第3章 第2の事件

 高校時代、負けず嫌いの方萌は、学年でもかなり上位の成績だったが、国語のレポートでは「B+」が最高で、どうしても「A」が取れなかった。他の教科は悪くても「A-」、ほとんどが「A+」という優秀な成績だったのに、なぜか国語のレポートだけは「B」だった。
 方萌たちの高校では、若い教師が多い中、国語の文章表現担当は定年前の厳しい女教師だった。ある時、自分よりもずっと成績の悪い、地味なオタクっぽい同級生の女子が、その教師の授業で課された読書感想文で、クラスで唯一の「A」評価を受けたことがあった。そのことが納得できず、授業終了後に血気盛んな方萌は国語の教師に正面から挑んだ。

「どうして私の評価は『B』で、彼女は『A』なんですか!」

 方萌の度胸に驚いた同級生たちは、止めることもせず、息を飲むようにしてその後の展開を見守っている。指名された地味な女学生は、顔を真っ赤にして、恥ずかしそうというよりも悲しそうに俯いていた。

「分からないでしょうね、今のあなたでは…」

 教師は表情を変えることなく、静かに言った。

「この場で、そんなことが言えるあなたには、私が何を評価対象にしているか理解できないことでしょう」

 反射的に方萌は「バカにされた」と思った。クラスだけでなく、学年でもトップを競うほどの優秀な自分を、この教師は気に入らないのだ。だから、こんな風に嫌がらせをするのだ、と方萌は思い込み、口惜しくて唇を噛んだ。

「とても残念です。あなたたちのような多感な年頃に、文学の何たるかを理解してもらえないのは、私の力不足とも言えるでしょう。本当に、残念です」

 教師はそう言って教員控室へと戻っていった。

「大丈夫?」

 声を掛けてきた同級生に、平気なふりをして見せようと笑顔で振り返った方萌だったが、同級生が声を掛けていたのは、あの地味な「A」評価の子だった。
 どうして、自分ではなく、あんな地味な子に同情する必要があるのか、方萌はさらに不愉快になり、そのまま教室を飛び出してしまった。

 行く当てもない放課後のこと、方萌は今さら教室に戻って同級生の顔を見るのもイヤで、仕方なく図書館に向かった。
 出された評価も、教師の態度も、同級生の行動も、何もかもが悔しかった。悔しくて、負けたくなくて、涙目になりながらも、方萌は「文章の書き方」系のマニュアル本を片っ端から集め、1冊ずつメモを取りながら読み始めた。

「熱心だね」

 そんな尋常でない迫力で勉強する方萌に声を掛けてくれたのが、2学年上の徐凱先輩だった。

***

 あの頃とは見た目は変わってしまった徐凱先輩だったが、その眼差しと声の優しさは変わっていなかった。

「昨日の、ここの劇場での事件の担当なの?」
「はい、そうです」

 素直に答えながら、方萌は高校時代の徐凱先輩を思い出し、クスクスと笑ってしまった。
 当時の徐凱は、学生らしく短く刈り込んだ没個性の髪型に、太い黒のフレームのメガネをかけた、ひと目で優等生とは分かるものの、正直「ダサい」としか言いようのない見た目だったのだ。
 それが今では、サラリとした若々しく、清潔感のある髪型は、相変わらず優等生っぽいが、メガネは掛けておらず、色白で育ちが良さそうな爽やかな好青年、と言った感じだ。

「何を笑っているの?」

 不思議そうに徐凱刑事は訊ねるが、方萌は笑って答えない。そのうち、今の状況に気付いた。

「先輩は、ここへ何をしに?」
「ああ。ホテルでハワード・ベネットさんがこちらに居るって聞いたから」
「ベネットさん?」

 思わぬ事件関係者の名前に、方萌は現実に引き戻されたような気がした。

「実は今朝、浦東第3分署の管轄内でアメリカ人の殺害があって、その被害者のパスポートケースに、ベネット氏の名刺が入っていたんだ。被害者のことを何か知っているか、事情を聴きに来たんだけど」
「また、殺人事件ですか!」

 方萌は驚いて声を上げた。ヴィヴィの事件にかかりきりであるうえ、黄浦江の向こうの事件など知る由もなかったのだ。

「昨日、今日と連続しているし、同じ人物が関係者となると、事件そのものの関係性が気になるよね」

 知的な徐凱刑事は断定こそしないが、ヴィヴィの事件と、自分が担当するトーマス・カオという私立探偵殺害の事件が同一犯である可能性を指摘していた。
 方萌もそのことをすぐに察した。

「先輩、まずは私の上司の顧平警部にご紹介しますね。確かにベネットさんも、ここにいらっしゃるんですけど、うちの鑑識が指紋採取に来るので、ちょっとお待ちいただきたいんです」
「鑑識?」

 方萌の言葉に、それまで柔和だった徐凱の表情が固まった。





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