第3章 第2の事件

 ホテルに到着し、金煌麗都劇場へ向かった楊偉捜査官と羽小敏は、劇場のロビーの中心で立ち止まった。

「なんだか、夢を見ていたみたいだね」

 感慨深そうに小敏が言うと、楊偉も無言のまま、ロビーを見回した。今は誰もいないロビーだが、昨夜の着飾った多くの人々が楽しそうに笑いさざめく様子が、楊偉の目には見えているかのようだ。

「夢だったら、良かったのに…」

 ヴィヴィがすでに帰らぬ人となったことを、小敏はそう言って悼んだ。

「さあ、劇場内へ。まずは、小敏さんが見たというボトルクーラーを確認したいですね」
「…うん」

 いつになく言葉少なく、小敏は先に立って劇場に足を踏み入れた。
 照明は落とされていたが、防災用の常夜灯のおかげで、客席はぼんやりと明るい。

「舞台が明るくならないかな」

 小敏が呟くと、それを待っていたように、舞台の上の照明が全開になった。

「うわっ!」
「!」

 まるで魔法のような出来事に、驚いた小敏は声を上げ、思わず楊偉の腕を掴んだ。

「誰だ!」

 しかし楊偉は動じた様子もなく、毅然とした態度で舞台の方に向かって叫ぶ。すると、舞台の下手から、隙の無い身のこなしの女性が現れた。

「警察の方が来られると聞いて、立ち合いに来たのですわ。あなた方が、警察の方ですの?」

 眩しそうに眼を細めた王淑芬が、楊偉と彼に縋りつく小敏に問いかけた。羽小敏とは面識があるはずだが、舞台が明るすぎて、客席にいる人物の顔は確認できないのだ。

「私は、警察ではなく、国家安全局国際部の者です。アメリカ大使館からの委任を受けて、今回の事件を調査に来ました」

 楊偉の整った容姿や、上品な身のこなしに警戒を解いたらしく、王淑芬は有能なプロモーターらしい、ビジネス用の張り付いた笑顔を浮かべた。

「アメリカ大使館の…」

 そう言いながら、王淑芬は舞台の中央まで進み出た。小敏はその姿に、まるで主演女優のようだ、と思った。

「舞台は、そのままですか?」

 楊偉の質問に、王淑芬の張り付いた笑顔がすぐに曇った。

「そうだと申し上げたいところですが、警察の方がさんざん荒らして行かれましたわ」

 彼女は、鑑識活動のことを言っているのだろうが、「荒らした」と言うのは、彼女なりに不満があるのだろう。

「何か、間違いでもありましたか?」

 楊偉は本領を発揮したように、その美貌を武器に、甘く優しい声や仕草で、王淑芬に対し、大いに同情的に声を掛ける。

「そうなんですの。ここはDr.Hooのサイコロジカルイリュージョンのステージの上なんですよ。それなのに、勝手にアチコチ触ったり、移動させたり…。彼のショーには、彼のオリジナルの秘密がたくさんあるって言うのに…。1つでも外に漏れたりしたら、どれほどの損害になるか!」
「なるほど。それは配慮に欠けた行動でしたね」

 いつの間にか、楊偉はステージに近付き、ゆっくりと階段を上がり、王淑芬の隣にいた。

「警察の者が、非常にご迷惑をお掛けしました。私は、警察とは違い、あくまでも外国の大使館の依頼で調査しているので、あなたのご都合は尊重いたします」

 紳士的で、親切な捜査官に好感を持ったのか、仕事が出来る王淑芬は、楊偉を受け容れ、舞台上を案内した。

「彼女は、ここに倒れたのですわ」

 悲痛な表情で王淑芬は言って、足元を見つめた。そこには、警察が付けたと思われる、人体をかたどった白線が残されていた、

「残念です」

 言葉少なく言って、楊偉はさりげなく王淑芬の背中に労わるように手を置いた。

「ご心労、お察しします」
「ありがとう。そんな風に言って下さったの、あなたが初めてだわ…」

 すっかり楊偉に気を許したらしい王淑芬は、先程までの仮面のような笑顔から、柔らかな微笑みに変わっていた。

「彼女とは、半年前にアメリカのラスベガスで会いました。ハワード・ベネットに、『サイコロジカルイリュージョン』のショーをこの劇場でやりたいと交渉に行った時です。ちょうどラスベガスでの契約が終わる1ヶ月前のことで、その後は、しばらく休養を取る、とのことでした」

 王淑芬は、初対面の時のハワードや、胡双やヴィヴィのことを追想しながら、淡々と語った。それを思いやり深い態度で聞き入っている楊偉をよそに、小敏は周囲を見回した。

 このステージの板の上に、叔父や叔母も立っていたのだ、と小敏は思い出してゾッとした。
 その同じ板の上に、死体が転がっていたのだ。「死」を、忌まわしいものとして嫌うのは、迷信深い人間だけではない。
 小敏は、舞台の上から客席を見た。ステージ上が明るすぎて、客席の様子は良く見えないが、自分たちが座っていた桟敷席「梅香室」の位置は分かる。あの場所から、ここを見下ろし、おそらくは小敏だけが決定的な瞬間を見ていたのだ。







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