プロローグ
大いに盛り上がった女性司会者の番組が終わり、一同は改めて食事に戻った。
「ほら、出来立ての蟹味噌豆腐だよ」
包教授自らが運んで来たのは、教授のお得意のメニューだった。もちろん、恭安楽も、文維も、小敏も、そして煜瑾も大好物と言ってよい。
「ところで、そのショーは、いつ、どこであるの?」
濃厚で、コクがあり、まろやかな口当たりの蟹味噌豆腐を満足そうに味わい、紹興酒があればいいのに、と心の中で思いつつ、恭安楽が訊ねた。
「南京西路の、上海華茂麗都大酒店 内の劇場が改装して、新装オープンするんです。その杮落し公演が、このDr.Hooの『サイコロジカルイリュージョン』ショーなんですよ」
「ああ、あの劇場やら、高級スーパーやらが入ってる大きなホテルね」
文維の説明に、包夫人も思い当たるようでフンフンと首を振った。
「あのホテルのラウンジのケーキ、美味しいんだよね」
小敏が、隣の煜瑾に確認するように言うと、煜瑾も嬉しそうに大きく頷いた。
ショッピングセンターやボーリング場、劇場などを抱える、上海随一の大規模エンタメ型高級ホテルである「上海華茂麗都大酒店」は、欧米系のゲストが多いことで知られている。彼らの期待に応えるよう、この数年来ホテル側はあちこち少しずつ改装を進めていた。
今回特に期待を集めていたのは劇場の再オープンだ。改装は、欧米人のゲストを意識して、ラスベガスのショーを再現出来るほどの規模と最新式の装置を備えた大型劇場にするものだった。
「なんでも、このDr.Hooという人は、ラスベガスでショーをしたらしいね」
無口な教授はそれだけをポツリと言って、愛妻のために蟹味噌豆腐を取り分けた。ペロリと食べ終えていた包夫人は、足された蟹味噌豆腐に幸せそうだ。
「ラスベガスか~。かなりの実力者ってことだね。楽しみだな~」
小敏は、待ち切れない様子でそう言った。
「中国人ではないのですか?」
世間の流行や噂に疎い煜瑾が、純真な眼差しで文維に問いかける。生真面目な煜瑾を納得させたくて、文維は依頼を受けたプロモーターから渡された資料を取りに、一度立ち上がった。
「出身は香港で、ご両親も香港人だそうです。小さい時に一家揃ってカナダに移住して、今はカナダ国籍だそうですよ」
資料を読みながら文維は煜瑾の隣に戻り、その紙束を、興味深そうな恋人に渡した。
「その後、アメリカの大学を出て…」
スラスラと資料の内容を話し始める文維に、煜瑾は目を見張る。
「文維は…もうこれだけの資料を全部暗記しているのですか!」
ざっと煜瑾が確認しただけでも、10ページは越す資料だ。もちろん、画像なども入っているが、これだけの英語のテキストを受け取って数日で、全部を頭に入れている文維の聡明さに、煜瑾はまた心を奪われてしまう。
文維は何も言わずに、うっとりしている煜瑾を優しく見つめ、言葉を続けた。
「アメリカの大学で心理学を学び、その後マジックの専門学校も卒業しているそうだよ」
包教授以外は、ふ~んといった顔で聞いていた。
「劇場の名前も一新したんだって!」
こまめな小敏は、文維の話を聞きながらも素早くスマホでネット検索をしていた。
「そうよね~この前までの劇場は、主に観光客向けで、雑技ばっかり上演していてつまらなかったわ。それよりもっと前は、劇場じゃなくて、ダンスホールだったのよ」
恭安楽は往時を懐かしむように言い、同意を求めるように包教授に視線を送り、教授は紳士的で温厚な笑みで頷いた。
「今度の劇場は『金煌麗都劇場 』になったんだって」
「まあ、『金煌 』って、昔のダンスホールの名前よ!まるで昔に戻ったみたい。ステキね~」
文革後、上海の文化的回復の象徴だったダンスホールは、北京から押しかけるように包教授のもとに嫁いできた恭安楽にとって、当時唯一の娯楽だった。清貧の大学教授の妻として、日頃は慎ましく暮らしていたが、週末の土曜の夜だけは、包教授のエスコートでダンスホールに通ったのだ。
その夜の数時間だけ、何不自由なく、ただ楽しく暮らした北京での娘時代に戻れた。
包教授もまた、たった1人で何もかもを捨てて上海まで来てくれた恭安楽が寂しくないようにと、せめて華やかなダンスホールでの夜だけは心から楽しんで欲しかった。
