第2章 事件勃発

 しばらくして、茅執事が寝室から出てきた。

「煜瑾は?」

 一番に声を掛けたのは、もちろん兄の唐煜瓔だ。
 キッチンでお茶を淹れていた恭安楽は、見えないことをいいことに、肩を竦めてクスクスと笑った。

「煜瑾坊ちゃまは、すっかり良くなられたとおっしゃって、今はお風呂に。身支度を整えたらこちらに来られるとのことです」

 執事の言葉に安堵して、ようやく唐煜瓔は笑顔になって、向かい側に座った小敏を見た。

「心配はいらないですよ、お兄さま。煜瑾も、随分と強くなりましたから」

 繊細で頼りなげな弟が心配でならない唐煜瓔に、小敏は人タラシと呼ばれる無邪気な笑顔でそう言った。その笑顔には、人を説得するような何かがあるのだ。唐煜瓔もその笑顔にほだされたのか、煜瑾が自分の手元を離れて、大人になったことを受け容れようとしていた。

 その時、内線電話が鳴った。これは入口のコンシェルジュから、住人へ訪問者があることを知らせるものだった。

「あ、私が…」

 壁にかけられた内線電話の近くに立っていた茅執事が受話器を取った。
 この高級レジデンスの一室を、唐煜瓔が弟の「遊び場」として借り与えて以来、煜瑾に付き添い、何度も出入りしている執事は、複数いるコンシェルジュたちとも懇意で、やり取りにも慣れているのだ。

「はい。はいそうです。ええ。……はあ」

 何があったのか、茅執事は怪訝そうな顔をしながら小敏の方を見た。
 この2人は、どちらも煜瑾を大切に思っているという共通点がありながら、互いに相手を「煜瑾に悪影響を及ぼす敵」のように見ている。表立ってぶつかるわけではないが、なんとなく犬猿の仲といった空気が流れているのだった。

「コンシェルジュから、羽小敏さまに来客とのことです」
「ボクに?」

 キョトンとしたあどけなさを感じさせる小敏に、苦い思いをしながらも、それを隠して茅執事は頷いた。

「じゃあ…、下のロビーに行って来るよ」

 そう言って立ち上がろうとした小敏を、ちょうど寝室から出てきた煜瑾が引き留めた。

「こちらに来てもらえばいいですよ」

 ニッコリした煜瑾は、小ざっぱりした水色のボタンダウンのシャツに、紺色のデニムで現れた。若々しく爽やかで、煜瑾をこの上なく健全な青年に見せて、とても好感が持てる服装だが、保守的な茅執事は気に入らなかった。彼にとって「デニム」とは、あくまでも労働者階級が着るもので、唐家の御曹司には相応しくないと思っていた。

「大事なお話なら、ゲストルームを使えばいいのだし」

 相変らずの煜瑾の天使の心に癒しを感じながらも、小敏は警戒心を解こうとはしなかった。

「で、一体誰なの?」

 小敏が茅執事に訊ねると、すでに茅執事は電話の向こうに問い合わせていた。

「お客さまは、軍からお越しの楊偉、という方だそうです。お知り合いで?」
「さあ?覚えが無いけど…。うちのパパのお使いかもしれないね。身分証を確認した上で、ここに来てもらってよ」

 小敏がそう言うと、茅執事は不服そうにそれをコンシェルジュに伝えた。

「よく分からない人間が、煜瑾坊ちゃまのお部屋に来るとは…」

 茅執事の苦言には慣れているのか、煜瑾、煜瓔兄弟は顔を見合わせて、ちょっと困ったような顔をして笑った。

 しばらくすると、煜瑾たちのいる部屋の玄関チャイムが鳴った。

 対応しようと玄関に向かった茅執事を押しとどめ、先に小敏が玄関のドアの前に立った。そして、ドアスコープから覗いて、相手を確認した。

「お!」

 そこに居たのは、小敏でさえ思わず声を上げるほどの美男だった。
 185cmはある高身長に、細身ではあるがしっかりした肩幅と胸板が分かる、漆黒のスリムなスーツ姿だ。完璧と言えるほどの姿勢の良さに、銀縁のクールな眼鏡をかけているが、そのレンズに触れそうなほどの長い睫毛が印象的だった。
 そして、立っているだけで感じさせるこの隙の無さに、小敏は彼が確かに軍から来た人間だと確信した。

「お待たせ!楊偉さんだっけ?初めまして、だよね」

 相手が何者か分からない時は、先手必勝だと小敏は知っていた。玄関のドアを開けるなり、人好きのする笑顔を浮かべ、畳みかけるように話しかけると、小敏は相手の出方を試そうとした。

「ご無沙汰しております、羽小敏さん」

 だが、相手は少しも動じず、感情の見えない、張り付いたような薄笑いを浮かべて、そう言った。

「え?前に会ったっけ?」

 人の顔の覚えがいい小敏は、この冷酷ささえ感じさせるシャープな美貌に覚えが無く、困惑する。
 楊偉は片腕にかけたベージュのコートを、思わせぶりに持ち替えた。その洗練された仕草が、モデルのように美しく、ますます小敏は、覚えが無いことを不思議に思った。

(これだけのイケメンだよ?一度見たら忘れないと思うんだけど…)

「中に、入れていただいても?」

 低音の少し鼻に掛かった甘い色気の強い声音で、楊偉は聞いた。






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