第3章 第2の事件
スイートルームの寝室に一歩足を踏み入れ、徐凱刑事はそこが「現場」だと知った。
使用された形跡のない、きちんと整えられたままのベッドの向こう側の床には、中年の男性が倒れていた。
「宿泊客に、間違いはありませんか?」
ジッと死体を見つめながら、徐凱は丁副支配人に確認を求めた。
「はい。宿泊者名簿によりますと、こちらの方はハワイからお越しのトーマス・カオ様。アメリカ国籍で、2日前にチェックインなさいました」
「中国人じゃなかったのか…」
床に倒れている人物の、その見た目に、思わず徐凱は口に出していた。
「はい。ハワイ出身の中国系アメリカ人とのことで、中国語も流暢にお話でしたが、少し上海訛がおありでした。なんでも祖父母の代に上海からハワイへ移住されたとかで。その祖父母に育てられたので、上海訛があるとおっしゃっていました」
徐凱が必要とする情報を、丁副支配人はきちんと答えてくれた。
「発見時の状況から、お願いできますか?」
そう言って、徐凱は周辺を調べ始めた。
ベッドサイドには半分ほど水が残ったグラスが乗っている。床には死体の周囲に幾枚かのメモが落ちていた。それらを動かないように気を付け、徐凱は目を通す。もしそこに遺書的な内容があれば、これは自殺となり、殺人課が出向く事件ではなくなるからだ。
「はい。11時に、ルームキーパーが掃除に参りました。入室拒否の表示が出ていなかったので、マスターキーで部屋に入り、いつものように、バスルームから掃除を始め、リビング、寝室と順番に回ってきて…、その…見つけたと、いうことです」
遺書を見つけられなかった徐凱は、少し残念に思いながら立ち上がった。
「あとで、その掃除係の方とお話しできますか?」
「もちろんです。あちらに待たせております」
どうしたものかと、徐凱は迷った。現時点では自殺だとも、事件だとも確信が持てない。
その時、警察支給のスマホが鳴った。
〈どうだ、そっちは〉
殺人課の先輩刑事だった。
「今のところ、なんとも言えませんね。自殺の可能性もありますが、それを示す物証がありません」
徐凱は正直に答えた。
〈なら、すぐに鑑識を要精しろよ。今、手が空いている刑事はお前だけだ。そこの仕切は任せたぞ〉
そう言って、先輩刑事は薄笑いをして電話を切った。
初めての一人での初動捜査である。
徐凱は緊張したが、どこかで冷静な自分にも気付いていた。
「まもなく、署のほうから鑑識が来ます。それまで、この部屋は封鎖して下さい。廊下やエレベータ、ロビーなどの監視カメラの提出をお願いします」
徐凱は、淡々と教科書通りに話を進めた。
「鑑識が来るまでに、掃除係の人と話をさせて下さい」
「分かりました。こちらに呼べばよろしいですか?」
丁副支配人の言葉に、少し迷った徐凱だったが、すぐに決断を下した。
「ええ。ただ、こちらの寝室には立ち入らないようにして、あちらの居間の方でお話を聞きます」
そう言いながら、丁副支配人を促しながら、徐凱も死体がある寝室を出た。
丁副支配人は、ドアの前に立つガードマンに声を掛けて、掃除係を呼ぶように伝えると、不安そうに徐凱を見た。
「このフロアのお客様に、このことはお伝えすべきでしょうか」
意外な質問に、徐凱は戸惑った。教科書に無いようなことは苦手なのだ。
「今は、まだ必要ないと思いますが…。もしも、自殺では無く、事件となれば、事情聴取もあり得ると思います」
徐凱の返答に、副支配人は顔色を変えた。そして、慌てて声を潜めて、徐凱に詰め寄った。
「それは、殺人事件、ということですか!」
それには答えず、徐凱は無言で頷いた。
***
「文維!」
お昼休みになり、徒歩10分の距離にあるクリニックから、約束通りに恋人が帰って来たのを、煜瑾は嬉々として出迎えた。
「もうすっかり元気なようですね」
文維もまた嬉しそうに、人目も気にせず煜瑾を抱き寄せ、額に手を当てて熱が無い事を確かめた。
「文維、お客様がいらしているの。一緒に昼食をいただきながら、お話をすればいいわ」
仲の良い文維と煜瑾を微笑ましそうに見守っていた恭安楽が、そう声を掛けた。
「お客様…ですか」
見た目は紳士的で穏やかな表情を浮かべながら、文維の視線は鋭く相手を観察していた。
「包文維先生ですね。お噂はかねがね…。私は、国家安全局国際部から来ました、楊偉と言います」
立ち上がった楊偉から視線を逸らすことなく、ビジネススマイルとでもいうような意味の無い笑顔で、文維は楊偉が差し出した手を握り返した。
そして、握手をしたまま、改めて自分から名乗った。
「初めまして。包文維です」
それだけで煜瑾は頬を染める。文維のスマートな態度や艶やかな声が、いつでも煜瑾をドキドキさせるのだ。
