第4章 探偵が追っていたもの
新進気鋭のマジシャン、Dr.Hooこと胡双を名乗る、カナダ国籍のドミニク・リュウ・リーは、自分の出生の秘密について、ステージの上の滑らかな弁舌とは裏腹に、慎重に、ゆっくりと話し始めた。
***
私の生まれは、パスポート上、1991年ということになっています。
1990年代の香港は、中国への返還を前に混乱していました。
これは、両親から聞かされたことですが、行政や司法は何もかもが杜撰で、街は混乱し、何も信用できない状態にあったということです。
一国二制度の建前は吹聴されていたものの、誰も信じず、経済的に余裕のある家庭や、海外に親族がいる者は、次々出国をして行ったそうです。
うちの李家もそうでした。
両親は、私が生れた時から移民を考えていたと言っていました。そして、私が4歳の時にカナダへの移民申請が通り、私たち一家はカナダ国籍を取得しました。
両親は投資家で、私は経済的に何ら不自由のない家庭に育ちました。両親は私を愛し、とても大切に育ててくれました。血のつながりが無いと分かった今も、私は2人を家族として愛しているし、2人から受けた愛情を疑ったことはありません。
私たちが香港から脱出した後、香港はますます混沌となり、行方不明になった子供も多いと聞きました。私が、そんな目に遭わず、カナダで暮らせて良かった、と母は私が幼い頃から何度も言っていました。
トーマス・カオは優秀な私立探偵で、香港時代の李家のことから調べ始めました。
そして当時の香港で、中国本土から子供をさらい、海外へ売るという、人身売買組織があった、ということと、当時の李家には「女児」が産まれたという噂を聞きだしてきました。
つまり、私は李家の女児の代わりに大陸から売られてきた子供かもしれないのです。
私が最後にトムから受けた報告では、その頃、人身売買組織は江南地方、つまり上海郊外の貧しい村から子供を買ったり、さらったりしていたらしい、とのことでした。
ちょうどその頃、王淑芬から私の上海公演の話が持ち込まれました。
トムの調査が進む中、私たちは、この上海で合流し、これまでの報告を受ける約束になっていました。
それなのに…。
もう、トムから報告を聞くことはもちろん、あの豪快な笑い声も、涙もろい人の好いところも、何もかも失われてしまったのですね。
***
ドミニク・リーは、トムが調査していた内容を自分の知る限り打ち明けると、心の苦痛に顔を歪め、耐え切れずに隣に座るハワードと抱き合って、声を押し殺して泣いた。
胡双の告白を、黙って聞いていた3人の捜査官たちは、苦々しい表情をしていた。
しばらくの間、重い沈黙が室内に満ちた。
やがて、冷静で、鋭敏な知性を持つ楊偉が静かに口を開いた。
「では、トーマス・カオ氏が追っていたのは、当時の人身売買組織ということですか?」
呉警部と徐凱刑事も、ハッとして顔を見合わせた。
つまり、犯罪組織を追っていた私立探偵が、口封じに殺害された可能性が出てきたのだ。
「私が、その人身売買組織によって上海郊外から、買われたのか、さらわれたのかして、香港の李家に売られた可能性はあるだろうと、最後にトムは言っていました」
苦しそうなドミニクに、徐凱刑事は何か言いたそうだったが、彼の気持ちを察して何も言えなくなった。
人身売買組織に寄って売られた子供、という残酷な生い立ちと、それを追うことで命を奪われた友人…。この2つを抱えるドミニクの痛みは想像を絶していた。
「なら、トーマス・カオ氏を謀殺したのは、人身売買組織ということで捜査を進めるべきでしょうな」
重苦しい空気の中、やれやれというように呉警部が呟いた。
余計なことは言わずに、楊偉捜査官はチラリと視線を送り、すぐに興味を失ったように目を閉じた
「では、私はこれで失礼。そろそろうちの鑑識活動も終わった頃でしょうしな」
薄笑いさえ浮かべて、呉警部は立ち上がった。
「では、浦東の若い刑事さんも頑張りなさい」
階級が上である余裕を見せ、呉警部は自分の管轄の事件とは関係がないとして、ハワードの楽屋を後にした。
「本当に、トムは人身売買組織を追っていて、命を奪われたのでしょうか…」
青い顔をして、ドミニクが楊偉に質問した。彼になら信頼が置けると判断したのだろう。
「それはまだ、可能性の1つでしかありません。こちらの徐凱刑事もその点は承知していて、より広い視野で捜査を進めてくれると思うので、思い詰めないで下さい」
思いやり深い楊偉の語り口に、胡双もハワードも落ち着きを取り戻した。
「私も力を尽くします。ですが、徐凱刑事を信用して下さい。彼なら、必ずあなたたちの親友の命を奪った真犯人を見つけ出してくれますから、安心して下さい」
