第4章 探偵が追っていたもの
小敏は何も言わずに、自分のスマホのチャット画面を開いた。それは親友の唐煜瑾からで、今夜も一緒に食事をしないかとの誘いだった。煜瑾の純真な笑顔を想い浮かべ、先程までの不機嫌を忘れて、小敏は思わず口元を綻ばせた。
「唐煜瑾からですか?」
ハンドルを握り、前方を見つめたまま楊偉が指摘したその明敏な反応が、一瞬、羽小敏の神経を逆なでしたが、煜瑾の天使の笑みに癒されて、小敏はなんとか感情を抑えることができた。その時、また着信音が鳴った。
「えっ!」
小敏が返信する前に、煜瑾が追加のメッセージを送ってきた。それを見た小敏は、驚いて声を上げてしまった。
「なんですか?自宅ではなく、唐煜瑾の待つ嘉里公寓へ送りましょうか?」
からかわれているような気がした小敏だったが、無視するわけにもいかないと、不機嫌な気持ちを隠さずに言った。
「煜瑾と叔母さまが、晩御飯をたくさん作ったから、楊偉さんも誘って下さいって」
「私も?」
目から鼻に抜けるように回転の早い楊偉捜査官ですら、思いがけなかったのか、とぼけたような声を上げた。
「きっと、叔母さま好みのイケメンだからだよ。まったく叔母さまも、いつまでも『夢見る乙女』なんだから…」
不服そうにブツブツ言いながら、小敏はスマホをいじっている。
「で、ボクはどう返事したらいいの?命を狙われているから、煜瑾や叔母さまたちには近寄れない?」
皮肉いっぱいに言う小敏に、楊偉は、秘密めいた、本心が読み取れない薄笑いを浮かべて答えた。
「よろしければ、私もディナーをお相伴したいですね」
そつなくスマートな楊偉の返事に、小敏は相変わらず不機嫌そうな顔をしたまま、親友への返信をした。
***
この日、包文維のクリニックに来た最後のクライアントは、外資系企業に勤める48歳の男性だった。彼は仕事のストレスで不眠症になり、始めは公立病院の心療内科に通院したものの、処方された薬のせいで日常生活に支障が出ることとなった。そのために診察料が倍以上もする包文維のクリニックに転院してきたのだ。
処方薬を弱性のものに替え、後はカウンセリングを繰り返した。少しずつではあるが、クライアントは回復しつつあった。
「前回は、新しいプロジェクトを任されるかもしれないと楽しみにされていましたが、どうですか?」
ストレスを溜めやすいこのクライアントに、新しいプロジェクトは少し心理的負担が重いのではないかと文維は心配していた。
「プロジェクトは上手くいっているんだが、やはりストレスがね…。それでつい、禁煙していたのに、また吸ってしまって…」
他のクライアントたちの多くと同じく、彼もまた真面目な性格だ。一旦は意志の力で禁煙した煙草を吸い始めたことに罪悪感を抱いていた。
「包医生、同僚に聞いたんだけど、催眠術で禁煙できるんだよね」
文維は仮面のように穏やかな表情を浮かべていたが、一瞬その顔が硬くなった。「催眠術」という言葉が、文維に昨夜の事件を思い出させたのだ。
だがすぐに有能なカウンセラーとしての仮面を取り戻し、誰からも信頼を得る表情で穏やかに聞き返した。
「そうですね。そのような手段も取ることがありますが、絶対ではありませんし、恒久的なものでもありませんよ。期待するような結果を約束出来るものではありません」
慎重に文維が答えると、クライアントはそれでも食い下がった。催眠術という手段を借りて、自分の意思を抑えられるなら、楽をして禁煙が出来ると思っているのだ。
「一度、試してみるくらいなら、どうだろう?」
「まあ、試してみるくらいなら…」
言いかけて、文維はハッとした。
(催眠術を試してみる…?)
何かが全て文維の中で繋がった気がした。
まるで映画のフィルムの逆回転のように、文維の明晰な頭脳が事件を遡った。
ヴィヴィの死。
ボトルクーラーの氷。
夾竹桃の毒。
高血圧の薬。
従弟の羽小敏が、ヴィヴィが舞台上でボトルクーラーから氷を食べるのを目撃した、というのは間違いないだろうと文維は思う。小敏の生来の好奇心や観察力は小さな頃から知っているし、小敏の父であり、文維の伯父でもある羽厳は高位の情報士官で、多少なりともその影響を受けているのも文維は感じていた。
では、なぜ彼女はわざわざステージの上で、氷を食べるなどという行動をとったのだろうか?
