的存在から、せめて兄ぐらいには見せたいと思う。それくらいの年齢差であれば、まだ恋愛対象として意識されることもあるだろうと、経験値の高い三条氏ならではの計算だった。
それぞれの思惑を表に出すことも無く、2人は並んでペニンシュラホテルを出て、正面の北京東路を左折して、中山路(チュンシャン・ロード)沿いの、外灘遊歩道を目指した。時刻は午後4時半。このまま遊歩道を南京路まで、三条氏の希望通りに散歩することにした。
歩きながら、何を話せばいいのか一海は緊張していた。社長の個人的なゲストだ。ご機嫌を損ねるような、ミスは許されない。
「私が、嫌いかい?」
固い表情の一海が気になって、思わず意地悪になった三条氏だった。
「え?そ、そんなコトありマセン!」
決して不愉快そうでは無く、揶揄うように言う三条氏に、一海は大いに慌てた。
謝罪しようと三条氏の顔を見ると、そこには包み込むように優しく大らかな笑顔があった。
「ごめん。また、ふざけてしまった」
にこやかだが真摯な眼差しで、三条氏は一海に謝った。
誠実で、包容力があって、成熟した紳士で、おまけにハンサムで…。
一海は、どんどん三条氏に魅了されていく単純な自分を自覚し始めた。
「こんな人間じゃないんだよ、いつもの私は。でも、君が可愛すぎて、ね」
洋館が建ち並ぶ、ロマンティックな川沿いの遊歩道で、こんなに優しい声で囁かれて、心が動かないはずは無かった。
「また、困らせたかな」
黙っている一海の可愛い顔を覗き込むようにして、むしろ三条氏は自身の方がちょっと困ったような顔をして言った。
「イイエ、三条サマ…。ちゃんとお相手できないボクが未熟なんデス。申し訳ございまセン」
泣き笑いのような顔で、石一海はそう言って、ペコリと頭を下げた。
「じゃあ、仲直りだ」
穏やかな笑顔でそう言うと、三条氏は立ち止り一海に向き直って右手を差し出した。何度も感じた美しい手だった。
「ハイ。ヨロシクお願いしマス」
はにかんだ微笑みを浮かべて、一海は三条氏の手を握り返し、2人はしっかりと握手を交わした。
その瞬間から、なぜだか一海の緊張は解け、三条氏に話しかけやすくなった。
「三条さまは、オ仕事は何を?」
先ほどまでの緊張感を忘れたように、一海は打ち解けた様子で話しかけてくる。
「私は、貿易商なんだ、個人の、ね」
「あ!ダカラ、ヨーロッパからの帰りだと?」
無邪気に話しかける一海を、柔和な視線で見守りながら、三条氏は誠意のある態度で丁寧に話す。
「そう。よく覚えていてくれたんだね。今回は、ドイツの骨董市を見に行って来たんだ。貿易と言っても、私の趣味で、扱うのはほとんど美術品なんだけどね」
柔和に語りながら、三条氏はチラチラと一海の反応を確かめ、気持ちを逸らさないように気を遣っていた。
「シーくんは、美術に興味ある?」
押しつけがましいところが無く、いたって自然な調子で三条氏は言った。
「あまりヨク知らないんデス。特に、ヨーロッパの芸術とかって…」
だが、話を合わせる自信が無い一海は、正直に答えるしかなかった。
「ヨーロッパの芸術が分かるから偉いわけじゃ無いし、私だって分かっているとは言えないよ」
不勉強なために申し訳なさそうな一海を、まるで気にする風でもなく、三条氏は明るく笑い飛ばした。
「単純に、キレイな物や、歴史や物語のある物が好きなんだ。この外灘のように、歴史的建造物を見るのも好きだな」
「ボクも、上海の古い建物は好きです。歴史的背景は複雑デスが、キレイだと思いマス」
「素晴らしい感性だ」
素直な一海を、三条氏もまた真っ直ぐに評価した。
「アノ和平飯店もステキだと思いマス」
いつしか2人は、南京路まで歩いていた。すぐそこに見える緑色の三角屋根が印象的な和平飯店の北楼は、旧サッスーンハウスと呼ばれるアールデコ様式の美しい建物だ。
「ああ、これが和平飯店か。以前に来た時は、夜にジャズバーに来たので周囲の様子は覚えていないんだ」
眩しそうに緑の三角屋根を見上げながら、三条氏はこのクラシックな高層建築の美しさを堪能した。
「和平飯店のジャズバーは有名デスから!」
まるで自分のことのように自慢げに話す一海が微笑ましい。
「以前、来られたナラ、今回は不要デスか?」
ちょっと考えてから、三条氏は答えた。
「そうだね、今回は。それよりも、まだ行ったことが無いバーに行きたいな」
その一言に、一海は内心焦った。日本人好みのハイセンスなバーなど一海のデータベースには無いのだ。一海自身まだ若く、実は飲酒もほとんどしないので、元々関心も無く、体験も少ない。そのため三条氏のようなセレブリティに相応しいオシャレなバーなど、一海は全く思い当たらない。
(絶対に、後で百瀬先輩に電話しないと!)
困った時には電話しろと言ってくれた先輩を思い出す一海だったが、すぐに追加情報が頭に浮かぶ。
(ああ!でも、百瀬先輩もお酒を飲まないんだった~。情報が足りないかもしれない!白先輩?いや、こんな時にはアンディ先輩のがいいのか?)
「シーくん?」
(うわ~、郎主任に聞くのだけは避けたいな~)
「シーくん?何?どうしたの?」
急に考え込んでしまった一海を、不審に思って三条氏は何度も声を掛けた。
「イーハイ?」
「!」
いきなり下の名前を呼ばれて、一海は驚いて我に返った。
「あ、ア、あの、ソノ…、申し訳ありません!何でもありまセン」
急いで取り繕おうとするがそれは杞憂で、三条氏は何事も無かったかのように静かに微笑んでいた。
「夕食の上海蟹レストランは近いんだろう?」
一海が予約を入れたのは、日本人駐在員に人気のある上海蟹専門店で、ここから少し南下した九江路にある有名店だ。
通りすがりの観光客ならともかく、地元の駐在員が勧める店は間違いが無い。内装も雰囲気があるし、日本語メニューもある。時々だが日本語が分かる服務員もいる。何より、美味しい物好きの百瀬先輩が勧めているのだから、日本人の口に間違いなく合うはずだ。
「ハイ。ここからなら、10分もあれば…」
慌てて一海は答えるが、三条氏が聞きたいことはそんな事では無かったようだ。
「大丈夫かい?」
優しい顔で、三条氏は一海の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「心配しなくていい。私は君と一緒に居られて満足しているよ。私を喜ばせようと、いろいろと考えてくれるのは嬉しいけれど、そんなに気を遣わないで欲しい」
そう言って、三条氏は、あの美しい手を伸ばし、一海の頬に触れた。
「仮に何かミスがあったとしても、私はそんな君を受け入れる。君は、そのままでいい。そのままの君でいいんだ」
そうして、柔和で上品な笑顔を浮かべた三条氏は、ペチンと一海の頬を軽く叩いて気合を入れた。
「時間は、まだある。もう少し歩こう」
「ハイ!」
2人は楽しそうに笑いながら、南京路を歩き出した。
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