そう言って、楊偉が徐凱を振り返り、小さく頷いた。
***
私の生まれは、パスポート上、1991年ということになっています。
1990年代の香港は、中国への返還を前に混乱していました。
これは、両親から聞かされたことですが、行政や司法は何もかもが杜撰で、街は混乱し、何も信用できない状態にあったということです。
一国二制度の建前は吹聴されていたものの、誰も信じず、経済的に余裕のある家庭や、海外に親族がいる者は、次々出国をして行ったそうです。
うちの李家もそうでした。
両親は、私が生れた時から移民を考えていたと言っていました。そして、私が4歳の時にカナダへの移民申請が通り、私たち一家はカナダ国籍を取得しました。
両親は投資家で、私は経済的に何ら不自由のない家庭に育ちました。両親は私を愛し、とても大切に育ててくれました。血のつながりが無いと分かった今も、私は2人を家族として愛しているし、2人から受けた愛情を疑ったことはありません。
私たちが香港から脱出した後、香港はますます混沌となり、行方不明になった子供も多いと聞きました。私が、そんな目に遭わず、カナダで暮らせて良かった、と母は私が幼い頃から何度も言っていました。
トーマス・カオは優秀な私立探偵で、香港時代の李家のことから調べ始めました。
そして当時の香港で、中国本土から子供をさらい、海外へ売るという、人身売買組織があった、ということと、当時の李家には「女児」が産まれたという噂を聞きだしてきました。
つまり、私は李家の女児の代わりに大陸から売られてきた子供かもしれないのです。
私が最後にトムから受けた報告では、その頃、人身売買組織は江南地方、つまり上海郊外の貧しい村から子供を買ったり、さらったりしていたらしい、とのことでした。
ちょうどその頃、王淑芬から私の上海公演の話が持ち込まれました。
トムの調査が進む中、私たちは、この上海で合流し、これまでの報告を受ける約束になっていました。
それなのに…。
もう、トムから報告を聞くことはもちろん、あの豪快な笑い声も、涙もろい人の好いところも、何もかも失われてしまったのですね。
***
ドミニク・リーは、トムが調査していた内容を自分の知る限り打ち明けると、心の苦痛に顔を歪め、耐え切れずに隣に座るハワードと抱き合って、声を押し殺して泣いた。
胡双の告白を、黙って聞いていた3人の捜査官たちは、苦々しい表情をしていた。
しばらくの間、重い沈黙が室内に満ちた。
やがて、冷静で、鋭敏な知性を持つ楊偉が静かに口を開いた。
「では、トーマス・カオ氏が追っていたのは、当時の人身売買組織ということですか?」
呉警部と徐凱刑事も、ハッとして顔を見合わせた。
つまり、犯罪組織を追っていた私立探偵が、口封じに殺害された可能性が出てきたのだ。
「私が、その人身売買組織によって上海郊外から、買われたのか、さらわれたのかして、香港の李家に売られた可能性はあるだろうと、最後にトムは言っていました」
苦しそうなドミニクに、徐凱刑事は何か言いたそうだったが、彼の気持ちを察して何も言えなくなった。
人身売買組織に寄って売られた子供、という残酷な生い立ちと、それを追うことで命を奪われた友人…。この2つを抱えるドミニクの痛みは想像を絶していた。
「なら、トーマス・カオ氏を謀殺したのは、人身売買組織ということで捜査を進めるべきでしょうな」
重苦しい空気の中、やれやれというように呉警部が呟いた。
余計なことは言わずに、楊偉捜査官はチラリと視線を送り、すぐに興味を失ったように目を閉じた
「では、私はこれで失礼。そろそろうちの鑑識活動も終わった頃でしょうしな」
薄笑いさえ浮かべて、呉警部は立ち上がった。
「では、浦東の若い刑事さんも頑張りなさい」
階級が上である余裕を見せ、呉警部は自分の管轄の事件とは関係がないとして、ハワードの楽屋を後にした。
「本当に、トムは人身売買組織を追っていて、命を奪われたのでしょうか…」
青い顔をして、ドミニクが楊偉に質問した。彼になら信頼が置けると判断したのだろう。
「それはまだ、可能性の1つでしかありません。こちらの徐凱刑事もその点は承知していて、より広い視野で捜査を進めてくれると思うので、思い詰めないで下さい」
思いやり深い楊偉の語り口に、胡双もハワードも落ち着きを取り戻した。
「私も力を尽くします。ですが、徐凱刑事を信用して下さい。彼なら、必ずあなたたちの親友の命を奪った真犯人を見つけ出してくれますから、安心して下さい」
そう言って、楊偉が徐凱を振り返り、小さく頷いた。