その後すぐに文維が産まれ、甥の小敏を引き取り、週末のダンスホールでのデートなど出来るはずもなく、そうするうちに劇場は、海外からの観光客向けの雑技中心の大型劇場に改装され、恭安楽が懐かしい劇場に足を運ぶことは無くなった。
「わあ、今度の客席は、普通の劇場っぽい客席の他に、ラスベガス風のテーブル席や、パリのオペラ座風の桟敷席もあるんだって。カッコイイな~」
劇場の見取り図までも確認していた小敏の言葉に、煜瑾はアッと思い出したようにチケットを取り出した。
「これ、お兄さまにいただいた招待券ですよ。桟敷席って書いてあります」
「え!本当?」
「私と煜瑾は、招待席なので、前の客席の中央ですね。舞台が良く見える位置ですよ」
文維の言葉に、煜瑾は嬉しくて子供のようにニコニコしている。
「私たちは…テーブル席のようだね」
包教授も、先ほどDr.Hooから直接受け取ったチケットを確認してそう言った。
「え~、じゃあ、ステージに上がれないわね、きっと」
時間的に、ステージに上がるのは、前方の客席からだと恭安楽は決めつけていた。
「みんな、それぞれ違う角度からマジックが観られるね。誰かがマジックのネタを見抜くことが出来るかもよ」
小敏がそう言っていたずらっ子のように笑うと、煜瑾も好奇心いっぱいに目を輝かせた。
「お食事は、ショーの後にしましょう!終わってから、みんなで食卓を囲んで、マジックのネタについて、それぞれのご意見が聞きたいです」
「そしてもちろん、『専門家』である文維のご意見を拝聴するんだね」
小敏がちょっぴり皮肉を込めて言うが、煜瑾はそれすら気付かぬ心の清らかさだ。
「そうですね!何より文維の意見が楽しみです!」
無垢な煜瑾に、誰もが頬を緩める。
その心の純真さで、周囲の者を癒す力を、煜瑾は確かに持っていた。
「家族みんなで、揃って同じショーを見て、一緒に食卓を囲んで…。これ以上に完璧な清明節はないわよ」
包夫人が勝ち誇ったように言うと、みんな一斉に声を上げて笑った。
美味しい物に囲まれ、愛する人たちがそこに居て、ただ、楽しくて…。
これ以上は無いほどの幸せな食卓に、気持ちが抑えきれずに煜瑾は文維に抱き付き、文維は優しく口づけをした。
こうして、家族団欒の中、今年の清明節は終わりを告げようとしていた。
《本編に続く》
「ほら、出来立ての蟹味噌豆腐だよ」
包教授自らが運んで来たのは、教授のお得意のメニューだった。もちろん、恭安楽も、文維も、小敏も、そして煜瑾も大好物と言ってよい。
「ところで、そのショーは、いつ、どこであるの?」
濃厚で、コクがあり、まろやかな口当たりの蟹味噌豆腐を満足そうに味わい、紹興酒があればいいのに、と心の中で思いつつ、恭安楽が訊ねた。
「南京西路の、
「ああ、あの劇場やら、高級スーパーやらが入ってる大きなホテルね」
文維の説明に、包夫人も思い当たるようでフンフンと首を振った。
「あのホテルのラウンジのケーキ、美味しいんだよね」
小敏が、隣の煜瑾に確認するように言うと、煜瑾も嬉しそうに大きく頷いた。
ショッピングセンターやボーリング場、劇場などを抱える、上海随一の大規模エンタメ型高級ホテルである「上海華茂麗都大酒店」は、欧米系のゲストが多いことで知られている。彼らの期待に応えるよう、この数年来ホテル側はあちこち少しずつ改装を進めていた。
今回特に期待を集めていたのは劇場の再オープンだ。改装は、欧米人のゲストを意識して、ラスベガスのショーを再現出来るほどの規模と最新式の装置を備えた大型劇場にするものだった。
「なんでも、このDr.Hooという人は、ラスベガスでショーをしたらしいね」
無口な教授はそれだけをポツリと言って、愛妻のために蟹味噌豆腐を取り分けた。ペロリと食べ終えていた包夫人は、足された蟹味噌豆腐に幸せそうだ。
「ラスベガスか~。かなりの実力者ってことだね。楽しみだな~」
小敏は、待ち切れない様子でそう言った。
「中国人ではないのですか?」
世間の流行や噂に疎い煜瑾が、純真な眼差しで文維に問いかける。生真面目な煜瑾を納得させたくて、文維は依頼を受けたプロモーターから渡された資料を取りに、一度立ち上がった。