恐らくは自分の意思ではなく、「食べさせられた」と考えていいだろう。つまり、誰かに操られていたということだ。
その手段を「催眠術」だとすることは、誰もがすぐに思い付く。彼女の身近には、その催眠術を扱うプロフェッショナルであるDr.Hooという存在もある。
だが専門家の文維は、すぐにそれを自分の中で否定していた。
「唐煜瑾からですか?」
ハンドルを握り、前方を見つめたまま楊偉が指摘したその明敏な反応が、一瞬、羽小敏の神経を逆なでしたが、煜瑾の天使の笑みに癒されて、小敏はなんとか感情を抑えることができた。その時、また着信音が鳴った。
「えっ!」
小敏が返信する前に、煜瑾が追加のメッセージを送ってきた。それを見た小敏は、驚いて声を上げてしまった。
「なんですか?自宅ではなく、唐煜瑾の待つ嘉里公寓へ送りましょうか?」
からかわれているような気がした小敏だったが、無視するわけにもいかないと、不機嫌な気持ちを隠さずに言った。
「煜瑾と叔母さまが、晩御飯をたくさん作ったから、楊偉さんも誘って下さいって」
「私も?」
目から鼻に抜けるように回転の早い楊偉捜査官ですら、思いがけなかったのか、とぼけたような声を上げた。
「きっと、叔母さま好みのイケメンだからだよ。まったく叔母さまも、いつまでも『夢見る乙女』なんだから…」
不服そうにブツブツ言いながら、小敏はスマホをいじっている。
「で、ボクはどう返事したらいいの?命を狙われているから、煜瑾や叔母さまたちには近寄れない?」
皮肉いっぱいに言う小敏に、楊偉は、秘密めいた、本心が読み取れない薄笑いを浮かべて答えた。
「よろしければ、私もディナーをお相伴したいですね」
そつなくスマートな楊偉の返事に、小敏は相変わらず不機嫌そうな顔をしたまま、親友への返信をした。
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この日、包文維のクリニックに来た最後のクライアントは、外資系企業に勤める48歳の男性だった。彼は仕事のストレスで不眠症になり、始めは公立病院の心療内科に通院したものの、処方された薬のせいで日常生活に支障が出ることとなった。そのために診察料が倍以上もする包文維のクリニックに転院してきたのだ。
処方薬を弱性のものに替え、後はカウンセリングを繰り返した。少しずつではあるが、クライアントは回復しつつあった。
「前回は、新しいプロジェクトを任されるかもしれないと楽しみにされていましたが、どうですか?」
ストレスを溜めやすいこのクライアントに、新しいプロジェクトは少し心理的負担が重いのではないかと文維は心配していた。
「プロジェクトは上手くいっているんだが、やはりストレスがね…。それでつい、禁煙していたのに、また吸ってしまって…」
他のクライアントたちの多くと同じく、彼もまた真面目な性格だ。一旦は意志の力で禁煙した煙草を吸い始めたことに罪悪感を抱いていた。
「包医生、同僚に聞いたんだけど、催眠術で禁煙できるんだよね」
文維は仮面のように穏やかな表情を浮かべていたが、一瞬その顔が硬くなった。「催眠術」という言葉が、文維に昨夜の事件を思い出させたのだ。
だがすぐに有能なカウンセラーとしての仮面を取り戻し、誰からも信頼を得る表情で穏やかに聞き返した。
「そうですね。そのような手段も取ることがありますが、絶対ではありませんし、恒久的なものでもありませんよ。期待するような結果を約束出来るものではありません」
慎重に文維が答えると、クライアントはそれでも食い下がった。催眠術という手段を借りて、自分の意思を抑えられるなら、楽をして禁煙が出来ると思っているのだ。
「一度、試してみるくらいなら、どうだろう?」
「まあ、試してみるくらいなら…」
言いかけて、文維はハッとした。
(催眠術を試してみる…?)
何かが全て文維の中で繋がった気がした。
まるで映画のフィルムの逆回転のように、文維の明晰な頭脳が事件を遡った。
ヴィヴィの死。
ボトルクーラーの氷。
夾竹桃の毒。
高血圧の薬。
従弟の羽小敏が、ヴィヴィが舞台上でボトルクーラーから氷を食べるのを目撃した、というのは間違いないだろうと文維は思う。小敏の生来の好奇心や観察力は小さな頃から知っているし、小敏の父であり、文維の伯父でもある羽厳は高位の情報士官で、多少なりともその影響を受けているのも文維は感じていた。
では、なぜ彼女はわざわざステージの上で、氷を食べるなどという行動をとったのだろうか?
恐らくは自分の意思ではなく、「食べさせられた」と考えていいだろう。つまり、誰かに操られていたということだ。
その手段を「催眠術」だとすることは、誰もがすぐに思い付く。彼女の身近には、その催眠術を扱うプロフェッショナルであるDr.Hooという存在もある。
だが専門家の文維は、すぐにそれを自分の中で否定していた。
