第4章 探偵が追っていたもの
文維と煜瑾が暮らす高級アパートである嘉里公寓は、文維のクリニックから歩いて10分の場所にある。その途中にあるのは上海でも有数の大きな寺院である静安寺と、その向かいには静安公園がある。周辺はデパートやショッピングモールで賑わう通りだが、高級な店が並ぶせいか治安は悪くない。
いつもの道を、真っ直ぐに煜瑾の元へと帰る包文維だった。
いつもの道をたどりながら、文維は考えを巡らせる。
まず相手をリラックスさせ、信頼を得て、催眠状態にするサジェッションを行なう。そこに暗示を与え、その暗示を無意識のうちに思い出すアンカーを植え付ける。そして何をきっかけに暗示にかかるかというトリガーを設定するまでが、一連の催眠術の流れだ。
これだけのことを、専門の教育機関では慎重に学ばせる。催眠療法の患者に間違いがあってはならない分野であることはもちろん、正確な施術が出来る医師としての優秀さだけでなく、高い倫理観や人としての誠実さも求められる。
そうやって包文維もまたアメリカで、優秀な精神科医として催眠療法のための催眠術を習得したのだ。同じような高等教育を受けた、Dr.Hooことドミニク・リュウ・リーも、医師としての自分と同じだけの高潔さを持っていると、文維は信じていたかった。
しかし、誰か高潔な倫理観を持たないものが、催眠術を使って殺人を犯したかもしれないのだった。
文維はその端整な顔立ちを歪めた。
催眠術は誰にでも出来ることではない。けれども残念なことに、誰もがその気になればできる事でもあるのだ。
その事実が文維を不安にさせた。
***
「おかえりなさい、文維!」
部屋の奥から駆け付けたのは、穢れを知らない、清純無垢な天使だった。その天真爛漫な、輝く笑顔1つで、文維は重い気持ちが癒された。
「よかった。すっかり元気そうですね」
ギュッと天使を抱き留め、ホッとしたように文維が言うと、煜瑾ははにかむように笑って答えた。
「ご心配かけて、ごめんなさい。でも、もうすっかり元気です!これも、おとうさまとおかあさまのおかげです」
幸せいっぱいの様子で文維とハグを交わす煜瑾に、料理を運んでいた恭安楽と包伯言も家族としての安らぎを得ていた。
「さあさ、食事の前に、文維は手を洗って着替えていらっしゃい!煜瑾ちゃんも手伝ってあげて」
「はい、おかあさま!」
母である恭安楽の指示を黙って頷くだけの文維に対し、煜瑾はその天使の笑顔を添えて、明るく声を出して返事をした。
「もう、本当に煜瑾ちゃんったら、イイ子なんだから~」
「煜瑾がお気に入りなのは分かるが、子ども扱いはよしなさい」
はしゃぐ愛妻を、落ち着いた包教授が窘めるのは、もはや日常的な光景だと煜瑾には分かっていた。
「いいんですよ、おとうさま。私はおかあさまの子供になれたのが嬉しいのです」
素直な煜瑾がそう言うと、包夫妻だけでなく、文維も満足そうに笑って、煜瑾の肩を抱いたまま、寝室のほうへと向かった。
「誰を愛そうと、文維が幸せならそれでいいと思ったけれど、やっぱり煜瑾ちゃんのようなイイ子と結ばれたのは嬉しいわ」
2人の息子たちに聞こえないように恭安楽はそっと夫に告白した。
「あの2人が幸せでいてくれることで、私たちも幸せだと思えるしね」
包教授はそう言って、ニコニコと上機嫌で手にした料理をダイニングへと運んだ。
***
文維が手を洗っている間に、煜瑾は気を利かせて文維の普段着を用意した。文維が戻ると、何も言葉を交わさずとも、文維は感謝の気持ちが込められた視線で煜瑾を見つめるし、煜瑾は当然のこととして文維の着替えを手伝おうと、スーツを受け取り軽くブラシをかけた。
「煜瑾が元気になって、本当に嬉しいですよ」
煜瑾が用意した、水色の半袖の開襟シャツに着替えた文維は、服装のカジュアルさもあって、それだけで寛いで見える。それでも家庭的な生活感のない、スマートな文維に、煜瑾も満足そうだ。
「そういえば、昼間の捜査官がまた来るようですね」
文維の言葉に、恋人の魅力に夢中になっていた煜瑾は、ハッと我に返った。
「あ、あの…私…」
「分かっていますよ。煜瑾が彼に会いたかったからではなく、母や小敏の考えでしょう?」
心配していた煜瑾は、戸惑ってうまく言えなかったが、文維は何もかもを察してくれていた。それに安堵した煜瑾は、再び清らかな天使の笑みを浮かべた。
「さあ、両親を待たせては、また何を言われるか分かりませんよ」
文維の冗談に、煜瑾もクスリと笑って肩を竦ませた。それが愛くるしくて、文維はたまらず煜瑾の頬に音を立てて口付けた。