「出身は香港で、ご両親も香港人だそうです。小さい時に一家揃ってカナダに移住して、今はカナダ国籍だそうですよ」
資料を読みながら文維は煜瑾の隣に戻り、その紙束を、興味深そうな恋人に渡した。
「その後、アメリカの大学を出て…」
スラスラと資料の内容を話し始める文維に、煜瑾は目を見張る。
「文維は…もうこれだけの資料を全部暗記しているのですか!」
ざっと煜瑾が確認しただけでも、10ページは越す資料だ。もちろん、画像なども入っているが、これだけの英語のテキストを受け取って数日で、全部を頭に入れている文維の聡明さに、煜瑾はまた心を奪われてしまう。
文維は何も言わずに、うっとりしている煜瑾を優しく見つめ、言葉を続けた。
「アメリカの大学で心理学を学び、その後マジックの専門学校も卒業しているそうだよ」
包教授以外は、ふ~んといった顔で聞いていた。
「劇場の名前も一新したんだって!」
こまめな小敏は、文維の話を聞きながらも素早くスマホでネット検索をしていた。
「そうよね~この前までの劇場は、主に観光客向けで、雑技ばっかり上演していてつまらなかったわ。それよりもっと前は、劇場じゃなくて、ダンスホールだったのよ」
恭安楽は往時を懐かしむように言い、同意を求めるように包教授に視線を送り、教授は紳士的で温厚な笑みで頷いた。
「今度の劇場は『
「まあ、『
文革後、上海の文化的回復の象徴だったダンスホールは、北京から押しかけるように包教授のもとに嫁いできた恭安楽にとって、当時唯一の娯楽だった。清貧の大学教授の妻として、日頃は慎ましく暮らしていたが、週末の土曜の夜だけは、包教授のエスコートでダンスホールに通ったのだ。
その夜の数時間だけ、何不自由なく、ただ楽しく暮らした北京での娘時代に戻れた。
包教授もまた、たった1人で何もかもを捨てて上海まで来てくれた恭安楽が寂しくないようにと、せめて華やかなダンスホールでの夜だけは心から楽しんで欲しかった。
その後すぐに文維が産まれ、甥の小敏を引き取り、週末のダンスホールでのデートなど出来るはずもなく、そうするうちに劇場は、海外からの観光客向けの雑技中心の大型劇場に改装され、恭安楽が懐かしい劇場に足を運ぶことは無くなった。
「わあ、今度の客席は、普通の劇場っぽい客席の他に、ラスベガス風のテーブル席や、パリのオペラ座風の桟敷席もあるんだって。カッコイイな~」
劇場の見取り図までも確認していた小敏の言葉に、煜瑾はアッと思い出したようにチケットを取り出した。
「これ、お兄さまにいただいた招待券ですよ。桟敷席って書いてあります」
「え!本当?」
「私と煜瑾は、招待席なので、前の客席の中央ですね。舞台が良く見える位置ですよ」
文維の言葉に、煜瑾は嬉しくて子供のようにニコニコしている。
「私たちは…テーブル席のようだね」
包教授も、先ほどDr.Hooから直接受け取ったチケットを確認してそう言った。
「え~、じゃあ、ステージに上がれないわね、きっと」
時間的に、ステージに上がるのは、前方の客席からだと恭安楽は決めつけていた。
「みんな、それぞれ違う角度からマジックが観られるね。誰かがマジックのネタを見抜くことが出来るかもよ」
小敏がそう言っていたずらっ子のように笑うと、煜瑾も好奇心いっぱいに目を輝かせた。
「お食事は、ショーの後にしましょう!終わってから、みんなで食卓を囲んで、マジックのネタについて、それぞれのご意見が聞きたいです」
「そしてもちろん、『専門家』である文維のご意見を拝聴するんだね」
小敏がちょっぴり皮肉を込めて言うが、煜瑾はそれすら気付かぬ心の清らかさだ。
「そうですね!何より文維の意見が楽しみです!」
無垢な煜瑾に、誰もが頬を緩める。
その心の純真さで、周囲の者を癒す力を、煜瑾は確かに持っていた。
「家族みんなで、揃って同じショーを見て、一緒に食卓を囲んで…。これ以上に完璧な清明節はないわよ」
包夫人が勝ち誇ったように言うと、みんな一斉に声を上げて笑った。
美味しい物に囲まれ、愛する人たちがそこに居て、ただ、楽しくて…。
これ以上は無いほどの幸せな食卓に、気持ちが抑えきれずに煜瑾は文維に抱き付き、文維は優しく口づけをした。
こうして、家族団欒の中、今年の清明節は終わりを告げようとしていた。
《本編に続く》
