第4章 探偵が追っていたもの
「そう、とも言えません。トムが、ハワイと、香港で調査をしてくれた結果、私の親族が上海の近くに住んでいたかもしれない…という曖昧なものでした。ちょうどそのタイミングで、プロモーターの王淑芬さんから、今回の上海公演の話が来ました」
誠実な口調で、少しずつ考えながら話す胡双ことドミニク・リーの言葉を、メモを取りながら聞いていた徐凱がその手を止めた。
「香港?」
それをフォローするように、楊偉が後を続けた。
「今のご両親は、香港のご出身ですね。あなたも、プロフィール上は香港生まれのはずですが?」
柔らかい楊偉の態度に、少し胡双も緊張がほぐれた様子で、薄くほほ笑んだ。
「ええ。私は、香港で李家の両親の下に生まれ、6歳で両親とともにカナダに移住しました。ずっとそれに疑いを抱いたことはありませんでした。けれど、大学に進学し、両親から離れた頃から、不思議な夢を見るようになりました」
過去を語り始めた胡双に、呉警部だけはじれったそうに顔を歪めた。
「私は李家の1人息子として、何不自由なく、両親に愛されて育ったと思っています。しかし、夢の中での私は、貧しく、汚れた家や衣類、そして見知らぬ人たちからの虐待とも思える態度、そんな中で、若いというより、当時の私よりも年上だと思うのですが、幼い少女が私をかばってくれる…」
そこまで言って、ドミニク・リーは悲痛な顔つきで唇を噛んだ。
「李家の御曹司が、そんな目に遭うはずはないでしょう?」
生真面目な徐凱刑事が、不思議そうにそう言った。
「私自身、そう思いました。ですが、先程も申し上げた通り、私と父の間に血のつながりがないことが分かった時、この夢がもしかしたら実際にあったことかもしれないと思い始めました」
「!」
思い詰め、厳しい目つきで告白したドミニク・リーに、一同は息を飲んだ。
「ハワードと知り合い、家族のように信頼できるようになった時に、私は以前から気になっていたこの夢の事と、少なくとも父と血がつながっていない可能性について、初めて自分以外の人間に打ち明けました」
悲しそうな笑みを浮かべ、ハワード・ベネット氏の顔を見たドミニク・リーに、楊偉捜査官の通訳を待つまでも無く、ベネット氏は笑みを返し、支えるように胡双の肩を抱いた。
「1人で抱え込むのは、お辛 い事だったでしょう。ハワードさんがいらして、本当に良かったですね」
それを見守りながら、楊偉が言葉をかけると、胡双は潤んだ瞳で大きく頷いた。
「やがてハワードが、古くから昵懇にしていた私立探偵であるトムを紹介してくれたのです。トムに相談すると、両親がカナダに移住する前のことを調べ始めました。私が産まれたのは、中国への香港返還の数年前で、香港は一見穏やかでありながら、その実、混乱していた、と聞いています」
長い英国支配下から中国へと香港が返還されたのは1997年7月1日。
当時、アジアでもトップクラスの自由経済の成功者であった香港が、共産主義下の中国に吸収されるという政変の不安に、人々は駆り立てられた。そんな中、多くの富裕層は海外へ移住を希望した。
中でも英国はじめ、英国連邦に加盟する独立国への移住は優遇措置があり、多くの富裕層たちが、オーストラリアやカナダへと居を移して行ったのだった。
「そんな混乱期の香港では、何が起きても不思議では無かったそうです。両親もそれが心配で、カナダへの移住を決めたと言います。そんな香港で、私を産み、育てるのは無理だと判断したのだ、と両親からは聞かされていましたが…」
「それで、トーマス・カオ氏は、香港で何を見つけられたのですか?」
キッチリと、1つ1つを塗りつぶすように確認していく徐凱刑事の丁寧さに、楊偉捜査官は好感を抱いた。経験さえ積めば、この若い刑事は優秀な捜査官としてなるだろうと確信したのだ。
「香港で、トムは私の出生時を知る人を探しました。両親から、私の香港での出生証明書を見せてもらおうとしましたが、両親がカナダ国籍を取る時に提出したきり、戻って来なかった、と聞かされたのが、どうにも腑に落ちなかったのです」
「出生証明書?」
楊偉は、そこまで聞いて何かに思い至ったように顔色を変え、そして深刻な表情でドミニク・リーの告白の続きを待った。
「トムは、香港に私の出生証明書の閲覧を申告しましたが、すでに海外移住した家族の資料はないと言われたそうです。返還期の動乱時に処分された物も多かったのでしょう」