いつもの道を、真っ直ぐに煜瑾の元へと帰る包文維だった。
いつもの道をたどりながら、文維は考えを巡らせる。
まず相手をリラックスさせ、信頼を得て、催眠状態にするサジェッションを行なう。そこに暗示を与え、その暗示を無意識のうちに思い出すアンカーを植え付ける。そして何をきっかけに暗示にかかるかというトリガーを設定するまでが、一連の催眠術の流れだ。
これだけのことを、専門の教育機関では慎重に学ばせる。催眠療法の患者に間違いがあってはならない分野であることはもちろん、正確な施術が出来る医師としての優秀さだけでなく、高い倫理観や人としての誠実さも求められる。
そうやって包文維もまたアメリカで、優秀な精神科医として催眠療法のための催眠術を習得したのだ。同じような高等教育を受けた、Dr.Hooことドミニク・リュウ・リーも、医師としての自分と同じだけの高潔さを持っていると、文維は信じていたかった。
しかし、誰か高潔な倫理観を持たないものが、催眠術を使って殺人を犯したかもしれないのだった。
文維はその端整な顔立ちを歪めた。
催眠術は誰にでも出来ることではない。けれども残念なことに、誰もがその気になればできる事でもあるのだ。
その事実が文維を不安にさせた。
***
「おかえりなさい、文維!」
部屋の奥から駆け付けたのは、穢れを知らない、清純無垢な天使だった。その天真爛漫な、輝く笑顔1つで、文維は重い気持ちが癒された。
「よかった。すっかり元気そうですね」
ギュッと天使を抱き留め、ホッとしたように文維が言うと、煜瑾ははにかむように笑って答えた。
「ご心配かけて、ごめんなさい。でも、もうすっかり元気です!これも、おとうさまとおかあさまのおかげです」
幸せいっぱいの様子で文維とハグを交わす煜瑾に、料理を運んでいた恭安楽と包伯言も家族としての安らぎを得ていた。
「さあさ、食事の前に、文維は手を洗って着替えていらっしゃい!煜瑾ちゃんも手伝ってあげて」
「はい、おかあさま!」
母である恭安楽の指示を黙って頷くだけの文維に対し、煜瑾はその天使の笑顔を添えて、明るく声を出して返事をした。
「もう、本当に煜瑾ちゃんったら、イイ子なんだから~」
「煜瑾がお気に入りなのは分かるが、子ども扱いはよしなさい」
はしゃぐ愛妻を、落ち着いた包教授が窘めるのは、もはや日常的な光景だと煜瑾には分かっていた。
「いいんですよ、おとうさま。私はおかあさまの子供になれたのが嬉しいのです」
素直な煜瑾がそう言うと、包夫妻だけでなく、文維も満足そうに笑って、煜瑾の肩を抱いたまま、寝室のほうへと向かった。
「誰を愛そうと、文維が幸せならそれでいいと思ったけれど、やっぱり煜瑾ちゃんのようなイイ子と結ばれたのは嬉しいわ」
2人の息子たちに聞こえないように恭安楽はそっと夫に告白した。
「あの2人が幸せでいてくれることで、私たちも幸せだと思えるしね」
包教授はそう言って、ニコニコと上機嫌で手にした料理をダイニングへと運んだ。
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文維が手を洗っている間に、煜瑾は気を利かせて文維の普段着を用意した。文維が戻ると、何も言葉を交わさずとも、文維は感謝の気持ちが込められた視線で煜瑾を見つめるし、煜瑾は当然のこととして文維の着替えを手伝おうと、スーツを受け取り軽くブラシをかけた。
「煜瑾が元気になって、本当に嬉しいですよ」
煜瑾が用意した、水色の半袖の開襟シャツに着替えた文維は、服装のカジュアルさもあって、それだけで寛いで見える。それでも家庭的な生活感のない、スマートな文維に、煜瑾も満足そうだ。
「そういえば、昼間の捜査官がまた来るようですね」
文維の言葉に、恋人の魅力に夢中になっていた煜瑾は、ハッと我に返った。
「あ、あの…私…」
「分かっていますよ。煜瑾が彼に会いたかったからではなく、母や小敏の考えでしょう?」
心配していた煜瑾は、戸惑ってうまく言えなかったが、文維は何もかもを察してくれていた。それに安堵した煜瑾は、再び清らかな天使の笑みを浮かべた。
「さあ、両親を待たせては、また何を言われるか分かりませんよ」
文維の冗談に、煜瑾もクスリと笑って肩を竦ませた。それが愛くるしくて、文維はたまらず煜瑾の頬に音を立てて口付けた。
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