第4章 探偵が追っていたもの

 浦東第3分署に戻った徐凱刑事は、被害者であるトーマス・カオが、今注目されているDr.Hooのマネージャーであるハワード・ベネットの名刺を持っていた理由を、捜査班に報告した。

「じゃあ、その胡双が30年以上前に人身売買に関わっていたということか?」

 上司がそう言って苦々しい顔をした。

「正確には、『関わっていた』というよりも、被害者だと考えます」
「どこかからさらわれて、売られた、という意味で、か?」

 先輩刑事に言われて、徐凱は黙って頷いた。

「だがな。30年も前の事件が、今さら殺人事件に繋がると思うか?」

 冷静な上司の指摘に、徐凱は何と答えれば良いのか分からなかった。
 確かに30年以上前に混乱する香港を舞台に、人身売買組織が暗躍していた可能性は否定できない。だが、現政権下では厳しく取り締まられているため、それほど大規模な人身売買組織が存在できるはずがない。

「現在活動している人身売買組織が、それを暴こうとした私立探偵を抹殺したと考えるよりも、30年前のことを知られたくない個人が口封じしたのか、人身売買とは全く関係の無い理由で殺されたと考えるのが妥当だろうな」

 渋い表情の上司や先輩たちの表情を見回し、徐凱はますます口をつぐむ。

「胡双こと、本名、李柳は、幼少期に上海近郊で売られるか、さらわれるかして香港の李家に買われた。どうやらここまでは間違いが無いだろう。問題は、ここから、誰が被害者のトーマス・カオに殺意を抱くか、だ」
「考えられませんね、特には…」
「実行犯が個人だとしても、組織の一員として動いたのなら私立探偵を殺すまでに至らないと思いますね」

 徐凱も、先輩たちの分析には賛同できる。
 だが、大事なのは、トーマス・カオの命が奪われたという「事実」だけだと徐凱は信じていた。

「30年前の胡双のことを調べるために、トーマス・カオは上海に来ました。そんな彼が、こっちで個人的な恨みを買うはずがないし、アメリカで誰かと揉めていたのなら、わざわざ上海で命を奪う必要もないでしょう」

 徐凱は、自分の判断できる範囲でそう言った。だがそれは、ただ単にここまでの事実を並べただけだった。

「ですが、スマホやパソコンを犯人が持ち去ったと考えられる以上、やはりトーマス・カオがこの上海で追っていた何かが、殺人の動機と繋がっているということでしょう」

 しかし、やはりその「事実」は無視できない「現実」だと徐凱には分かっていた。

「とにかく、人身売買組織のことは主眼にせず、まずは被害者のスマホとパソコンを追う。被害者が接触した人間を、徹底的に調べろ。静安署の事件との関連も考慮し、連携係は徐凱とする」

 上司が捜査方針を決めたことで、改めて浦東第3分署の捜査チームに緊張が走った。

 そこに、鑑識からの報告が上がってきた。

「毒殺されたのは間違いないようだな」

 外傷がない以上、これはどの捜査官も予測していた。トーマス・カオが何らかの持病から発作を起こしたとも考えられなくはなかったが、トムの苦悶の表情や、私物に持病の処方薬などが見当たらなかったことから、浦東第3分署ではトムの病死は考えていなかった。

「毒物は?」
「…オレアンドリン。夾竹桃の毒ですね」
「夾竹桃!」

 先輩の報告に、徐凱は思わず声を上げた。その顔を、上司と先輩たちが一斉に振り返る。

「なんだ、思い当たることがあるのか?」

 一番親しい先輩に声を掛けられ、徐凱は大きく頷いた。

「静安署での殺人事件と同じ毒物です」

 徐凱の中で、2つの殺人事件が見事に繋がった瞬間だった。

「連続殺人事件…?」

 あまりにドラマチックな展開に、浦東第3分署の捜査員たちは言葉を失った。

***

 もう一度、思考を巡らし、文維はヴィヴィの事件について独自の考えをまとめながらクリニックを後にした。

 専門教育を受けていない者による、催眠術の可能性。
 話としてはたやすいが、実行することはそう簡単ではない。

 例えば、次回、今日のクライアントに使うつもりの禁煙のための催眠療法では、彼をリラックスさせ、催眠状態にする。その上で煙草を吸うことは苦痛であるという暗示を植え込む。そして煙草を吸うことも、吸うところを見ることも、煙草そのものを見ることさえ不快であるのだとアンカーとして信じ込ませる。そうして目覚めたのちは、煙草という実体やキーワードをトリガーとして不快感を思い出す。それを繰り返すことで、自分から煙草を引き離し、禁煙に導くのだ。

 これらは決して簡単な作業ではない。熟練した技術が必要であるため、誰にでも出来ることではない。
 しかし、誰かがそれを「試した」のだ。







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