その頃の香港を知らない楊偉や徐凱は不思議そうにしていたが、当時の記憶が残る呉警部は、難しい顔をして、すっかり黙り込んでいた。
誠実な口調で、少しずつ考えながら話す胡双ことドミニク・リーの言葉を、メモを取りながら聞いていた徐凱がその手を止めた。
「香港?」
それをフォローするように、楊偉が後を続けた。
「今のご両親は、香港のご出身ですね。あなたも、プロフィール上は香港生まれのはずですが?」
柔らかい楊偉の態度に、少し胡双も緊張がほぐれた様子で、薄くほほ笑んだ。
「ええ。私は、香港で李家の両親の下に生まれ、6歳で両親とともにカナダに移住しました。ずっとそれに疑いを抱いたことはありませんでした。けれど、大学に進学し、両親から離れた頃から、不思議な夢を見るようになりました」
過去を語り始めた胡双に、呉警部だけはじれったそうに顔を歪めた。
「私は李家の1人息子として、何不自由なく、両親に愛されて育ったと思っています。しかし、夢の中での私は、貧しく、汚れた家や衣類、そして見知らぬ人たちからの虐待とも思える態度、そんな中で、若いというより、当時の私よりも年上だと思うのですが、幼い少女が私をかばってくれる…」
そこまで言って、ドミニク・リーは悲痛な顔つきで唇を噛んだ。
「李家の御曹司が、そんな目に遭うはずはないでしょう?」
生真面目な徐凱刑事が、不思議そうにそう言った。
「私自身、そう思いました。ですが、先程も申し上げた通り、私と父の間に血のつながりがないことが分かった時、この夢がもしかしたら実際にあったことかもしれないと思い始めました」
「!」
思い詰め、厳しい目つきで告白したドミニク・リーに、一同は息を飲んだ。
「ハワードと知り合い、家族のように信頼できるようになった時に、私は以前から気になっていたこの夢の事と、少なくとも父と血がつながっていない可能性について、初めて自分以外の人間に打ち明けました」
悲しそうな笑みを浮かべ、ハワード・ベネット氏の顔を見たドミニク・リーに、楊偉捜査官の通訳を待つまでも無く、ベネット氏は笑みを返し、支えるように胡双の肩を抱いた。
「1人で抱え込むのは、お
それを見守りながら、楊偉が言葉をかけると、胡双は潤んだ瞳で大きく頷いた。
「やがてハワードが、古くから昵懇にしていた私立探偵であるトムを紹介してくれたのです。トムに相談すると、両親がカナダに移住する前のことを調べ始めました。私が産まれたのは、中国への香港返還の数年前で、香港は一見穏やかでありながら、その実、混乱していた、と聞いています」
長い英国支配下から中国へと香港が返還されたのは1997年7月1日。
当時、アジアでもトップクラスの自由経済の成功者であった香港が、共産主義下の中国に吸収されるという政変の不安に、人々は駆り立てられた。そんな中、多くの富裕層は海外へ移住を希望した。
中でも英国はじめ、英国連邦に加盟する独立国への移住は優遇措置があり、多くの富裕層たちが、オーストラリアやカナダへと居を移して行ったのだった。
「そんな混乱期の香港では、何が起きても不思議では無かったそうです。両親もそれが心配で、カナダへの移住を決めたと言います。そんな香港で、私を産み、育てるのは無理だと判断したのだ、と両親からは聞かされていましたが…」
「それで、トーマス・カオ氏は、香港で何を見つけられたのですか?」
キッチリと、1つ1つを塗りつぶすように確認していく徐凱刑事の丁寧さに、楊偉捜査官は好感を抱いた。経験さえ積めば、この若い刑事は優秀な捜査官としてなるだろうと確信したのだ。
「香港で、トムは私の出生時を知る人を探しました。両親から、私の香港での出生証明書を見せてもらおうとしましたが、両親がカナダ国籍を取る時に提出したきり、戻って来なかった、と聞かされたのが、どうにも腑に落ちなかったのです」
「出生証明書?」
楊偉は、そこまで聞いて何かに思い至ったように顔色を変え、そして深刻な表情でドミニク・リーの告白の続きを待った。
「トムは、香港に私の出生証明書の閲覧を申告しましたが、すでに海外移住した家族の資料はないと言われたそうです。返還期の動乱時に処分された物も多かったのでしょう」
その頃の香港を知らない楊偉や徐凱は不思議そうにしていたが、当時の記憶が残る呉警部は、難しい顔をして、すっかり黙り込んでいた。
