第4章 探偵が追っていたもの

 ヴィヴィを操るために、催眠術を使う。

 このことは、決して不可能なことではないだろう。しかも、ヴィヴィの身近には、催眠術を使えるDr.Hooこと胡双がいるのだ。

 だが、胡双と同じく高等教育機関で、「催眠療法」という専門的な学問を修めた包文維は、彼の倫理観を疑いたくなかった。人の心の中に踏み込むという行為は、危険性を伴う。正しい判断ができる理性や経験など、プロとしての責任が伴う行為なのだ。
 エンターテイメントという派手な世界にあっても、胡双は自分と同じく医学的な「催眠療法」を施術する高尚な倫理観を有していると文維は考えていた。

 そうなると、高い知性を持つ彼が、長年一緒に働いてきたアシスタントのヴィヴィを、自分の大事なステージの上で殺す必然性は乏しい。アメリカからわざわざ上海に公演に来て、大勢の観客の前でアシスタントを殺すなどという異常性を、文維は胡双からは感じられなかった。

 なによりも文維は、自分と同じく専門的な教育を受け、技術を身に着けたプロフェッショナルが、安易に催眠術を用いて殺人を犯すなど、信じたくなかった。

 催眠術を用いての殺人。その可能性は否定しない。だが、自分や胡双のような「専門家」が考える手段ではない。文維はそう確信していたが、クライアントとの会話の中で、ある可能性に気付いた。

(もし、専門家ではなくアマチュアが催眠術を「試した」なら…)

 これまで否定的だった「催眠術によるヴィヴィの殺人」という可能性を、文維は受け入れることを考えていた。

「では、次回から催眠療法を試してみましょう」

 マニュアル通りの説明をして、文維はクライアントに問診票と同意書を渡し、次回から禁煙のための催眠療法を進めることになった。

***

「やっぱり、伯言のお料理が一番美味しいわ!」

 文維と煜瑾が暮らす嘉里公寓には、恭安楽だけでなく、文維の父である包伯言教授までが訪れ、3人は楽しく夕食の支度をしていた。

「ほら、煜瑾。海老はこうやって剥くと、キレイに殻が取れるだろう?」
「わあ、おとうさま、お見事な手際です!私もやってみたいです!」

 つまみ食いをする恭安楽の隣で、初心者の煜瑾は包伯言の指導を受けながら、調理を楽しんでいた。

「でも、このポテトサラダのキュウリは煜瑾ちゃんが切ってくれたのよ。以前と比べたら、段違いに上手になったでしょう?」

 無垢で、美しい煜瑾が大のお気に入りである恭安楽は、煜瑾をベタ褒めするが、あくまでも謙虚な煜瑾は、はにかんだ笑みを浮かべている。

「包丁が上手に使えるようになるのも無駄ではないが、無理しなくていいよ。手でちぎったり、ハサミで切ったりする調理法だってあるんだからね」

 真面目な煜瑾が頑張り過ぎないように、包教授はやんわりと口添えする。その思いやりに、恭安楽も煜瑾もすぐに気付いた。
 3人は余計なことは言わずに、顔を見合わせて嬉しそうに笑った。

「あら、小敏からよ!」
「あ、私にも!」

 夕食に誘った羽小敏から、恭安楽と煜瑾のスマホに返事が来たのだ。

「まあ、楊偉捜査官も来て下さるんですって!」
「誰、だって?」

 声を弾ませた恭安楽に、包教授が不思議そうに訊ねた。

「昨日の事件で、アメリカ大使館の代行で捜査してる国安局の人。すっごいイケメンなの!」

 大はしゃぎの愛妻に、包教授は慣れているのか柔和に微笑んでいる。

「ね、煜瑾ちゃん!」

 同意を求められ、煜瑾は少し動顛する。
 昼間、文維に、捜査官の美貌に見惚れたことを指摘されたからだ。煜瑾が文維以外の人間に心を奪われるはずなどないのだが、そんな風に嫉妬を見せつけられ、嬉しい反面、どこか罪悪感もあった。

「え、ええ…」

 曖昧に笑って、煜瑾はスマホに目を落とした。
 賢い煜瑾は、愛する文維に誤解されないよう、今夜の夕食は小敏と楊偉捜査官も一緒であることを事前に知らせておくことにした。

***

 この日最後のクライアントを見送り、医療秘書の張女史との打ち合わせを終え、そろそろ帰ろうとしていた包文維は、最愛の恋人からのメッセージにその端整な顔を緩めた。クールでセクシーなプレイボーイとして名をはせたのは遠い日のことで、この優しい微笑みは全て唐煜瑾に捧げられるものだった。

「楊偉捜査官も?」

 家族での夕食に、まだよく知らない他人が参加することに一瞬眉をひそめた文維だったが、すぐに思い直した。
 自分の考えが正しいか、捜査官の意見を聞いてみるのも悪くないと考えたのだ。

 素人である自分の推理が、有能な捜査官に受け入れられるかどうか「試してみる」ことに、文維は少し期待していた。







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