使用された形跡のない、きちんと整えられたままのベッドの向こう側の床には、中年の男性が倒れていた。
「宿泊客に、間違いはありませんか?」
ジッと死体を見つめながら、徐凱は丁副支配人に確認を求めた。
「はい。宿泊者名簿によりますと、こちらの方はハワイからお越しのトーマス・カオ様。アメリカ国籍で、2日前にチェックインなさいました」
「中国人じゃなかったのか…」
床に倒れている人物の、その見た目に、思わず徐凱は口に出していた。
「はい。ハワイ出身の中国系アメリカ人とのことで、中国語も流暢にお話でしたが、少し上海訛がおありでした。なんでも祖父母の代に上海からハワイへ移住されたとかで。その祖父母に育てられたので、上海訛があるとおっしゃっていました」
徐凱が必要とする情報を、丁副支配人はきちんと答えてくれた。
「発見時の状況から、お願いできますか?」
そう言って、徐凱は周辺を調べ始めた。
ベッドサイドには半分ほど水が残ったグラスが乗っている。床には死体の周囲に幾枚かのメモが落ちていた。それらを動かないように気を付け、徐凱は目を通す。もしそこに遺書的な内容があれば、これは自殺となり、殺人課が出向く事件ではなくなるからだ。
「はい。11時に、ルームキーパーが掃除に参りました。入室拒否の表示が出ていなかったので、マスターキーで部屋に入り、いつものように、バスルームから掃除を始め、リビング、寝室と順番に回ってきて…、その…見つけたと、いうことです」
遺書を見つけられなかった徐凱は、少し残念に思いながら立ち上がった。
「あとで、その掃除係の方とお話しできますか?」
「もちろんです。あちらに待たせております」
どうしたものかと、徐凱は迷った。現時点では自殺だとも、事件だとも確信が持てない。
その時、警察支給のスマホが鳴った。
〈どうだ、そっちは〉
殺人課の先輩刑事だった。
「今のところ、なんとも言えませんね。自殺の可能性もありますが、それを示す物証がありません」
徐凱は正直に答えた。
〈なら、すぐに鑑識を要精しろよ。今、手が空いている刑事はお前だけだ。そこの仕切は任せたぞ〉
そう言って、先輩刑事は薄笑いをして電話を切った。
初めての一人での初動捜査である。
徐凱は緊張したが、どこかで冷静な自分にも気付いていた。
「まもなく、署のほうから鑑識が来ます。それまで、この部屋は封鎖して下さい。廊下やエレベータ、ロビーなどの監視カメラの提出をお願いします」
徐凱は、淡々と教科書通りに話を進めた。
「鑑識が来るまでに、掃除係の人と話をさせて下さい」
「分かりました。こちらに呼べばよろしいですか?」
丁副支配人の言葉に、少し迷った徐凱だったが、すぐに決断を下した。
「ええ。ただ、こちらの寝室には立ち入らないようにして、あちらの居間の方でお話を聞きます」
そう言いながら、丁副支配人を促しながら、徐凱も死体がある寝室を出た。
丁副支配人は、ドアの前に立つガードマンに声を掛けて、掃除係を呼ぶように伝えると、不安そうに徐凱を見た。
「このフロアのお客様に、このことはお伝えすべきでしょうか」
意外な質問に、徐凱は戸惑った。教科書に無いようなことは苦手なのだ。
「今は、まだ必要ないと思いますが…。もしも、自殺では無く、事件となれば、事情聴取もあり得ると思います」
徐凱の返答に、副支配人は顔色を変えた。そして、慌てて声を潜めて、徐凱に詰め寄った。
「それは、殺人事件、ということですか!」
それには答えず、徐凱は無言で頷いた。
***
「文維!」
お昼休みになり、徒歩10分の距離にあるクリニックから、約束通りに恋人が帰って来たのを、煜瑾は嬉々として出迎えた。
「もうすっかり元気なようですね」
文維もまた嬉しそうに、人目も気にせず煜瑾を抱き寄せ、額に手を当てて熱が無い事を確かめた。
「文維、お客様がいらしているの。一緒に昼食をいただきながら、お話をすればいいわ」
仲の良い文維と煜瑾を微笑ましそうに見守っていた恭安楽が、そう声を掛けた。
「お客様…ですか」
見た目は紳士的で穏やかな表情を浮かべながら、文維の視線は鋭く相手を観察していた。
「包文維先生ですね。お噂はかねがね…。私は、国家安全局国際部から来ました、楊偉と言います」
立ち上がった楊偉から視線を逸らすことなく、ビジネススマイルとでもいうような意味の無い笑顔で、文維は楊偉が差し出した手を握り返した。
そして、握手をしたまま、改めて自分から名乗った。
「初めまして。包文維です」
それだけで煜瑾は頬を染める。文維のスマートな態度や艶やかな声が、いつでも煜瑾をドキドキさせるのだ。
